表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/69

第41話

 会議は、私が考えている以上に長引いた。


 もう決定事項が多いとはいえ、出版する物語は長編なので何冊かに分けて出版さことになり、プロジェクトも長期に渡ることになりそうだ。社運を賭けた・・・と言ったら大げさだけど、外国書籍を主に扱う編集部としては大きな仕事であることには変わらない。


 いずれにしても、私が翻訳をしている間にも、他の部門が動いているし、対外的には、最初の一冊目の翻訳が終わらないと何も公表できない・・・そう言う状況だった。なるべく早いうちに翻訳を完成させて、プロジェクトを進行させたい・・・改めてそう思った。


 会議が全て終わったのはお昼近くで、終わったときは疲労感でぐったりしていた。知らないうちにプロジェクトの中心に連れていかれたような"君が急がないと、プロジェクト進行はどんどん遅くなるんだぞ"という、周囲からの無言のプレッシャーが強かった。


 むろん、今まで翻訳の締め切りを破ったことなど一度もないし、今回もそのつもりはさらさらない。けれど、これだけのプレッシャーの抱えて翻訳をしたことなど、過去にあっただろうか・・・?


 会議室からは、続々と人が出てゆく中、私は座ったまま、そのプロジェクト資料を見ていた。


「沙織ちゃん、どうした?」


 すると、中田さんが近づいてきて、プロジェクト資料を覗き込んだ。


「プレッシャー感じているんです。これでも・・・」


「そうだよなぁ・・・今回のプロジェクト、沙織ちゃんの翻訳頼りな所あるもんなぁ・・・俺だって、沙織ちゃんの翻訳が進まないと挿絵、書けないもんなぁ」


 そう・・・中田さんの挿絵だって、私の翻訳が進まないと始まらない。責任重大だ。


「とりあえず、さ。午後、ちょっと打ち合わせしないか? 話の大筋だけでも、翻訳者の口から聞きたいこともあるんだ。沙織ちゃんの事だから、原文は読破したんだろ?


「もちろん!」


 原文はもう読み終わっている。大体のあらすじの説明も出来る。そのあらすじが、中田さんの仕事に役立つなら、いくらでも話そう。


「でも、ま、とりあえず・・・さ、

 腹減ったから、一緒にメシいかないか?

 今日の午後、空いてる?」


「大丈夫です!

 今日は、この会議のために出社したようなものなんです。午後の仕事は伊原さんとの打ち合わせだけなんです。このプロジェクト優先にしてもらっているので!」


今日は、デスクワークはほとんどないのだ。事前に全て済ませておいた。


「そっか、じゃ、メシ行こうか?」


「はいっ!」


 中田さんに促されて、私はやっと、立ち上がり、すっかり閑散とした会議室から出た。






 うちの出版社のビルには社員食堂はない。ビルの向かいにコンビニがあるくらいだ。昼食を食べるには、ビルの外に出なくてはいけない。でもそれはそれで気分転換になるので嫌ではない。ビルの近くには、サラリーマンやOL向けのご飯屋さんやカフェが軒を連ねている。


 中には、お弁当を作ってきて食べている人もいるし、私も時々作っているけれど、食べる場所が自分のデスクになってしまうので、気分転換にはならない。


中田さんと他愛もない世間話をしながら、一緒にエレベーター に乗って、下階へと向かった。


中田さんと一緒にいると、つい、先日の中田さんの告白を意識してしまい、まともに顔が見れなくなりそうだ。でも、中田さんはそんなこと全く気にしていない様子だった。


それは、今は仕事だから、と割り切っているのだろうけれど、告白された私からみると、逆にあの告白が気になってしまい、2人きりになると平常心ではいられなくなってしまう。


「どうかしたの?」


「え?」


「なんか元気ない?」


「そんなこと、ないですよ!」


なるべくいつも通りに答えたつもりだったけど、会議の疲れと、中田さんの告白と、その前の尋人さんの言葉が気になって、頭がいっぱいだった。


「そう? ならいいんだけど・・・さ

この前の俺の告白、気にしてるのかと思って・・・」


言われた瞬間、身体の中が一気に真空状態になった気がした。


私が答えられずにいると、幸いエレベーターは一階に着き、私たちはエレベーターを降りた。


お昼近くとはいえ、昼休み前だったので、エレベーターホールロビーも、いつもより人が少なかった。


エレベーターを降りた時・・・どこからか、耳をつんざくような女性の声がした。


その声は、どこかで聞いた声だったし、心の何処かに引っかかる声だった。


中田さんもその声はに気づいたように、私の顔を見た。


「・・・森野の声・・・」


その声は、エレベーターホールからほど近くにある、メイン玄関へと続く通路とは反対側の通路から聞こえた。文字通りの通用門、裏口で、今の時間、ここを使う人などいないし、関係者以外通り抜け禁止になっている。通行証を持っているのはここの出版社に勤めている人だけだから、中田さんは勿論、森野さんもこの通路は通り抜けできない筈だ。


私と中田さんは、顔を見合わせると、その声のする方へと歩いていった。


その声は、その通路の死角になっているところから聞こえていた。近づくにつれて声は少しずつはっきりと聞こえるようになり・・・嗚咽とも泣き声ともつかない、それでも激しい感情を孕んだ声だった。


そして・・・その光景を見た時、私は思わず息を呑んだ。


通路の突き当たりから曲がった死角には、森野さんがいた。


1人ではなかった。


森野さんの前には、久保さんもいた。その久保さんに抱きつくようにして、森野さんが泣いていた。


そして、その森野さんを抱きしめるように彼女の背中に腕を回る久保さんの姿を見た時・・・私の中の全てが凍りついた。


(嘘・・・)


その2人のラブシーンのような光景から逃げたかったのに、足がガタガタと震えて動かず、声さえも出すこともできず、ただ、その光景を見ていることしか出来なかった。


「もう嫌!

南編集長も担当さんも、私の事嫌いで追い出したがってるんだわ!

そうでなきゃ、こんなにいきなり連載打ち切りなんてありえないでしょ?」


悲鳴に近い泣き声だった。それでも、久保さんにすがりつく森野さんは、誰かが支えてあげないと崩れてしまうかと思うほど、弱々しく儚く見えた。


「書く苦しみも辛さも、何にもわかっていない! 仕打ちが酷すぎるわ!」


その言葉で、何があったのか、薄々わかってしまった。


 朝、萌先輩が言っていた事が、脳裏をよぎった。


今日、森野さんの連載打ち切りの事が、森野さんに正式に伝えられる、と・・・そしてそれが伝わったのだろう。


「聖夜・・・助けて・・・もう私どうしていいか・・・苦しい・・・」


そんな私の姿を、隣で中田さんは見ていたのだろう。声を立てないまま、私の腕を掴んでその場から立ち去ろうとした。


(行こう)


中田さんの目はそう言っていた。それでも私の足も身体もガタガタと震えて、思うように動かない。


「ねえ、聖夜・・・聖夜から南編集長に、撤回するようにお願いしてよ? 聖夜の言う事なら、南編集長も聞いてくれるわ・・・聖夜は南編集長とも仲が良いんでしょう? お願いよ! 助けてっ・・・」


見ていられなくなった私は、そのまま俯いた。それを察してくれたのか、中田さんは再び私の腕を強く引いてここから立ち去ろうとした。動かなかった私の足が、ようやく中田さんの腕の力で、引きずられるようにフラフラと動いた。


2人が一緒にいる、こんな光景、もう見たくなかった。


それなのに。去る瞬間、私は、思わず振り返ってしまった。


そして、見てしまった。


森野さんの両腕が久保さんの首にゆっくり、するりと巻きついた。抱きつくように・・・そして久保さんが、それを拒絶せず、なすがままになっている姿を。


(やめて・・・)


喉まで出かかった声を、かろうじて飲み込み、腕を引く中田さんに引きずられながらその場から逃げた。


「聖夜ぁ・・・」


そっと、立ち去ろうとする私たちの背中に、儚い、そして甘い、森野さんの声が聞こえた。あの綺麗な女性の、縋るような声・・・きっと大概の男性なら、その願いがどんな事でも、聞いてあげたくなるだろう。ましてや、森野さんと久保さんの関係なら・・・


久保さんは、なんて答えるの? 森野さんの頼みを聞くの?


続きが聞きたい、という思いと、森野さんが久保さんに縋り付く光景を見たくない思いが心の中でごちゃごちゃになって、一体私はどんな顔をしていたんだろう?


私はもう、その続きを見たり聞いたりする勇気がなかった。ふらふらしている私を、中田さんの腕が支えてくれて、そのまま廊下を逆戻りした。


その時。


私たちは初めて、私たちのすぐ側に、いる筈のない第三者がいるのに気がついた。


「い、伊原さんっ」


「しぃっ! 声出すな!」


 尋人さんと中田さん、同時にそう言われ、さらに中田さんに口を押えられ、私は喉まで出かかった声を飲み込んだ。


尋人さんは、私たちに気づかず抱き合っている2人に、廊下の曲がり角からそっと、視線を移した。


そして、自分の背中に私たちをかばうように、2人に近づいた。気配も消さずに、足音も消さずに2人に近づいたせいか、森野さんも久保さんも、その尋人さんの姿にひどく驚いたようだった。


「・・・井原さん・・・」


 突然現れた尋人さんに、驚きと動揺で声さえ出なくなった2人は、慌てて抱き合う手をするりと解いた。そんな二人に尋人さんは言い放った。


「ここは会社だぞ。そういうことは外でやってくれ!」


冷たい、突き放すような声だった。


 至極、もっともなことだ。ここは、私や尋人さんにとっては会社内で、そんなところであんなラブシーンされては、職場の風紀が乱れる。


 けれど、森野さんは動揺はしたものの、感銘を受けた様子は全くなかった。


「伊原さんには関係ないでしょ!

自分の事を棚に上げて無粋な事言わないでっ!」


さっきまで久保さんの胸に顔を埋めていた森野さんが、顔をあげて、こちらをきっ!っと睨んで言い返した。けれどその目は泣きはらしたように腫れていた。


“美女の泣き落とし・・・”


小さな声で、中田さんが、私にしか聞こえないくらいの小さな声で呟いていた。


「連載打ち切りは決定事項だ。覆ることはない。森野も諦めろ」


尋人さんは、笑顔一つ見せずにそういった。


「嫌よ!やっと手に入れて守り続けていた場所なのよ!簡単に手放せるわけないでしょ!」


「お前の最近の作品の質の悪さは度を越してる。

作品だけじゃない。南編集長も担当も、お前のわがままと質の悪さに呆れてるぞ。

それに、お前の作品の低迷は今に始まった事じゃないだろ?


あんまり騒ぐと、以前の古谷編集長との事、表沙汰にするぞ」


古谷編集長、とは、森野さんが連載している雑誌の前の編集長だ。人事異動で、今は別の部署にいるはずだ。その古谷編集長の後任が今の南編集長だ。


“以前の古谷編集長との事・・・”


私は思わず、隣に立っている中田さんの顔を見上げた。その視線に気づいた彼は、私を見て、頷いた。


中田さんが以前、話してくれた事がある。


“以前、森野さんの作品の連載打ち切りの話が出た時、森野さんは前の編集長に身体を使って止めた。不倫関係だった”


と・・・


「な、何の事よ!

変な言いがかりつけないで!」


そう森野さんは言い返したけれど、その表情は明らかに動揺していた。


「井原さんだって人の事言えないでしょ?

 そこの翻訳の女と不倫してるじゃないの!


 それも、中田さんと三角関係?


 そんなガキみたいな女のどこがいいのよ」


 ふん、と鼻で笑う様に、そう言った。


「不倫? 三角関係? 何のことだ?」


 尋人さんは表情一つ変えずにそう聞き返した。すると、勝ち誇ったような森野さんの声が断罪するように続いた。


「私、知ってるのよ!

 井原さんと、そこにいる翻訳者が、随分前から、2人きりの時は名前で呼び合う仲だってね。


 社内でだって、井原さんの、その女に対する待遇は甘すぎるし、優しすぎるんじゃないの?


 今だってこうやって、2人で私の事責めてるけど、結局人のこと言えないじゃない!


おまけに中田さんだってその女に熱あげてるって言うじゃない!


ガキみたいな顔して、男2人手玉取るなんてねぇ・・・」」


 私はため息をついた。


誤解も甚だしい。


 私が尋人さんの妹・・・麻里の親友で、そのツテでこの出版社に入ってきた・・・という経緯は、この出版社内の人はみんな知っていることだ。むしろ知らないのは入社したての新人と、外から仕事に来ている人・・・例えば久保さんや中田さん、森野さんといった人位だ。


 訂正する気力もなく、私と尋人さんは呆れて顔を見合わせ、ため息をついた。その光景を、私達の事情を知っている中田さんはふふっと笑ってみていた。


「森野、井原さんと沙織ちゃんの関係、知らないんだ。

 知らないって事はさ、ここの出版社の人から信頼されていないって事だよ?


 井原さんと沙織ちゃんの関係なんて、この社内じゃ、秘密でもなんでもないんだよ?

 森野が今話していたその噂とやらは、どっから聞いたんだ?」


 中田さんは笑いを堪えてそう聞いた。すると森野さんは。


「聞いたんじゃない!見たのよ!

 休憩室で、井原さんとそこの女が名前で呼び合ってるところを!


 見るからに恋人同士だったわよ!

 井原さんだって結婚してて奥さんがいるのに、会社ではこんなガキみたいな女と社内恋愛なんて・・・」


「森野・・・それ、ここの出版社の誰にも話してないだろ?」


 中田さんは既に笑いを堪えようともしていない。


「してないわよ! だから何? 何が言いたいのよ!」


「そうだよなぁ。お前、この社内で話し相手がいないほど浮いてるもんなぁ。お前みたいなプライドばっかり高くて利害関係と男しか見えない女、ここの出版社の女どもに煙たがって近づきたがらないからな」


 森野さんは激昂と私達への嘲りが混ざった顔のまま、中田さんまで睨みつけている。自分の言葉を誰も信じてくれない・・・自分の言う通りにならない、彼女に媚びない尋人さんや中田さんへの苛立ちだろうか? 様々な感情が混ざった表情も声も、私達から見ると滑稽に見えた。


「・・・井原さんの妹さんと沙織ちゃんは、もう何年来かの親友で、尋人さんと沙織ちゃんも、親友のお兄さん、って意味で長い付き合いなんだよ。沙織ちゃんは、その親友のお兄さんに頼まれて、翻訳者としてこの出版社に転職してきたんだ。


 二人が名前で呼び合うのは、別に不倫とか恋愛とかじゃない。沙織ちゃんがここに転職する前から、特別な意味じゃなく、伊原さんとは名前で呼ぶ仲だったんだ。伊原さんの妹さんと区別するために、な。


 でも会社内で、中途採用の子とその上司が名前で呼び合ってたら、社内の風紀が乱れる。だから普段、会社では名字で呼び合ってるだけだ。


 こんな事情、ここの社員だったら全員知ってることだぞ?


 俺だって知ってるくらいだ。お前が知らなかったのは・・・ここの社員や編集部に連中が、森野の事信頼してないって事じゃないのか?」


 森野さんの顔が、真っ赤になったり真っ青になったり、見ていて滑稽だった。


 中田さんの言ってることはすべて事実だ。中途採用の時、社長以下、役員面接の時にも、既に役員の人達は、私と尋人さんの関係は知っていたし、入社した後も、尋人さんは私との関係を隠すことはなかった。


“石垣さんは、俺の妹の親友だから・・・容赦なくこき使って構わないので、そのつもりでお願いします”


今の部署に入った初日、彼に紹介がてらそう言われたのを、今でも覚えている。


でも仕事は仕事。プライベートの様に名前で呼び合うことは極力裂けている。名前で呼ぶのはせいぜい、誰もいないときや、プライベートな話をする時・・・そう心がけている。


「だって・・・それじゃ・・・だって・・・嘘っ!・・・」


 事実を突きつけられ、私と尋人さんに対する“不倫関係”という切り札が使えなくなった今、森野は次に吐き出す言葉さえ失っているようだ。確かに私と尋人さんが不倫関係で、その上さらに中田さんとも付き合っていたら、森野さんにとってそれは私を責める格好の切り札になるだろう。森野さんは、よほど私のことを気に入らないみたいだ?


もしかしたら、森野さんは、初めて会った時から私のことを“尋人さんの不倫相手"として、蔑んで見ていたのかも知れない。あの日も、私は尋人さんと一緒に三人と合流したのだった。彼女の私を見る目は、いつも冷たく鋭く、好意的ではなかった。だとしたら、私だけじゃなく尋人さんに対しても失礼だ。



 そんな森野さんに、尋人さんは、一つ、ため息をついた。


「森野、お前が、そこまで、この出版社に固執するのは、連載云々じゃないんだろう?


久保と同じ出版社に所属していたいからだろう?

例え編集部が違う場所でも・・・今以上に、久保とのつながりが欲しい。同じ大学出身の同業者、って関係だけじゃ足りないのか?


そんなちっぽけな理由で、編集部を振り回して、好きでもない年増男に身体を売って不倫までしたんだろ?


これ以上周りを振り回すなよ」


「ちっぽけって何よ!

あなたたちに何がわかるのよ!


たった1人で、誰もいない部屋で、必死で作品を描き続ける孤独も、

その作品が全否定されるショックも!」


もう、さっきまでの森野さんの儚い雰囲気は音を立てて崩れ落ち、今はただ、自分のプライドだけを必死に守って尋人さんに食って掛かっていた。


「わかっているから言ってるんだ。

でもな、森野。


それはクリエイターの宿命じゃないのか?

自分で選んでなった小説家のくせに、それがうまくいかないからって、そのイライラを周りに当たり散らすな。見苦しいだけじゃない。お前が台無しだ。


そのわがままで、これ以上この出版社を引っ掻き回すな。お前んところの編集部だけじゃなく、他の編集部もとぱっちり食ってるんだ!」


そこまで言うと、「行くぞ」と私達に言い、その場を去ろうとした。


そして、廊下の角を曲がる瞬間


「なによ・・・なによっ! なんでも知ってるような顔して偉そうにっ!

所詮なにも作り出せないような無能なお荷物女より、私の方がよっぽどマシよ!

それなのに何で、伊原さんも中田さんも聖夜も、どうしてそんな何の役にも立たない女を庇うのよっ! 助けたりするのよっ! 仕事で苦しんでるなら、ほっとけばいいじゃない!」


“何も作り出せない女”


言われた瞬間、目の前が真っ暗になった。


それは・・・紛れもなく、私の事だ。


久保さんも、中田さんも、森野さんも、無から有を作り出す、小説家や挿絵画家で。


私は、原作をただ訳すだけの存在・・・・


何も作り出す事のできない存在・・・


ショックで頭が真っ白になった次の瞬間


「結局、俺や中田が石垣をかまうのが気に入らないのか?

それが、石垣に対する冷たい態度と今回の我儘の理由か?

 くだらないっ!!」


冷静な尋人さんの声が廊下に響いて聞こえた。


「な・・・なんですって!」


もはや森野さんの怒りは沸点を超えていた。


「そこにいる翻訳者も、ここの出版社の人たちだって!

 私や聖夜みたいな物書きがいないと仕事にならないじゃないの!


 結局小説家の寄生虫みたいなものじゃない!

 いい作品書いた時はちやほやするくせに! 書けなくなったらお払い箱?


 そんなのを相手に、私がどんな方法で居場所を作ろうと、私の勝手でしょ!」


森野さんの言葉一つ一つが、グサグサと私の心を突き刺していった。


森野さんの言っている事は・・・紛れもない事実だから。


私はただの翻訳者で、久保さんや森野さんのように、無から作品を作り出すことなど・・・できない。


無から有を創り出す、その苦しみや葛藤など・・・想像するだけで、理解する事はできない。


「でも、お前の作品も、出版社を通さないと、本屋の書架に並ばないだろ?

 俺たちの仕事は、森野も含めた、クリエイターの作品を世に出すことだ。

 

 でも・・・お前の作品は、世に出せないほど低迷している。それだけだ。

 自分を磨き直せ」


「磨き直せ・・・ですって!・・・この私にゼロから勉強し直せって事?」


 激昂、という表現を通り越した感情の起伏を何と表現するのか、私は知らない。でも、今の森野さんは、まさにそれだった。


 そしてさらに、彼女の感情に、尋人さんは油を注いだ。 


「それと、自分の低迷を棚に上げて、他の女への嫉妬と八つ当たりはやめろ。森野の悪い癖だぞ!」


鋭い声が辺りに響いた。すると、中田さんが、今まで見た事もないほどの険しい、冷たい表情で森野さんを睨みつけていた。


「し、嫉妬ですって?

どうして私がこんな女に嫉妬しなくちゃいけないのよ!」


森野さんの指が、怒りを込めて私を指差した。


「森野より後にこの出版社に入ってきたのに、特殊能力一つで、自分自身の居場所を確立している石垣さんと・・・女の武器使って居座ろうとしている今のお前とは大違いだ」


 尋人さんはそこまで言うと、私と中田さんに目で合図した。


 "行くぞ"。


 彼の眼はそう言っていた。私は中田さんに腕を掴まれ、その場を去ろうとした。


 そして、廊下の角を曲がる瞬間。くるり、と中田さんは久保さんと森野さんの方へ振り向いた。


 そして。


「久保!」


 まさに今まで、目の前で繰り広げられていた光景に、何も言えずに呆然としていた久保さんに、中田さんはハッキリとした口調で言い放った。


「いい加減、はっきりさせろ!」


 それを聞いた途端、久保さんが怯えたように、びくっと肩が震えた。


「お前がこのままで居続けるなら・・・遠慮なく俺が貰うぞ!」


「っ!」


 明らかに、久保さんが動揺した。


 いったい何? 何の話をしているの? 


 久保さんがあそこまで動揺することって・・・いったい何?


 聞きたいことはたくさんあったけど、久保さんは勿論、中田さんも何も話してくれないまま・・・


 私の腕を掴んでいた中田さんは、私の腕を掴む腕を一瞬離し、その手を繋ぎ・・・指を絡めた。


 恋人繋ぎ、だった。


 そして、


「行こう、沙織ちゃん」


 そのまま私の手を引いて、尋人さんの後を追う様に、その場から去った。


 廊下を曲がる一瞬に見えた久保さんの顔は真っ青で、ただ、その場に立ち尽くしていた。


 その姿は、最後の中田さんの話についてゆけない私と重なって見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ