第9話
土曜日。
久保さんに会える、そう思うだけで、まるで微熱を患っているみたいに緊張した。
いつもより少しだけ、服装と髪型を気にして家を出て、いつもより早めに師匠の教室に着いた。
「今日は随分そわそわしてるわね。デート?」
私のレッスンをしながら、先生がそう聞いてきた。
「いいえっ! ただ、仕事関係の人にこの後会うので…」
「それにしちゃ、音が随分楽しそうよ?
沙織はね、気持ちがそのまま音になるから、仕事前レッスンだと、緊張感があったり音が堅かったりするんだけど、今日はそんなことなくて・・・音がそわそわしているっていうのかなぁ・・・なんだかすごくうれしそうよ?」
先生には見抜かれているようで、私は顔が赤くなるのを感じながら楽器を下して俯いた。
「図星? 恋人、できたの?」
もう三十になるのに、色めいた話一つなく、仕事と童話の世界に没頭する私の将来を、おそらく親以上に心配しているのは、この人だろう。
「・・・別に恋人とか、片思いの相手とかじゃないです。
ただ・・・ちょっと気になる人、です」
子供の頃からずっと知り合いの師匠には嘘はつけない。ついてもすぐばれるので、私は白状した。
「ちょっとだけ・・・わたしと似てるかな? って思う人がいて、その人とこの後、会うんです」
「デート?」
「違います! 頼んでおいた翻訳の資料、貰うためです」
そう師匠に言った時、彼にも師匠のコンサートチケットを渡したのを思い出した。
「ヴァイオリンが好きっていってたので、師匠のチケットも渡しておきました。来るかどうかは判りませんが・・・」
そういうと、師匠は表情を曇らせた。
「・・・どうかしましたか?」
その師匠の表情で心配になった私は、師匠にそう聞いた。
「ううん、でも沙織には、当日の雑用頼んでるわよね?一緒に聴かなくていいの?何だったら当日の雑用、他の人に変えようか?」
「その事も話してありますし、別に一緒に聴くような深い仲でもないですよ」
私は慌ててそう言って否定した。でも、顔はきっと真っ赤なままだっただろう。
そう、私と久保さんは、そんな色めいた関係ではない。ただ、同じような事を考えている他人同士・・・今回の翻訳の仕事が終われば、接点もなくなってしまう。そう言う関係・・・私はそう自分に言い聞かせた。
レッスン後、例のカフェの前で、私は大きく深呼吸した。服はおかしくないか、髪は乱れていないか・・・そして私自身、浮き足だっていないか・・・
師匠に指摘されたことが頭から離れなかった。
"音がそわそわしているっていうか・・・嬉しそうよ"
確かに嬉しくない、といったらウソだ。久保さんには会いたい。
でも、それは師匠が言っているような理由ではない。
久保さんに頼んだ資料がないと、仕事も進まないのだ。だから・・・
だから・・・
私は、カフェのドアを開けた。
"カラーン、カラーン"
澄んだドアベルが店内に響き、いらっしゃいませ、と店員さんの声が聞こえた。そして、この間彼が座っていた奥の席を見ると・・・
久保さんが、いた。
久保さんは、視線をテーブルに落として、今日はテーブルに向かってなにやら書いているようだった。
ノートみたいなものに、ただひたすら書き続けていた。時折手が止まり、考え込み、そしてまた書き続ける・・・きっとさっきから繰り返しているのだろう。
洗いざらしの白いシャツとデニム、といった服装スタイルは、初めて会った時から変わらない。私服がお洒落な中田さんとは対照的だけれども、その自然な雰囲気が彼らしくて素敵だと思った。
彼の座る椅子の横には、少し大き目な紙袋があった。
私は、彼の作業を邪魔しないようにそっと近づくと、突然彼が顔をあげて私の顔を見て驚いたようだった。
「石垣さん・・・」
「お仕事中、ごめんなさい」
「いや、これはまだ仕事じゃないんです」
てっきり私は、次の小説の下書きでもやっているのかと思っていたけど、そうではないみたいだ。でも出版や連載の目途がないけど、ストーリーの内容を考えていたのは一目瞭然だった。
私は断ってから、彼の向かいの席に座り、横にヴァイオリンと荷物を置いた。
「今日も、レッスン帰り?」
「はい」
「熱心だね」
感心するように言うと、店員さんがメニューを聞きに来たので、私はブレンドを頼んだ。
「俺は・・・ブレンドと、チーズケーキ二つ」
「二つ?」
「君も食べるだろ?」
二つのうちの一つは、私の分らしい。一瞬躊躇していると、
「二人いてさ、男の方だけスイーツ食べてるのって、ちょっと恥ずかしいんだ。ちょっと付き合ってくれないか?」
そう言われては、断れない。事実、この前食べたこの店のチーズケーキはとても美味しかったし、彼に言われて、もう一回食べたくなった。
「・・・はい・・・・」
店員さんが去ってゆくと、私は胸の鼓動を抑えるように、軽く息を吐いた。その間に、彼はテーブルに広げているノートと筆記用具をカバンに片付けていた。
「そう言えば…この前、久保さんの最新作、読まさせていただきましたよ」
そう言うと、彼は驚いた顔をして私を見た。
「・・・君の苦手な話だっただろ?大丈夫だったか?」
「正直言うと・・・いつもより、読むのに時間がかかりました」
スラスラ読めなかった、それだけで、私がどういう気持ちで読んだか、彼なら察してくれるような気がした。
「でも、話は私にとっては新鮮でした。
私の世界では悪役にしかならないヴァンパイアや悪魔が主人公の話って、あんまり読まないので、こんな機会じゃないと読めないし、今翻訳している文章にもドラキュラ伝説の事もあるので、ちょうどよかったです」
そう言うと、彼は少し照れくさそうにため息をついた。
「あのヴァンパイアを、ヴァンパイアの"正解"だと思われるのもちょっとな。
俺の話の中のヴァンパイアは、かなり人間臭いし、実像とはかけ離れてるからさ」
「あと・・・スターサファイアの彼女が、すごく気になりました」
ついつい出てきてしまった本音に、彼は意外そうな顔をした。
「どんな人なんだろうなって。ヴァンパイアになる前の主人公が、本気で愛した女性を、"華麗に輝くスターサファイアのような人"なんて、表現が素敵です。
私、そのあとでネットで検索してみましたよ」
すごいきれいな青。その中央に、星の輝きのような十字架のような模様が入っている。それが本当に模様なのか、本当に輝いているのかは画像なので判らなかったけれど。
そこまで話してから、ふと気が付いて私は言葉を止めた。
スターサファイアの白い輝き・・・あれは、見方によっては十字架に見えなくもないような気がした。ヴァンパイアの嫌いな、十字架。
そして、それさえも、その後の話を予感させる小道具のように・・・
(ありえない、よね・・・)
私は考えていた事を頭の外に追い出した。話の中に仕掛けた小道具について彼自身に聞くなんて、無粋だ。そして、彼の話の感想を話し続けた。彼は、私の、賛否の混ざった感想を、嫌がらずに最後まで聞いてくれた。
でも、一瞬言葉を止めた私に、久保さんは
「どうかしたの?」
と声をかけた。
突然言葉を止めた私を不審に思ったのか、彼は首を傾げて私にそう聞いた。私は慌てて首を横に振った。
「いいえ、スターサファイアの彼女、どんな人なのかなって考えたら・・・」
久保さんは、少しだけ口元に笑みを浮かべた。
「誰かは秘密だけど、モデルはいるんだ」
「えっ!」
驚いて、思わず声を上げてしまった。
「実際にいる人、なんですか?」
「まあ・・・な」
彼は言葉を濁した。なんだか
“聞いちゃいけない事だったのかなぁ・・・”
口に出してしまった事をひどく後悔した。そして彼も、それ以上話したくない様な顔をしていたので、私もそれ以上は聞かなかった。
そして、小説の感想を続けた。きっと久保さんは、そっちの方が聞きたいに違いない。
「人の・・・人の心を持ったままヴァンパイアになって、ジレンマ抱えて長い事生きるなんて、すごく苦しかったんだろうなって・・・その苦しみの表現が、すごく絶妙で・・・まるで久保さんの苦しみみたいでした」
「俺の?」
意外そうに、彼は声をあげた。私は戸惑いながら頷いた。
「私は・・ハッピーエンドな童話しか読まない子供みたいな性格してますけど、そういう、永遠に続く不幸や苦しみって、表現するの、難しいと思うんです。それを、あんなふうに表現できるのって、凄いな、って思ったんです。
ほら、童話だと、"王子様は姫君と幸せに暮らしました。めでたしめでたし"で終わっちゃうじゃないですか。その続きにある結婚後の苦しみとか悲しみなんか書いていないですし」
これは、私と彼の読書傾向の違いだろう、と思った。彼の読書傾向が、童話やハッピーエンドなおとぎ話とは全然違うミステリーやオカルトだ、というだけの話だ。
だけど、読書傾向が違うだけで、表現方法もここまで変わってくるんだと思うと・・・
(私ももうちょっと違う話、読んだ方がいいのかなぁ…)
そうじゃないと、今回みたいな専門外の翻訳の仕事が舞い込んできたとき、本当に苦労する。
やがて、チーズケーキがテーブルに届き、私達は話を中断した。
「とりあえず・・・食べようか?
資料は、食べてからでいいか?」
「もちろんです!」
私たちは同時に、いただきます、を言って、チーズケーキを食べた。甘さを控えたチーズケーキは、ヴァイオリンレッスンが終わって少し疲れている私の胃に軽く響いて、ヴァイオリンや、翻訳での疲れが癒されてゆくようだった。
この間もそうだったけど、このチーズケーキを食べていると、優しい既視感に包まれる。子供の頃の、家族と過ごした、優しい幸せな思い出・・・
父と母、兄と、笑顔ですごしていた子供時代。
あの頃には必ず、母の手作りケーキがあった。
母がケーキを作る後ろ姿を見ていると、それだけでワクワクしたっけ・・・
一体いつ、そんな幸せな時間を、忘れてしまったんだろう・・・
チーズケーキと幼い頃の思い出を散々堪能して、皿が綺麗に空になると、彼は思い出したように、私に大きな紙袋を差し出した。
「これ、この前頼まれた、資料。
石垣さん、グロいの苦手ってきいてたから、そういうのは外したから大丈夫だと思うんだ。
それから・・・」
彼は、今度は自分のカバンをごそごそと漁り、中から使い込んだ一冊のノートを引っ張り出した。
「これが・・・"ヴァンパイアはかく語りき"の設定ノート。良かったら見てみて。当時、吸血鬼伝説とかヴァンパイアの出てきた映画、かなり見て設定作ったから・・・きっと役に立つと思う」
それも手渡され、私は逆に躊躇した。
小説家にとって、自分の作品の設定資料はすごく大切なものに違いない。そんなものを、私なんかに渡してしまってもいいの?
そんな疑問が顔に出てしまったのだろう、彼は軽く笑った。
「本はもう出版されたし、石垣さんなら絶対悪用したいと思ってる。今回の翻訳に役に立ってくれたら、それでいい」
そう言うと、紙袋の中に、他の資料と一緒にそのノートも入れた。
「わざわざ、ありがとうございます!」
「どういたしまして、俺も、資料集めながら、楽しかった。
自分の好きな分野の資料集めって、結構楽しいからな。
今度童話やメルヘンを舞台にした話を書くときは、石垣さんに資料頼むよ」
言われて私は、思わず笑ってしまった。
「はい! 任せてください! その時は頑張って資料集めします!!」
私があんまり元気に言ったからだろうか? 久保さんは吹き出した。
「石垣さんって、初めて会った時から、年上な感じ、しないな」
「そ、そうですか?」
「ああ。ガキみたいな外見してて、素直でまっすぐすぎて、嫌な感じがしないんだ」
「ガキっぽいのは自覚してます」
彼の言葉に、自分の童顔過ぎる顔立ちを思い出し、少し落ち込みそうになった。
「でもさ、ガキっぽくて素直で、そういうのっていいな」
笑いながらそう言う久保さんの笑顔が、とても素敵で、落ち込みそうになった心は一気に彼に傾いた。
「俺は、嫌いじゃない。
だから、翻訳で困ったことがあったら、連絡くれればすぐに助けてあげるよ。俺の連絡先、知ってるよな?」
「あ・・・はい。ありがとうございます」
どうしよう・・・とっても嬉しい・・・
彼の心遣いが、とても嬉しくて、何かお礼をしたくなってしまった。
「あの・・資料のお礼がしたいんですけど、何がいいですか?」
私がそう聞くと、彼は意外そうな顔をした。
「え? お礼?」
「ええ。この資料の為に、随分お時間を取らせてしまったようですし、何か私に出来ることがあれば」
「いいよ。俺も楽しかったし」
そう言って首を横に振った。でも、私の気が済まなかった。そして、不意に、井原さんがくれたフェルメールのチケットを思い出した。
そして、カバンの中から、フェルメールのチケットを二枚、取り出した。たしか、久保さんもフェルメールの絵が好きだと言っていた。
「よかったら、このチケット、差し上げますので、どなたかと行ってらしてください」
彼は、私の差し出したチケットを見つめた。
「フェルメール?」
「はい、以前、お好きだと仰ってましたし・・・よかったら、お知り合いと一緒に行ってらして下さい」
まさか、一緒に行こう、なんて言えなかった。でも、彼が、誰かお友達と一緒に行くのなら・・・資料のお礼になるかもしれない。
ところが・・彼は表情を曇らせた。
「悪いけど・・・フェルメール、先約があるんだ。チケットももう手配しちゃったんだ」
「あ・・」
そうか・・・私は酷く落胆した。
「ごめんな。気持ちは嬉しいけど」
「いいえっ! それなら私が行くからいいんです!」
私は、フェルメールのチケットをカバンにしまった。その仕草を、彼は残念そうに、そしてどこか複雑そうに見つめていた。
その時だった。
「聖夜!」
突然彼を呼ぶ声が聞こえ、私と彼は同時に声がしたほうに振り向いた。
そこには、私よりも大人びた服を着た美女が立っていた・・・森野さんだった。
「森野」
「森野さん・・・こんにちは」
(やっぱり綺麗な人だなぁ…)
挨拶しながら、彼女の立居振舞を見て、素直にそう思った。
ところが森野さんは、私の挨拶など無視して、久保さんに、
「ねえ、今暇? ちょっと付き合ってほしいんだけど・・・
急に映画の試写会のチケット二枚貰ったんだけど、一緒に行く人がいなくて・・・」
甘い、ねだるような声で言いながら、森野さんはちらり、と私に視線をぶつけてきた。その視線は冷たく、邪魔者を見るような目だったけれど・・・
“邪魔よ!さっさと消えて!”
彼女の視線が、そう言っているように見えたのは、前回会った時の先入観のせいか、それとも・・・久保さんにとっての“スターサファイア”が森野さんかも知れないからか・・・
けれど、その正体のことを考えるより先に、彼女の冷たい視線に晒された途端、瞬間鳥肌が立ち、ここにいちゃいけない・・・そう思った。
そしてそう思った瞬間、それはすぐ行動に移った。
「じゃ、私はこれで失礼します」
「え? もう帰るのか?」
久保の残念そうな声に、私は軽く頷いた。
「せっかく資料を貸してくださったので、早く目を通したいんです。ありがとうございました」
そう言って立ち上がり、肩にヴァイオリン、片手にカバン、そしてもう片手に彼がくれた大きな紙袋を持って立ち上がった。
すると森野さんは、当然のように私が座っていた席に座ると、
「すいません! ここのお皿、片付けてもらえますか? それから注文お願いします!」
やや、威丈高に聞こえたのは、私の気持ちが反映されたからだろうか?
店員さんが私のお皿を片付けて、テーブルを拭き、それが終わると、彼女はカフェオレを注文した。
「久保君、相変らずチーズケーキ? よく飽きないわね」
「お前はチーズケーキ嫌いだもんなぁ」
「そんな地味なケーキ、好きになれないな」
そんな会話を交わしている二人に"それじゃあ"と、一礼すると、私は自分の分の会計を済ませて、店を出た。
裏通りを地下鉄乗り場のほうに歩きながら、2人のやり取りを思い出した。それは、見方によっては恋人同士にも見えた。あの久保さんが、尻に敷かれてた・・・
「久保さん・・・恋人、いたんだね・・・」
森野さんの話も、映画に行く話も、断らなかった。二人はそう言う関係、という事。
少なくとも森野さんは、私なんかとは比べ物にならないくらい、久保さんの世界の中心に近いところにいる、ということ・・・
「そうだよね・・・」
そう認識した途端、急に心がしぼんでゆくのを感じた。
久保さんに会う前は、あんなに浮かれていたのに、そんなの思い出せないくらいだ。
「あーあ・・・」
大きくため息をつくと、来たときとは対照的な、重たい足取りで、改札口へと向かった。
借りた資料も、ヴァイオリンも、いつもよりずっと重たく感じた。