マリーとハウサー
ひそひそと声が聞こえる。
マリーはいつものように赤毛のシェパードを連れて冬の終わりのベルリンの街並みの中を歩く。
もこもこと着ぶくれしているのは主に彼女の主治医――カール・ゲープハルトの言いつけだ。
もっとも着ぶくれしていると言ってみても元々の体型が痩せすぎなため、いくら着込んでみてもせいぜい人並みのスタイル程度にしか見えないのが難点だ。
これについては、マリーの主治医は盛大に溜め息をつき、その部下に当たる青年医師は肩をすくめてあきれた様子で鼻を鳴らしたのだった。
四本の足で颯爽と歩く赤毛のシェパードは、これ見よがしに得意げだが、マリーのほうはというとおっかなびっくりといった様子で時折駆け足気味なったり滑ったりするのだった。
「ほらあの子……」
「いつもきれいな親衛隊員をとっかえひっかえ」
聞こえてきているはずのこれ見よがしの悪口に、少女は金色の長い髪を揺らしながらどこ吹く風といった様子だ。
正直、国家保安本部の強面の親衛隊員と年中顔をつきあわせている彼女に、街の少女たちの眼差しなど恐くもないのかも知れない。
「どうせ、誰か高官の娘さんよ」
「ゲシュタポに目をつけられたらただじゃすまないわ……」
どうせなら穏便に仲良くなって誰か良い人を紹介してもらいましょうよ。
ひそひそとささやき声が聞こえるが、マリーは手元のロートのリードを掴んだまま困った様子で閉口していた。
「おやおや、これはこれは」
皮肉げな男の声が聞こえてきて、少女は足を止めた。
車道に走る車が唐突に速度を落としたかと思ったら、後部座席の窓が静かにおりる。
「えーと……?」
「こんなところをひとりで歩いていては危険ではないのかね?」
咄嗟に相手の名前が出てこない少女は視線を数秒だけ上空に上げてから男の顔に戻して首を傾げる。
「パウル・ハウサーだ」
結局、彼女に名前を思い出してもらえなかったハウサーが憮然として眉をひそめてから名乗ると、少女は思わずロートを引く綱を取り落として、胸の前でぱちりと手のひらを打ち合わせた。
「ハウサー大将、こんにちは」
「あぁ、”こんにちは”」
「武装親衛隊はフランスにいるって聞いてましたけど、お忙しいんじゃないんですか?」
礼儀をわきまえているのか、不作法なのかわかりづらい少女の物言いにハウサーは眉間のしわをますます深めてから、荒っぽい動作でベンツの後部座席の扉を開いて少女の細い手首を掴んだ。
「こんなところで、国家保安本部の秘蔵っ子が歩いていて後々怪我でもするようなことになれば、わたしの責任を問われかねんからな。乗りたまえ」
そう言い捨てて少女の腕をそのまま引くと引っ張り込んだ。
長身のハウサーの腕の力にひかれて、マリーは目を白黒させて親衛隊の公用車にもつれこんだ。
とても六十二歳とは思えないプロイセン軍人出身の武装親衛隊高級指導者は、軽すぎる少女の体に不機嫌な吐息をついた。
ハウサーは自分の隣に腰を下ろした少女のつむじを見下ろして、馬面の国家保安本部長官の顔を思い出した。
華奢すぎて見ていて不安になるのは、カルテンブルンナーも同じなのだろう。
ちょこりと座った少女の足元を、すり抜けるようにして賢い赤毛のシェパードがハウサーの車に乗り込んだ。
強面で口の悪いパウル・ハウサーと、青い瞳が印象的な人形か、妖精のような少女という構図もなんだか面白くて運転手を務める親衛隊員が口元に拳を当てて小さく笑ったのだった。
「送ってやろう」
「ありがとうございます」
マリーはハウサーの強引な申し出ににこりと笑った。




