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第2話



「ねえ、沙織さん、君、翻訳家になるつもりはないの?」


 あの最初の翻訳から一年が過ぎた時、尋人さんは突然そう言いだした。


晴天の霹靂、とはこんな事を言うのだろうか。


あの最初の翻訳のあと、しょっちゅう、彼には仕事の翻訳を頼まれ、私はその報酬をもらい・・・ちょっとした趣味を兼ねたバイト気分だった。何よりもその報酬で、大好きだった洋書の童話を買ったりして、気分は上々だった。


本職はOL、副業は翻訳のバイト・・・そんな生活が一年程続いた後、尋人さんにそう切り出された。


「ここまで英語出来て、英語以外の外国語にも精通していて、童話や物語が好きで、ここまでしっかりとした翻訳できるなら、翻訳家として仕事出来るよ。


 うちの会社で、翻訳、本格的にやってみないか?」


 最初は断った。英語や童話は大好きだし、尋人さんから依頼された翻訳は、まるで今まで持っていた童話の世界に再び彩りを与えるみたいで楽しかった。


 でも、だからと言ってその翻訳の仕事で食べてゆけるか心配だった。


 今の仕事をしていれば、少なくとも今まで通り仕事をしていれば生活は成り立つ。今、全く違う仕事に転職する勇気はなかった。


 ところが、話術が巧みな尋人さんの誘い文句と、私本来の"外国の童話が好き"という想いで、あっという間に私は彼の術中に落ちた。


 尋人さんの勧めて、彼の務める出版社に転職し、専属、という形で、出版社の内勤をする傍ら翻訳もする、という、ある意味異常な状態となった。


 

 

 あの日から3年・・・


 仕事にも慣れ、翻訳業もやっと慣れてきた。


 専業で翻訳をやるとなると、専門外の知識も必要になる。出版社は童話や外国書籍がメインだけれど、私の知らない分野に関する翻訳だって勿論ある。


他の企業からの依頼で、専門外の書物や論文の翻訳依頼も飛び込んでくる。


 そうなると、翻訳にとりかかる前に下準備や、専門外の事柄の下調べもあって、大変な思いをすることも多々、ある。


 でも、大好きな洋書や海外の物語に接することが以前より増えて、視界が急に広がり、世界が明るくなった気がした。



 

 そして今日、また、新たな翻訳の為の下準備に追われている。


 職場や家のパソコンで調べたけれど、それだけじゃ、翻訳するのに全然足りないのだ。


 翻訳するのは、中世ヨーロッパ、北欧の口承や言い伝え、(日本でいう所の地方に伝わる土着民話やレアな昔話)転じて悪魔や吸血鬼、魔女の出現やら魔女裁判やら、これも地方によって扱いが違う。


 いくら童話が好きとはいえ、オカルドやリアルミステリーはあまり得意ではない。ましてや私の中の魔女や吸血鬼と言えば、おとぎ話では悪役同様、興味を持って調べたこともない。


読書は好きだけど、オカルトとかミステリーとか、二時間ドラマになるような殺人事件は全く読まない。読書傾向が偏っているのだ。


ただただ私は、絵本の中の綺麗な世界で夢を見ていたいだけなのだ。


それなのに、まるで、絵本や童話の悪役について徹底的に調べている気分で、あまり良い気分はしない。


 それでも仕事、と割り切って、図書館の一角で、麻里に頼んだ文献に囲まれて、ノートパソコン片手にデータを作っていた。


 集めたデータをパソコンに入力したり、コピーしたりレポートにメモしたりしているけれど、それでも翻訳をするには、基礎知識がまだ足りない気がした。


「あーあ・・・」


 時計を見ると、もうお昼をとっくに回っていた。図書館の開館直後から図書館に入り浸っていたことを考えると、かなりの時間、ここに座っていることになる。


 疲れも出てきて、ぐっと伸びをすると、背中がバキバキと音を立てた。


 その時、ぽん、と肩をたたかれた。


 びっくりして振り返ると、そこには私をこの世界に引き込んだ張本人・・・尋人さんが立っていた。


「やっぱりここにいたか」


「井原さん」


 転職してから、私は尋人さんの事を、"井原さん"と名字で呼ぶようにしていた。職場でファーストネームを呼ぶのは失礼な気がするしm彼からもそう言い渡されていた。


 尋人さんは、空いている私の隣の席に腰掛けた。


「いつも勉強熱心だね」


「おかげで翻訳を手がけた内容に関しては雑学が増えましたよ」


 少し嫌味を混ぜて言ったら、彼は少しだけ、困った顔をした。


「そう言うなよ。

 ・・・で、資料は集まった?」


 そう聞かれて、私は首を横に振った。


「全然足りないです。このまま翻訳に突入するのはきついですねー。

 でも、そろそろ手を付けないと〆切に間に合わないし・・・このまま始めようかと思ってます・・・」


 手元にあるレポートのメモと、パソコンでまとめた文書の量だけでは、心もとない。まして、基礎知識ゼロで翻訳をやる恐ろしさを私はこの3年間で何度も体感してきていた。


基礎知識ゼロ、専門用語の英文が全く入ってこない。翻訳といっても、ただ訳せばいいわけではない。ある程度の基礎知識がないと、ただ翻訳機を通しただけの無機質な翻訳になってしまう。それでは、人が翻訳する意味がない。文章のニュアンスや、原文で扱っている物事に対する考え方、扱い方だって、翻訳機と人の翻訳では全然違ってくるのだ。


 だからこそ、"翻訳業"という職業が成り立っている・・・最近そう実感する。


だから下調べは、私にとっては翻訳並みに必要で、、時として翻訳する時間よりも時間をかける事だってある。そんな作業なのだ・・・


 尋人さんは、隣の席から身体を伸ばすようにして、私の手元のメモと文書を覗き込んだ。


 彼との距離が急に縮まった気がして、ドキリとした。彼の、シャンプーの匂いが鼻をかすめた。大人の男性独特の匂いだ。


「・・・・・・」


 彼は姿勢を元に戻して、私の顔を覗き込んだ。


「・・・そういえばさ、この手の事に詳しい知り合いがいるんだけど、紹介してやろうか?」


「え?」


「本業はミステリーの小説家なんだけどさ、北欧神話とか言い伝えとかに詳しいやつがいる。ホラーやオカルトとかも好きな奴だし、変わった奴だけど、ちょっと話してみるか?」


そう聞いた時、私は度の強いメガネをかけた、無造作に髪を伸ばした、センスのないトレーナーにジーンズ、汚れたスニーカー・・・といった、オタクな男性を想像した。そして、そんなイメージが出来上がった途端、背筋が冷たくなった。


「だ、大丈夫です・・・」


生来の人見知り気質が顔を擡げた。できれば遠慮したい人種の人に、仕事とはいえ関わりたくない。


 けれど、私の思いなど全く意に介せず、彼は携帯を取り出して、メールを打ち始めた。


「沙織ちゃん、この後予定、ないよな?」


「え?あ、はい!」


「奴も〆切終わった後で、今は暇なはずだから、そいつに会いに行ってみよう」


「え? ちょっと、尋人さん?」


 その言葉と同時に、彼はメールの送信を終了した。


 そして私のPCに手を伸ばし、データーを保存し、パソコンを終了させた。


 やがて、尋人さんの携帯が控えめな音を鳴らし始めた。尋人さんの携帯の呼び出し音だ。彼は


「ちょっと電話に出てくるから、荷物まとめてて!」

 

 と言い残し、エントランスの方へと走って行った。


「・・・私、会うなんてまだ一言も言ってないんだけどなぁ…」


 仕事だったらそうでもないけれど、プライベートでは、未だに人見知りを抱えている。出来ることなら、仕事の絡まない場所で、"初めまして"の人に会いたくない。


(尋人さんにも困ったよなぁ)


 あの人は、人見知り、と言うものを全くしない。だから私のこの人見知りの事を話しても、理解できないようだ。


 心の中で彼への文句を言いながらも、どうも憎めない彼の後ろ姿に苦笑いすると、荷物の片づけを始めた。


荷物が全てバッグに入った時、尋人さんが戻って来た。


「連絡取れたよ。今から一緒に来てくれる?

 奴、今日午前中に打ち合わせで、今昼飯なんだってさ。

 合流して一緒にランチしよう!」


「えっ!」


 躊躇で身体が竦んだ。


 はっきり言って、"初めまして"の初対面の人と一緒にご飯なんか食べられない。でも、そんな私の想いなんか、彼は知ったこっちゃない。


「さ、行くよ! すぐそこのカフェで待ち合わせしたから」


「ちょっと尋人さんっ!!」


 尋人さんの強引さに私は文句の声を出したけど、彼は全く関与しない。


「いい情報源だし、君に久しぶりに会わせたい奴もいるんだ」


 ・・・・彼の言葉は、待ち合わせ相手が一人ではない、そして、“初めまして”じゃない顔見知りがいる事を物語っていた。


結局彼に押し切られるようにして、私は図書館を後にした。


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