第32話
「どこに・・・行くんですか?」
「秘密」
そう言いながら、白銀台のカフェから、駅の方に向かって歩いていた。
「電車乗るんですか?」
「乗らない。人ごみ嫌いだろ?」
私、この人に、いつ人ごみ嫌いだって話したっけ・・・?
勿論、友人はみんな知っていることだけど、仕事上の付き合いの久保さんに話した覚えはない。
そう言いながら歩いて数分、着いたところは・・・
「水族館?」
そこは、駅の向こうにある、海沿いに建つ水族館だった。
「今、面白いショーやってるから、見せたかったんだ」
そう言って、彼は前売りのチケットをカバンから取り出すと、そのまま入り口に行った。
「あ、でも、お金・・・」
「さっきからそればっかりだな」
私の言葉に、彼は呆れたように笑った。
「これは編集の人から貰ったんだ。だから気にしなくていい。それに君のお祝いだから、そんなこと気にしないでいいよ」
その言葉に、返す言葉を失いながら、私は彼の後ろをついて行った。
水族館は、日曜のせいもあって、一際混んでいた。人ごみで動けないほどではないけれど、大きな水槽や、人気の魚がいるブースは親子連れで一杯だ。
私と彼は、それらをのんびりみながら先へと進んだ。
「人、多いけど大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
正直、息切れを起こしそうだ。でも、折角彼がお祝い、と連れて来てくれたところ、そんな事を言いたくない。それに、数年ぶりに足を踏み入れた水族館、私の記憶にある、子供の頃の水族館とは随分様変わりしていて、その様子に驚いた。
綺麗な真新しい施設、真新しい水槽に、綺麗な魚が泳いでいて、それだけでもわくわくするし、少し奥に行ったところにあった、巨大水槽には大きなエイやイワシの大群が大きな渦巻きの様に泳いでいて、圧巻だった。
そんな私の姿を横目に、それでもはぐれないようにしながら歩いていたけれど・・・彼は、この水族館に私を連れてきたかった・・・わけではないみたいだ。
ざっと、水槽は見ているけれど、他の人の様に凝視しているわけでもないし、むしろ私の方が、久しぶりに来る水族館のせいか、水槽毎に足を止めてしまっている。
そんな風に、早いのか遅いのかわからないスピードで、手もつながず、会話も少なく歩いていた。はしゃいでいる私と、気が済むまで待っていてくれる彼・・・きっと他の人からみたら、私達はとても気まずい雰囲気に見えるだろう。会話のない恋人同士だろうか?
けれど私は、この会話のない空気感が、嫌いじゃなかった。私を待っていてくれる彼に、好感以上の何かを感じた。
やがて私達は、巨大水槽の中に設えたチューブ状のエスカレーターに乗って、二階へと向かった。
二階には、一階同様、水族館の施設の他に催事場もある。この催事場では、いつも話題になる催し物が開催されている。テレビでも紹介されているほどだ。
「ちょうどこれくらいの時間は、イルカショーと時間が重なるから、穴場なんだ」
一階の水族館のスペースは人が多かったけれど、この催事場には人が少ない。人の流れは、自然に、もうすぐ始まるイルカショーの会場へと向かっていた。
「さ、入ろうか?」
彼は私の手を引いて、その催事場へと入って行った。
中は薄暗く、人も少なかった。
彼に手を引かれるまま、辺りを見回すと・・・
闇の中には、色とりどりにライトアップされたチューブ状の丸い水槽があり、その中には、見覚えのある生物がいた。
「クラゲ・・・?」
私の呟きに、彼は頷いた。よく見るとここは、クラゲの専門ブースかのように、さまざまな種類のクラゲが、神秘的なヒーリング音楽をBGMにライトアップされた水の中を揺らめいていた。
「・・・きれい・・・」
その光景を見て、私は思わずつぶやいていた。
クラゲなんて、今まで興味もなかった。水族館事体、あまり来たこともない位だ。私の記憶の中にある水族館は、どこか変な匂いがする、少し汚ならしくて小さな、魚の種類も少ない水族館だった。
でもそれは昔の事みたいで、今は設備も施設も充実していて、嫌なにおいもしなければ、魚の種類も多くなっている。ここに入ってからそれを嫌と言うほど実感している。
ましてや私の記憶の中には、こんな風に水槽を色とりどりにライトアップする演出なんてしないなかった頃だ。
そのライトアップされた水槽の中で、半透明のクラゲが、ゆったりゆったりと、漂っている。
良く知っているおなじみなクラゲから、見たこともない、綺麗な花笠のような形をしたのクラゲ、血のような真っ赤な触覚を持つクラゲ・・・半透明で触手が綺麗で長いクラゲ・・・それらはまるで、ライトアップの光で、キラキラ輝いているように見えた。
それらに見とれる私の耳元で、彼はそっとささやいた。
「もうすぐ、始まるよ」
何がですか?
そう聞こうとしたとき、辺りのライトアップがぱっと消えて、辺りは静寂と暗黒に包まれた。
「っ!」
一瞬、以前のエレベーターでの停電を思い出し、彼の腕を掴もうとしたけれど、どうやら停電ではないようだ。
電気が消えるのと同時に、ブースの壁に映り始めたのは、深海の風景・・・
さっき一階で見た魚や、巨大水槽の中でみた魚が、海の中の風景をバックに、まるで本物さながらに、壁に映し出されている。
ただの映画、とか、映し出されている・・・それだけではない。360度、すべての壁はもちろん、まるで私達の近く、手の届くところにまで魚がいるのだ。
近くを泳ぐ魚に、思わず手を伸ばしたけれど、その魚は本物のわけがなく、伸ばした私の指は魚には触れられなかった。
それ位、リアリティーがあり、周囲の風景もまるで深海のようで…ダイバーか魚になったような気分だった。
「・・・3Dプロジェクトマッピング、って聞いたことあるだろ?」
彼のその言葉に、私は頷いた。
「水槽の展示とプロジェクトマッピングの融合。今、試験的にやってるんだ」
彼はそう説明してくれたけれど、そんな説明どうでもよかった。
ただ、絵本の中にしかないと思っていた深海の幻想的な空間が、目の前にある。
その感動と美しさで、言葉さえ出なかった。
周囲の風景は、どんどん変わってゆく。サンゴ礁の海、太平洋や太平洋の底、海底神殿の廃墟・・・
そして、プロジェクトマッピングされた水槽には、本物のクラゲがゆったりと泳いでいる・・・不思議な光景だけれども、まるでこのクラゲたちが水先案内をしてくれているみたいで、ちょっとかわいかった。
空中を、プロジェクトマッピングによって作り出された海の光景をバックに泳ぐ魚も様々で、私の至近距離まで泳いでくる魚までいた。もちろんそれも映像なのだけれど、その精度の高さは、並大抵なものではない。
まるで、絵本の中の夢の世界が、現実に目の前にあるみたいだった。絵本を開いたら、こんな光景があって、私が海の中にいて・・・そんなことを考えるだけで胸がわくわくした。
そんな心躍るショーは長かったのか短かったのか、それさえも判らない。ただ、私はそのショーの間、すべてを忘れ去って、そのプロジェクトマッピングに見入っていた。
お気に入りの童話や絵本を読んでいる時とよく似た感覚だった
でも、私にとっては、絵本の中の、私の空想の中にしか存在しない風景ではなく、作り物でもまがい物でもない、現実の世界にある、夢の光景だった。
「現実世界にも、本の中に負けない綺麗な世界が・・・・ちゃんとあるんだ」
彼が私にしか聞こえない声でそう言った。
「君の夢の世界は、絵本の中にしかないかもしれないけど。
実際は絵本の中だけじゃない。
現実世界にも、ちゃんと、美しいもの、キラキラしたものはあるんだ。
絵本の中の世界もいいけど、君はもっと、現実の美しいものを見た方が、視野が広がって面白いと思うよ。
だってさ。
せっかくあれだけの英語の知識があって、翻訳もして、でも絵本の中しか知らないなんて、勿体なくないか?」
「もったい・・・ない?」
私の趣味についてそんな風に言う人は今までいなかった。大体、私が外の世界で一生懸命仕事をするのは、家に戻って、大好きな絵本や物語の本を広げて、夢の世界に浸ることだけだ。
さながらそれは、サラリーマンが、帰宅後の一杯のビールを楽しみに、苦しい仕事を必死にこなし、上司から怒られ、取引先に頭を下げて・・・そうやって仕事して、疲れて帰ってきて、一杯の美味しいビールを飲んで疲れを癒すのと、同じようなものだ。
私のこの趣味を、否定する人の方が多かった。帰った後、仕事後の一杯のビールや酒を理解できても、帰ってから大好きな本を開いて夢の世界に浸る、それが楽しみで仕事をしている・・・そんな私を理解してくれる人なんか少数派だった。
理解されないからこそ、私はこのことをいつしか誰にも言わなくなっていた。偶々、久保さんには話した・・・その程度だ。
それなのに久保さんは、それを否定することもなく受け入れて、その上でもっと違う世界を見せようとしている・・・
この前のエレベーターの故障の時もそうだし、今だってそうだ。
「勿体ないだろ? 現実世界にも、キラキラした現実だって、心踊る風景だって、ちゃんとある。絵本の中にない、夢みたいな風景だって、必ずあるんだよ。
もっと周りを見てみな。きっと、現実世界だって捨てたもんじゃない・・・」
BGMに乗って、彼の声が聞こえた。その言葉は、違和感なく心に沁みとおり、心にすとん、と落ちた。
本当にそうだ。
私は・・・絵本や物語の世界に没頭しすぎて・・・今までどれだけの、現実世界の綺麗ない風景を見逃してきたんだろう・・・どれだけのキラキラした光景から目を逸らしてきたんだろう・・・
やがて、BGMは終わりを告げ、夢のような光景が消え、催事場の灯りはクラゲのライトアップに戻った。
それで初めて、ショーが終わったことに気づき、私は大きく息を吐いた。
「予想通り」
彼は、まるでさっきの言葉など気にも留めないような楽しそうにそう言うと、
「夢見る顔で、見てたね」
満足げにそう付け足した。
「きっと、こういうの好きだと思ったんだけど・・・連れて来てよかった」
「本当に・・・素敵でした・・・」
「うん。
君の顔を見てると判る。
君の夢の世界も、きっとこんな世界なんだろうな?」
図星を突かれたその問いに、私は答えず、ただ、周囲のライトアップされたクラゲを見つめた。
言葉さえ出てこない、とはまさにこのことをいうのだろう。
どれも現実にありそうなのに、まさに夢の世界だった。
プロジェクトマッピングのショーが終わった後も、その場に呆然と立ち尽くす私に、彼は何も言わず寄り添っていた。
それは、決して共有することがない、私の夢の世界で、彼と寄り添っているみたいで、たったそれだけなのに、心満たされた、幸せな時間だった・・・
「この企画、定期的に内容が変更して、いろいろやってるんだ。まだ試験段階だけど、評判はいいみたいだよ。
次のが出たらまた一緒に来てみるか?」
ようやっと現実世界に戻ってきた私に、久保さんがそう言った。私は一も二もなく、頷いていた。
「じゃあ、約束、な?」
そう言うと、彼は私と再び手を繋ぎ、指を絡めるように手を繋いだ。
(あ・・・)
恋人繋ぎ、とかいうやつだ。そういえば、フェルメール展の時、久保さんとすれ違った時、中田さんが同じつなぎ方をしていた。
その彼の手に、ドキリとしながら、私達は、夢の世界を後にした。
「夢見てる・・・」
「え?」
「夢見るような顔をしている横顔・・・」
彼の呟きは、周囲の雑踏に消えてしまい、それ以上聞こえなかった。
「ごめん、聞こえなかった・・・」
そう聞き返したけれど、彼は自嘲するように笑い、それ以上、何も言ってくれなかった。
何をいおうとしていたかわからないまま、私達は一般の展示ブースに戻り、言葉少なく水槽を見た。
けれど、どの水槽を見ても、さっきのプロジェクトマッピングの印象が強烈で、頭からそれらが離れてくれなかった。




