第40話
「あの・・・どういう事ですか?」
中田さんと私の関係は、これから一緒に仕事を進める者同士だけど、それだけじゃない。私は中田さんに告白されていて、中田さんは、私が久保さんの事を好きな事を知っている。しかも中田さんと久保さんは友人同士。中田さんと私と久保さんの関係は微妙なものがある。
一方、尋人さんとは、親友の麻里のお兄さんではあるけれど、同じ部署の上司と部下、といった関係性の方が強い。
中田さんと尋人さん、 2人の、私にとっての立ち位置は、仕事以外の場所では、明らかに違う。
「沙織、率直に聞くけど・・・」
“沙織”。
彼が職場で私の事を苗字ではなく名前で呼ぶ事は滅多にない。公私混同を避けるためだ。その彼が、私の事を職場で名前で呼んだ・・・それだけで驚いて、思わず背筋を伸ばした。
「久保の事、好きなのか?」
突然聞かれたその問いに、私は答える事ができず、会議室には重たい沈黙が走った。
その沈黙を答えと取ったのだろう。彼はため息をついた。
「前にも言ったけど・・・久保は止めておけ」
まるでは私の気持ちを切り捨てるように、彼は言った。
「どうして・・・ですか?」
私は、もはや自分の気持ちを否定しなかった。尋人さんに否定したところで、既に見破られてしまっているのだ。否定する意味など、もうない。
私の問いかけに、尋人さんは少し考え込んだ。そして、
「これは、沙織の上司としてではなく、妹の親友への忠告だと思って聞いて欲しい」
と、前置きした。
「沙織はさ、森野に告白されて、返事もしないで、恋人同士みたいに見えているような男に、略奪愛、しかけられるか?」
尋人さんの顔は真剣そのものだった。そして、それは、私が久保さんの事を諦めようとしている一番の理由だった。・・・略奪愛など、私にはできない。
森野さんは久保さんが好きで、2人の関係は周囲公認も同然だ。そんな中でどう足掻いたって、どうにもならない・・・だから諦める、そう決めたのだ・・・
「・・・あの2人、夕べ、一緒だった」
まるで数式の答えだけを言う様に、簡潔にそう言うと、さらに言葉を続けた。
「久保の身体から、微かに森野の香水の匂いがした。・・・あと、久保の様子が変だっただろう? 一晩、森野と一緒だったんだろうな。 少し気だるい感じがした・・・夕べ、ちゃんと寝てないんだろうな。
つまりそう言う関係、ってことだ。
・・・後は、男の勘、って奴だ。同じ事、中田も気づいてたみたいだな。間違えないと、思う」
中田さんの“フェアじゃない”という言葉の意味を、私はやっと理解できた。
ここで中田さんが、久保さんの事を話して“久保さんの事をあきらめろ”といえば、私はきっと、久保さんに幻滅するだろう。その心に中田さんが付け込むことだって、彼にはできるはずだ。・・・でもそれはフェアではない・・・中田さんはそう思っているのだろう。
「それで、だったんだ・・・」
さっき、久保さんに感じた違和感の意味を納得した。服が昨日と同じだったのも・・・森野さんと一晩一緒で、家に帰っていないから・・・、そう思った瞬間、心が折れる音が聞こえた気がして、頭がくらくらと眩暈がした。
男女が一晩一緒にいた・・・その意味がわからないほど子供ではない。
「久保は、折角勇気出して告白してきた女・・・森野に、返事もせずに中途半端な関係のまま、身体の関係だけが続いてるんだ。沙織は、そんな男と・・・付き合って、幸せになれるか?
俺は・・・久保の人格の性格も否定しない。あいつは悪い奴じゃない。それくらい俺も分かってる。でも・・・少なくとも、久保は女性全般、特に森野の事を中途半端にそう扱ってる。まあ・・・森野の性格上、告白して断られたくらいで諦めるような女じゃない。それであの二人の関係もずるずる続いているようなもんだけど。
そこに沙織が割り込んでいっても、不毛な三角関係になるだけだ。
お前は、自分の好きな人が、他の女とも関係しているような状態、耐えられるか?
沙織は森野と違って、今どきの子にしちゃ珍しく純粋で汚れてない。そんなお前が、久保みたいにある種優柔不断な男と付き合ったところで、傷付く上に、純粋なお前自身が、汚されるし、廃れるぞ」
淡々とそう言う尋人さんに、私は何も答えられなかった。
「私、そんなに純粋じゃないですよ」
そう言い返すのが精一杯だった。
尋人さんの言葉が、あんまり図星を突いていて。そして・・私だって、森野さんがいるからこそ、久保さんの事は諦めよう、と決心しているのだ。
「心配・・・しないでください」
私は笑った。作り笑いかもしれないけど、そうするしかなかった。
「沙織?」
「もともと見込みのない恋だったんですから。諦めて終わりにするつもりです。
尋人さんの言う通り、私、略奪愛できる性格じゃないです」
それは、自分に言い聞かせている言葉だったのかもしれない。
一方、尋人さんは驚いたのと、何かを憐れむような、慈しむような、そんな表情をしていた。
「・・・なら・・・いいんだ。
お前だったら、すぐにいい男が現れるよ」
彼はそう言うと、私の頭をくしゃっと撫でた。私は、作り笑いとは裏腹に、泣きそうになった。
自分で決心したこととはいえ、他人にまで言われると、まるで追い打ちをかけられたような気分になる。
心のどこかで無意識に期待していた、わずかな期待さえも、尋人さんの言葉で完全に否定されて、粉々に打ち砕かれてしまった。
私は、尋人さんに気づかれないように大きく息を吸って、吐いた。泣きたい気持ちを心の奥に封じながら、頭を仕事に切り替えて、会議の準備をした。時計を見ると、もうすぐ会議が始まる時間だ。中田さんも戻ってくるだろう。
せめて会議中は、一人の翻訳家でいるために・・・必死で気持ちを切り替えた。




