ベック家の事情
得体の知れない国家保安本部の少女。
穿った見方をして、ことさらに悪く言えばそういう表現が正しい彼女と、ルートヴィヒ・ベックの妻は傍目にはまるで孫と祖母のように仲が良い。
親衛隊上層部の私的な特権もあって、マリーはたまに貴重な食料品などを持ってベック家を訪れる。
パンを焼いたり、スープを作ったり。
料理の勉強がてら、台所に立っている少女の後ろ姿をベックはほほえましいやら、十代初めの少女が料理を習う様子に見えるやらでどこか危なっかしい。
やけどでもしやしないかと冷や冷やしながら、台所の様子を盗み見る夫の姿に、妻の老夫人はクスクスと忍び笑う。
時折、マイセン磁器の食器を落としたりして少なからず被害もあるが、料理などしたこともない少女に料理を教えると言うことは往々にしてそうしたリスクが伴うものだ。
指先の皮膚が薄いせいで熱いものが持てないのだろう。
爪もひどく薄くて、缶や瓶をあけるために力を込めたときに引っかかるとたやすく割れてしまいそうだし、そもそも少しの衝撃で割れるのは日常茶飯事だ。
「マリーちゃんはお仕事が忙しいから、家でゆっくり食事なんて作る時間もないでしょうから、仕事の帰りにでも寄ってくれれば分けてあげるわよ」
退役軍人の家庭だからと言って、食料が融通されるというわけでもない。
だからベック家の家系はそれなりに厳しいのだ。
幸い、成長期の子供がいないだけまだましと言えたかも知れない。
加えてマリーは時折、ヴルストやベーコン、貴重な野菜や小麦粉などを持参してベック家に訪れる。
聞いたところによれば、グデーリアン家にも出入りはしているようで、仕事に忙殺されるマリーはあちこちの高官の家から完成した料理をお裾分けしてもらっているらしい。
「おいしい野菜スープの作り方を教えてください」
殊勝で素直な少女の声に、ルートヴィヒ・ベックは目尻を下げた。
ナチス親衛隊のほとんどの隊員たちは気に入らないが、マリーだけは別格だ。
やせてぎすぎすとしていて、健康的な魅力からはほど遠いが、そんな欠点を補って余りあるほど彼女は屈託がなく、まっすぐだ。
「お肉は得意じゃないのよね?」
「……――」
マリーがうなるような抗議の声を上げたような気がした。
どうやら平均的なドイツ人と同じ量の動物性タンパク質を摂取すると胃にもたれて苦しくなるらしい。
「いいのよ、誰にだって苦手なものはあるのだから。でも、お肉も食べないと身長も伸びないから少しは食べないと駄目ね」
「はい、がんばります……」
ナチス親衛隊の高官たちからたくさんの食材を融通されるのはマリーの個人的な特権だ。
それをマリーがどうしようと咎められる話でもない。
「じゃ、ベーコンとタマネギのスープを作りましょう。パンはもうすぐ焼けるから」
てきぱきとその他の肉料理も準備を始めた老夫人は、遠目に二人をながめている夫に片目をつむってみせるのだった。
マリーの食事量にあわせていては、今度はルートヴィヒ・ベックが栄養失調で健康を害しかねない。
その辺りのバランスが難しい問題だった。
それにしてももうすぐ十七歳だというマリーはいつになったら、十代初めの少女の体型を抜け出すのだろう。
ルートヴィヒ・ベックはやれやれとため息をつきながらそんなことを考えた。




