第11話
そしてその日。
私は一人でフェルメール展が開催されている美術館の前に立っていた。
美術館が開館する前に着くように、少し早めに支度して、余裕を持って家を出た。
以前開催された時は、日曜日だったせいか人が多くて、並んでいる間に気分が悪くなってしまい、見るどころではなかった。その時はとても残念な思いをした。
それも手伝って、今日は、時間にゆとりを持ったし、しかも平日、混んでいる事はないだろうし、ゆっくり見る事ができそうで、とても楽しみだった。
改めて、尋人さんの気遣いに感謝した。
電車と地下鉄を乗り継いで、目的の美術館へ行くと、休日ほどではないにしても、入場券売り場にはすでに行列ができていた。
時計を見るともうすぐ開館、そんな時間だった。休日ほどではない行列を横目に見ながら、既に招待チケットを持っている私は入り口に差し掛かった、その時だった。
「ただいまの時間、テレビ撮影の為、入場規制させていただいています。チケットをお持ちの方は、こちらに並んでお待ちください」
入り口付近で係の人がそう説明していた。
係の人が、他の人に説明している話が耳に飛び込んできた。
「ちょっと、どういう事ですか?」
私の前に入り口に並んでいる人が係の人に詰め寄った。係の人は、慣れた口調で事の次第を説明していた。
「申し訳ありません。
フェルメール展の特番が、テレビで放送されることになりまして、今、その収録をしているのですが、少し長引いていまして、今、美術館の中は今撮影中で、入場制限させていただいています」
「いつ頃入れるんですか?」
見知らぬ人が係の人にそう食ってかかった。この人も、フェルメール展をとても楽しみにしていたに違いない。
「いえ、全く入場できないわけではなくて、何人かずつ、入場して頂いています。収録ももうすぐ終わりますので、それが終われば通常入場できます。今しばらくお待ちください」
どっちにしても少し並べば入れそうだ・・・そう思って入場口に並ぼうとした時・・・
「あ・・・」
チケット売り場に、見覚えのある長身の人が並ぼうとしているのが見えた。見間違える事はない。あの人は・・・
「中田さん!?」
そう呼ぶと、中田さんはこちらを見て、私に気づくと手を振って私の方へ近づいてきた。
Vネックの黒っぽいTシャツにジャケット、パンツ・・・シンプルだけど、手抜きをして選んだ雰囲気ではない。自然体で飾り気のないけれどお洒落な彼そのものの姿のように見えた。それに、シンプルな服であればあるほど、彼の笑顔や人懐っこさが際立って見えて、むしろ好感が持てた。
仕事の時に会うときは、それなりにきちっとした格好でお互い向かい合うけれど、私服の彼を見るのは初めてではないだろうか?
「沙織ちゃん! 沙織ちゃんも見に来てたんだ」
いつも変わらない、明るい爽やかな声と笑顔、見ているだけで、私まで思わず笑みが溢れる。
「はい。尋人さんに招待チケット貰ったんです。中田さんは、これからチケット買うんですか?」
そう聞くと、中田さんはうなづいた。
「やっぱり土日は混むと思ったんだけどさ、まさかこんな事とぶつかるとはなぁ・・…」
彼がそう言って指差した先には、例の係員がいて、入場規制の説明をしている。
「でも、もうすぐ終わるみたいですし・・・よかったら、私のチケット、ペア券なので、一緒に入りませんか?」
「え?いいのか?誰かと一緒に来るつもりじゃなかったのか?」
「平日昼間に堂々とお休み取れる友達、少ないんです。私、来週以後は翻訳の仕事がハードになるから、このチャンス逃したら、行く自信ないんです」
当初、久保さんにあげようと思った・・・とは言えなかった。でも、中田さんは私の言葉を額面通り受け取ってくれた。
「そうか、翻訳業も大変だな・・・
じゃ、沙織ちゃんに甘えさせてもらおうかな?」
「たまには甘えてください」
そう言って、差し出したもう一枚の招待状を、彼は嬉しそうに受け取ってくれた。
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうな。
でも、俺、沙織ちゃんにはいつも甘えてる気がするな。
初めて会った時の傘もそうだったな」
「あれは行き掛かり上です。気にしないでください。
私だって、あんな事のお礼に、あんな高価な金平糖いただいちゃって、申し訳ない位なんですよ」
そんな話をしながら、私は、中田さんと入り口に並んだ。
派手に待たされるかな・・・そう覚悟していたけれど、思ったより待たずに入れたのでホッとした。
製作側の意図と相手は、誰もいない場所で収録するよりも、多少お客さんがいるような状態で対談・収録をしたいらしい・・…とは、係の人が教えてくれた事だった。
「なんの収録なんでしょうね」
通路の矢印に沿って横にいる中田さんにそう聞くと、中田さんは不意に思い出したような顔をした。
「あ! そういえば、久保が・・…」
そう言いかけた時だった。私の視界には、大好きなフェルメールの絵が・・・飛び込んでくるはずだった。
その代わりに見えたのは、視界の奥、フェルメールの名画の前に佇み、笑顔で会話する2人が見えた。
「あ・・・・」
その光景に、私は思わず足を止めてしまった。
私の視界には、クールな笑顔で話をしている久保さんと、彼と優雅にやり取りをしている森野さんの姿が飛び込んできた。
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そして、その2人を撮影する、カメラマンや録音係、収録のためのスタッフが数人、取り巻いていた。
その光景に、私は勿論、中田さんも足が止まった。
いったい何? どうして?・・・訳が分からなくなって狼狽している私に、中田さんはそっと耳打ちした。
「この前、久保が、
フェルメールの特番に出演する事になったって言ってた。
それ絡みで対談もあるって言ってた・・・
断ったらしいけど、久保のフェルメール好きは業界でもかなり有名で、断り切れなかったんだってさ」
「久保さんが・・・? 森野さんも?」
そう聞くと、中田さんは軽く首を傾げた。
「さあ・・・久保は何も言ってなかったけど、確かその特番放送するテレビ局と、森野が原作の連ドラを放送しているテレビ局が同じだから、その縁じゃないのか?
業界の間でも、久保と森野は公認の仲って噂だしさ。芸能人みたいに、共演NGなんて、小説家にはあんまりないからな。全員それぞれの利害関係が一致した、それだけじゃないのか?」
中田さんのそんな話を聞きながらも、私は、久保さんから目を離すことが出来なかった。
久保さんは、スタイリストさんが用意したのだのであろう、背広のような服を着て、髪の毛もいつものくせっ毛ではなく、整えてあった。それは私が知っている久保さんとは違う人のようで、とても遠くに感じた。
森野さんも、久保さんの服に合わせるように正装していたけれど、彼女は普段から華やかな服を着ているせいか、今着ている服にも全く違和感は感じない。でも、久保さんは・・・違和感の塊だった。
その二人が、絵を前にして、何やら話をしている所は、2人を知らない人が見たら、恋人同士の甘い会話をしている所にでも見えるだろう。
でも、彼らを知っている私達から見ると、違和感と、わけのわからない感情に襲われるシーンだった。
けれども・・・
「だから・・・断ったんだね・・・」
私は、小さな声で、そう呟いていた。
「え?」
中田さんはそれを聞き逃さなかった。私は苦笑いした。
「資料のお礼に、このチケット、2枚とも本当は久保さんにあげるつもりだったんです。でも、久保さんには断られちゃって・・・きっとこの仕事があったからですよね」
無理やり、自分の中で、彼の拒絶の理由をこじつけた。そう・・・嫌われていて断られたのではない。そう思いたかった。
それに、断られた、といっても、一緒に行くのを断られたわけではない。チケット二枚とも、彼に渡すつもりだったのだから・・・
やがて二人は、撮影を終えたのか、周囲の収録関係者も急にざわついた。
森野さんも、久保さんと何やら、さっきとは違う笑顔で会話をしているようだ。
「行こうか? 今、俺たちが久保に会うのは、辞めた方がいい」
そう言うと、中田さんは私の手をそっと掴んで、順路にそって絵を見始めた。
私はと言えば・・・大好きなフェルメール展なのに、絵に集中できなくて、どこか心ここにあらずな気分だった。
絵を見ていても、久保さんの存在が気になって、ちらちらと彼の方を見てしまい・・・
(何気にしてるのよ! 私はっ! これじゃまるで私、久保さんに・・・)
そんな思いは、すべて完結しなかった。そう考えている矢先、私と手を繋いでいる中田さんの手が、不意に私の指を、自分の指と絡めて繋ぎ変えたから・・・
(っ!)
俗にいう、恋人繋ぎ、っていうやつだった。びっくりして中田さんを見上げたけれど、彼は何食わぬ顔で絵を見て、その感想を私に言っている。
そしてその後ろでは、明らかに人の視線を感じて・・・
一瞬だけ、私は後ろを見た。そこには、私達の存在に気づいた久保さんがいて、私達を、複雑そうな、困ったような目で見ていた。
「どうかしたのか?」
中田さんの言葉に、私は思わず首を横に振り、絵画に集中しようとおもったけれど、そんなことできず、恋人繋ぎされた手と、久保さんの表情が頭から離れなかった。
胸のどこかが、痛い悲鳴を上げ続けているような気がした。