プロローグ
それはまだ、私が普通のOLをしていた頃。
仕事が早く終わった日、職場の近くにあるブックカフェで本を読みながら過ごすのが、私のアフターファイブの楽しみだった。
小さい頃から、若干引きこもりがちで、外でお友達と遊ぶよりも家で絵本を読むことが大好きだった私に、海外出張が多かった父は、お土産に、と外国の綺麗な絵本をよく買ってきてくれた。日本の絵本にはない色彩や絵に、私はいつも釘づけになり、読めない外国の文字と異国の絵を見ながら、見知らぬ国の物語に夢を膨らませた。
そのブックカフェも、そんな絵本や海外の物語を、洋書、翻訳問わず置いてある所で、私にとってはささやかな秘密の場所だった。
表通りから少し離れた所にあり、常連さんしか来ないような立地条件も、マスターが淹れてくれる美味しいコーヒーや紅茶も、私が、ここが大好きな理由だった。
そんなある日の事だった。
「こんにちはーマスター」
ドアを開けると、澄んだドアベルの音が店に響く。もともと洋風雑貨店を改造して作ったせいか、店の中は、外国の雰囲気が漂っている。
暖かいログハウスのような色合いに、同じ色調の木のテーブル、窓辺には銀色のドリームキャッチャーが飾ってあり、それに吊るされているクリスタルはまるで雨つぶのようにキラキラ輝いていた。
カウンターとテーブル席、トータル10席程しかないけれど、狭苦しい感じは全くなく、ひどく落ち着く空間だ。
「こんにちは。あ、この前言ってた本、入ったから、取っといたよ」
マスターがにこやかにそう言うと、近くの本棚からその本を取り出した。
「これだろ?」
ー.
その本は、まさしく私が捜していた本だった。私は思わず顔がゆるんだ。
「うん!そう!! ありがとうございます」
「探すの、ちょっと大変だったよ。その本絶版して随分経つだろ?」
「ええ。だから、探すの限界があって・・古本屋やネットでも探したんですけど、なかなか見つからなくて・・・でも、ずっと読みたかったんです」
「そう言ってもらえると、探し回った甲斐があった。はい、どうぞ」
本を手渡すマスターの手は、年相応に年輪が刻まれているけれど、まるでその分だけ、世の中や世界の事を知っている、童話に出てくる物知りで気の良い樹木の妖精の長老のようだ。
「ありがとうございます!早速読まさせていただきます。あ、あと、カフェオレください」
「はいよ」
私はマスターから本を受け取り、お気に入りの窓側の席に座った。そして、諦め半分で待ちかねていた本を開いた。
本は、完全な洋書で、日本語など全く書かれていない。でも、このブックカフェに置いてある本の半分は、そんな洋書ばかりだった。
子供の頃から、人見知りで家の中に引きこもっては、童話やおとぎ話ばかり読んでいた。
外国語で書かれた絵本に慣れ親しんだせいか、あるいは童話好きが転じてか、子供のうちから英語を習い、大学も英文科を出た。在学中には、教授の勧めもあって交換留学として、アメリカに1年、留学していた。その成果もあってか、大概の洋書なら、普通に読めてしまう。
とはいえ、他の人から見たらあまり共感できない趣味であることには変わりない。
二十代半ばで、未だに童話やおとぎ話ばかり読んでいて、都内で絵本展や童画展があれば足繁く通い、絵本作家のイベントや展示会があると、それもまた足しげく通い・・・彼氏の一人もいない。地味この上ない。
同じ会社の同僚は、週末になれば、やれ食事だ、合コンだ、デートだ、旅行だ、習い事だ・・・と華やかな生活をしている。そんな中、仕事が定時で終わるとさっさと会社を出て、図書館やブックカフェで時間を過ごす・・・他の人が聞いたら、呆れてドン引きするだろう。
恋愛にもあまり興味がなかった。おつき合いしたことがないわけではない。けど、恋愛よりも童話や物語に夢中になる私に呆れて、自然消滅するのが常だった。そして私も、そんなことにあまり執着していない。
実際、本の中の恋愛だけでお腹いっぱいだ。下手に焦って恋愛するよりも、図書館や大好きなブックカフェで過ごす方が楽しい・・・そう思うようになってからは、友達に誘われる合コンにさえ、出席しないようになった。
一歩間違えれば絵本オタク、童話オタク、と言われるだろう。自覚はある。でも、改める気も全くない。
何より、私の日常生活は、これが一番充実していた。
本の世界に入って、どのくらい経ってからだろう?
ふと、現実の世界に戻って、すでにぬるくなってしまったカフェオレを一口、飲んだ。
顔をあげた瞬間だった。
(あれ・・・?)
いつもは、私のほかに、2,3人のお客さんしかいないこのカフェ。来る人は大体顔見知りだ。そんな中、初めて見る人がいた。
私の座る席とは違う窓側の席に座り、私と同じ、洋書に視線を落とした男性だった。
不思議と、その人の視線に、胸が鳴った。
眼鏡越しに活字に目を落とすその人の目は、夕暮れ時の窓から入ってくる光と、窓辺に飾ってあるドリームキャッチャーのクリスタルに反射する光も手伝って、不思議な色に見えた。
少しだけ癖っ毛気味で短く切った髪の毛と、おそらく私よりも色白な肌の色。細い黒縁のメガネを通して、本を読んでいる。
見るからに、私と同じくらいか、それより年上な雰囲気だった。
そして何より・・・
(きれいな人・・・)
その端正で綺麗な顔立ちに見とれて、私の視線は彼から離れなくなった。
童話に出てくる王子様? アイドルみたいな人? ううん、違う、そんなキラキラした人じゃない。
でも・・・
もし、もしも私が恋愛小説家だったら、彼を主人公にして、素敵な恋愛小説を書いてみたい・・・
そう、素直に思った。でも思った瞬間。
(私が書いたら、それこそあれだ! プロローグ読んだだけでオチが判っちゃうような、どこにでもある三文小説にしかならないなぁ・・・)
読むのは大好きだけど、書く才能は皆無な事を、私は良く判っていた。
そして再び本に視線を落とし、本の世界に戻ろうとした。
でも、気が付くと、何度も現実の世界に戻り、彼の姿を見つめていた。
本を片手に、カップを口元へ持ってゆく姿が、流れるようで絵になっていた。
いつしか私は、その彼の姿を、目で追っていた。
胸の高鳴りが、少しずつ、熱を持ち始めた・・・
やがて、彼は本を閉じ、立ち上がると、会計を済ませ、店を出て行った。気が付くと、店の閉店時間はもうすぐだった。外は真っ暗で、よく見ると小雨が降っているようだ。そういえば会社を出る時に、今夜は雨が降る・・・と言っていた。
「雨か・・・」
カバンの中を見ると、いつも入れっぱなしにしている、お気に入りの折り畳み傘がある。濡れずに帰れそうだ。
でも、もう一度外を見ると、まるで細かいクリスタルが降ってきているような綺麗な雨で、傘をさして帰るのがもったいない気がした。
「・・・・・綺麗だね」
ふと見ると、マスターが私の席の近くにいて、同じ窓の外を見ていた。
「水晶の欠片みたいだな」
「マスターもそう思いますか?」
このブックカフェが大好きな理由のもう一つは、このマスターだ。
感性が似ているというか、同じ世界を共有している感じがする。
だから、ここは居心地がいいのだ、と実感する。
「そろそろ閉店だけど、どうする、もうちょっといる?」
気がつくと、 随分長い時間、ここで過ごしていた。時間を忘れるのはいつもの事だけれども、今日は本のページはいつも程進んでいない。
本の内容よりも、さっきのあの人の姿ばかり、脳裏に焼きついていた。
「いいえ、明日も仕事ですから、今日はもう帰ります」
私は本を閉じ、会計を済ませて、外に出た。
外の風は、知らないうちに熱を持ってしまった私の身体を冷やすように、涼しい風が吹いていた。
と、その時だった。
ブックカフェの隣の店・・・もうシャッターが閉まっている店の軒下に、誰かが立っていた。
ブックカフェの灯を頼りに目を凝らすと、さっきまで同じカフェにいた、あの人だった。
あの人は、さっきより酷くなってきた雨空を見ながら、困ったような顔をしている。
(濡れるのが嫌なのかなぁ?)
一瞬、そう思った。けど、それだけではないことにはすぐに気づいた。
彼の手元には、彼の荷物と一緒に、近所の大きな本屋さんの紙袋があった。
(あ・・・本が濡れるのが嫌なのか・・・)
そう思った瞬間、その人のと不思議な共通点を見つけたような気がした。
そして、考えるまでもなく身体が動いていた。
カバンの中に一本だけある、折り畳み傘を出すと。
「これ、どうぞ」
私はその人に差し出していた。
「え?」
彼は驚いたように私を見下ろした。私よりも頭一つ分、ゆうに背が高い。私自身、小柄なのもあるけど、さっきまではお互い座っていて気づかなかったけれど、かなりの長身みたいだ。
「本が・・・濡れちゃったら、可愛そうです」
こんな事を見ず知らずの人に言ったら、きっと普通の人は引くだろう。でも、なぜか普通に言葉が出てきた。
「でも、君が濡れるだろう?」
おきまりのセリフが戻ってきた。でも私は首を横に振った。
「雨、嫌いじゃないんです。それに、私、すぐそこの駅なので、大丈夫です」
ここから表通りに出た所に、地下鉄の改札口がある。そこから地下鉄に乗ればうちはすぐだ。
「でも・・・」
それでも戸惑う彼に、私はさらに畳み掛ける。
「ここのブックカフェ、私はよく来るんで、マスターに傘を預けておいて貰えれば・・・面倒だったら、その傘、差し上げますので」
差し上げる、そう言いながらも、その傘がお気に入りのメーカーのお気に入りの傘なのを思い出し、言ったことを後悔した。
戸惑う彼に私は一礼すると、雨の中を改札に向かって走っていた。
後になって思うと、どうしてあの時、お気に入りの傘を彼に渡してしまったのか、不思議だった。
カフェで、目を離せないほど、素敵な人だったから?
彼の目の色が、綺麗だったから?
・・・・そのどれもが正解で、でも決定的な答えではない気がした。・・・
その理由を見出せないまま、あのカフェで、本に目を落としていた彼の姿が脳裏に焼きついて離れなかった。
・・・・それから、私は、あのブックカフェに行くたびに、あの人の姿を探した。
マスターに聞いても、あの傘が私の手元に戻ってくることはなく、彼がここに来たかどうかも、なぜか聞けなかった。
あの人は、まるで黄昏時の優しい空気や光が私に見せた、都合のよい魔法か夢の様にさえ思うようになっていった・・・
それに落胆する反面、あの出会いが、魔法や夢の類だ・・・そう思うととても幸せな気持ちになれた。
偶然とか必然とか、数学や数式で説明できてしまう出来事よりも、天使や妖精の気まぐれな魔法の方が、不思議と心に落ちて、心が満たされる気がする。
けれど、あの不思議な、魔法のような時間が、"恋"に成長するのは、もう少し未来の話で・・・そして私には、今も当時も、未来を見る魔法なんか使えなかったので、彼との再会など知る由もなかったし、あるわけないと思っていた。
それは、私が転職する、ちょうど一年前の事だった。