第10話
翌週から、私は本格的に翻訳の仕事に入ったら。
久保さんの用意してくれた資料はどれもわかりやすく、ホラーやオカルトが苦手な私でも、ちゃんと読み、理解できる様に書かれたものばかりだった。その資料と、私が苦労して集めた資料で、翻訳は驚くほど順調に進んだ。
けれども、気持ちはどんどん落ち込んでいった。
とにかく、扱っている内容が暗くてグロテスクなのだ。無法な魔女裁判によって火あぶりにされた無実な人々、100年戦争の最中、劣勢だったフランスを救ったジャンヌダルク。彼女は魔女裁判にかけられ、火あぶりにされた。どうしてフランスを救った彼女がそんな目にあったのか、周囲の思惑と魔女伝説が重なった悲劇。
そして、・・・今でも綿々と語り継がれている吸血鬼伝説・・・・その実態と、民衆を煽った存在・・・
想像しただけで、吐きそうになるし、夜中に1人で読みたい文献ではない。
「おい、大丈夫か?」
きっと、私の顔は真っ青だったに違いない。尋人さんが私に、カフェラテを差し出した。向かいのコンビニで限定発売している、とっても美味しいカフェラテで、私も気に入ってよく仕事の合間に買いに行って飲んでいた。
「ありがとうございます・・・」
「顔色悪いぞ。疲れてんのか?」
「この翻訳やって、楽しい気持ちになるのは、久保さんみたいにオカルト好きな人位ですよ」
翻訳の内容をリアルに思い浮かべると、視界は血の赤と火あぶりにされた無罪の人達の断末魔の声が聞こえてきそうだ。
「沙織・・・石垣さんは想像力逞しいからな」
職場では苗字で呼び合う、そんな約束をしていたのに、彼の口から職場で私の名前が出たのは、私があんまり疲れているからだろう。今の私は、きっと、職場では見せないようにしている弱気ぶりだろう。
「そういえば・・・フェルメール展にはもう行ったのか?」
尋人さんに聞かれて、私は首を横に振った。
「行ってこいよ。いい気分転換になるんじゃないのか?」
「そう・・・ですね・・・」
「行ってこいよ。有給、目一杯残ってるだろう? 今年中に使わないとかなり消滅するだろう?」
前の職場にいた頃から、病気以外で有給など使っていなかった。そのくせが未だに抜けず、今の職場に転職して数年、気がつくと有給が溜まりまくっていた。下手をすると、この部署の女性で、一番有給を溜め込んでいるかもしれない。
大好きなフェルメール展。開催されると知った時は嬉しくて、絶対に行こう!と思っていた。まさかこの期間中にこんな面倒な翻訳がはいるとはおもわなかった。
でも、気分転換にはちょうど良い。
「そうですね。じゃ、今度有給使って行ってきます。麻里にもメールしてみますね!」
そう言うと、尋人さんは私の頭をぽんぽん、と撫でて席へと戻っていった。
彼がくれたカフェラテを飲むと、不思議とまた元気が出てきた。
「よしっ! フェルメール楽しみに、頑張るかっ!」
そう自分に言い聞かせ、私は有休届を提出して、再び翻訳に没頭し始めた。
『沙織、ごめん! その日、仕事でフェルメール無理!
私も行きたかったんだけどなぁ・・・』
夜、麻里にメールすると、すぐに折り返し電話がかかってきた。考えてみれば当然だ。普通の人は普通に仕事している平日なのだから。
申し訳なさそうにそう言う彼女に、逆に私の方が申し訳なく思った。
「そっか・・・じゃ、仕方ないね。
来週にでもしようか?」
ことさら明るい声でそう返した。別にその日に拘っているわけではない。けれど・・・
『でも、来週以降になったら、沙織の方が仕事、きつくなるんじゃないの?それに有給だって、もう申請しちゃったんでしょう?』
さすが尋人さんの妹・・・とでもいうのか、私の仕事の忙しい時期を、ちゃんと知っているみたいだ。私は白状した。
「うん、来週過ぎると、翻訳もきっと山場に入るから休めそうもないんだ」
無理して休めない事はないけど、それをやるとそのあとキツくなるのは目に見えている。
『私のことはいいから、沙織行っておいで。
一人でいける?」
最後の一言は、明らかにふざけ口調だった。
もともとお一人様生活が長い私が、一人で行けないわけがない。
「寂しくて行けない・・・って言ったら、麻里、一緒に行ってくれるの?」
冗談めかしてそう聞くと、麻里は電話の向こうで笑った。今までの申し訳なさそうな声色が一気になりをひそめた。
つられて私も笑うと、どちらからともなく、『じゃ、またね!』という言葉と同時に電話を切った。
切れてしまった携帯を見つめながら、軽いため息をついた。
「一人で行ってくるか・・・」
正直、一人で行くのに抵抗は全くない。でも、麻里もフェルメール好きなので、一緒に行けないのは残念だ。
一人で出かけるのは全く抵抗ないのに、妙な寂しさが残った。