第18話
仕事中だという事を忘れ、すっかり人見知りモードに入ってしまった頃、周囲の空気は随分柔らかくなっていた。
私は相変わらず、何も食べられず、ウーロン茶だけのんで、その光景を壁に寄りかかって眺めていた。
その時だった。
「沙織ちゃん」
不意に、優しい声と同時に背の高い人が私に近づいてきた。顔をそちらに向けると、中田さんが、デザートが数種類乗ったプレートを二つ、持っていた。
「中田…さん…」
まさか、今日こんな近くで会えるとは思わなかったし、会えるのは諦めていた。それだけに、今こうして目の前に、今日の主役の王子様が、いつもの笑顔で立っているのが信じられなかった。
「あ、あの・・・このたびはおめでとうございます!」
パーティーが始まってから、ずっと言えなかったお祝いの言葉を、どもりながらようやくいうことが出来た。
「ありがとう。正直、ほっとしてるよ。無事出版にこぎつけられるのか心配だったんだ。でも、この業界に入ってから、自分の作品集出すのが夢だったから、すごく充実しているよ」
嬉しそうにそう言う中田さんが、とても眩しく見えた。そう言えば私も、初めて翻訳した本が出版にこぎつけたときは、凄くうれしかったっけな・・・でも、きっとそんな比じゃないだろう。当時の私は、まだ翻訳家としての自覚も実績もまだまだな駆け出しだったから・・・
私がぼーっとしていたからだろうか? 不意に中田さんが心配そうに表情を曇らせた。
「こういう席、苦手?」
「はい・・・」
「そうみたいだな。仕事の時とは全然違う顔してる」
そう言うと、彼は二枚持っているプレートの一枚を私に差し出した。
「はい、これ。さっきから何も食べてないだろ?」
「見てらしたんですか?」
「まあな。君が来てくれたのも、随分前に知ったんだけど、なかなか逃げられなくてね、やっと逃げてきた」
おどけてそう言う彼の言葉に、私は思わず笑っていた。
「やっと笑った・・・ずっと顔が引きつってたから、疲れてるのか緊張してるのか・・・って心配してたんだ」
「ずっと・・・見てらしたんですか?」
「まあ、知り合いの動きは一通りね」
もう、今となっては、人見知りを通り越して、このパーティーで"人が怖く"なっていた私に、中田さんはほら、とデザートプレートを再び差し出した。差し出されはしたものの、受け取るのにさっきから躊躇していた。
「何も食べないのも身体に悪いよ。一緒に食べよう。甘いもの、好きだろ?」
プレートには、さっきビッフェに出てきた数種類のスイーツが綺麗に盛り付けられている。簡単に喉を通りそうなゼリーやムースケーキ、食べやすくカットしてあるフルーツの盛り合わせだった。
「ありがとうございます・・・」
そう言って受け取ったデザートプレートは、美味しそうなバニラとフルーツの香りがして、急にお腹が空いてきた。
「いいよ。俺も息抜きしたかったんだ。さすがに出版出来たことは、出版社の人達に感謝してるけど、こうやって正装して挨拶回りするのは肩が凝る」
それは、意外な一言だった。さっきは堂々と人前で挨拶していたし、偉い人に囲まれていた時も、何食わぬ顔で笑顔を振りまいて会話していたのに・・・
「中田さんでも、こういう席で肩がこるんですか?」
「肩凝らないのは、井原さん位じゃないのか?」
そういって軽く視線を逸らすと、その先には尋人さんが、相変らず見ず知らずの出版社の人と談笑している。
「あの人の人脈の広さはすごいよなぁ…」
「本当にすごいですね」
うちは中堅どころの出版社。中田さんが今回画集を出す出版社は国内でも大手の出版社だ。そして、その出版記念パーティーに呼ばれる人たちも、中田さんが今まで関わった出版社を代表してきたり、営業担当の人が来たりと、様々だ。その人たちの中をにこやかに渡り歩き、時として名刺交換し、時として談笑し・・・私には出来ない事だ。
「ま、あっちはあっちでいいとして、俺たちは腹ごしらえしよう」
そう言いながら、私と中田さんは、スイーツのプレートを少しずつ食べた。中田さんが自然に喉を通るものを選んで持ってきてくれたおかげで、やっと、ほんの少しだけど息を付けた気分だった。
「中田さんは、スイーツお好きなんですね」
美味しそうにスイーツを食べている彼にそう聞くと、彼は大きく頷いた。
「作品作ってて行き詰まると、つい手を出してるなぁ・・・」
そう言われて、以前彼からもらった京都土産の金平糖を思い出した。今まで食べた事もないほど美味しかった、あの金平糖を・・・
「そういえば、あの金平糖、ありがとうございました。とても美味しかったです!」
すると、中田さんは満面の笑みを見せてくれた。
「そう言ってくれてよかった。
あの店は久保に聞いたんだ。奴、京都育ちだから京都は詳しいんだ。
京都土産にしては地味かと思ったけど、なんとなくさ、沙織ちゃんは“雨”のイメージだから。
綺麗な、霧雨みたいな雨。傘をさしたくない、濡れて歩きたい、透明で綺麗な雨。光を反射して、虹を織りなすような、雨。
あの金平糖を見た時、そんな沙織ちゃんの顔が浮かんだんだ」
柔らかい、優しい王子様のような笑顔でそう言われ、私は顔が熱くて、真っ赤になるのを感じた。
「ほ、褒めすぎです・・・」
「本当だよ」
ことさら優しい声と笑顔でそんなことをいわれると、また心臓が跳ね上がりそうになる。
「服、可愛いね。沙織ちゃんっぽっくて良く似合ってる。コサージュも素敵だね」
「あ、ありがとうございます」
突然服とコサージュを褒められて、ビックリした。顔が熱いのがなかなか引かない。
「コサージュは、大好きな人から頂いたんです。宝物、です」
これをくれた、大好きなお姉ちゃんの笑顔が脳裏に浮かんで、私の笑顔も自然にほころんだ。
「・・・彼氏?」
少しだけからかい口調でそう言った中田さんに、私は苦笑いして首を横に振った。
「だったらもっと素敵なんですけど、違います。
・・・昔、大好きだった近所のお姉ちゃんがいて、その人が結婚して遠くに行っちゃうことになって・・・記念に頂いたんです」
「そっか・・・てっきり、沙織ちゃん彼氏がいるのかとおもった」
「いませんよ。そんな人・・・中田さんはそう言う人おられるんですか?」
からかう様にそう聞くと、
「好きな人だったら、いるよ」
甘い表情をしてそう言う中田さん・・・・きっとその人の事を考えているんだろうな・・・自然に、そう思えた。
と、その時だった。