マリーと士官候補生
親衛隊士官学校での過程ももうすぐ終わる。
そうすれば新たな戦場が待っている……。
昨年の作戦の際に負傷したヴィットマンは、ドイツ本国へと送り返されて士官候補生として戦車兵となるべく訓練を受けていた。そうこうしているうちに東部での戦争は終結し、ヴィットマンは活躍の場を逸していた。
「全く、おもしろくない」
自分が怪我をしている間に戦争は勝手に終わってしまった。
戦争が終わることは本来素晴らしいことなのだが、ヴィットマンは兵隊だ。
むっつりとした顔で休暇を利用して買い物に出かけていたミヒャエル・ヴィットマンは腹立ち紛れに足元に転がっていた小石を思い切り蹴り飛ばす。そうしてほんの一瞬後に顔を上げた彼は、鼓膜に飛び込んできた鋭い犬の鳴き声と、「きゃっ!」と上がった悲鳴に首を回す。
うずくまって足首を押さえている少女は、びっくりした顔で地面に手をついて、鋭く啼き声を上げて軽やかな足音をたてて走る大柄の赤いシェパードを視線で追いかけた。
「……え?」
ぽかんとヴィットマンが目を丸くする。
同時に赤いシェパードは力強く地面を蹴りつけて彼に襲いかかった。
「ロート!」
少女の悲鳴と、青年が思いきり腕を振り上げて赤いシェパードを振り払ったのはほぼ同時だった。
「大丈夫ですか……?」
白いハンカチをヴィットマンの額に当てた少女が、通りのわきにあるカフェでそっと覗き込んで首を傾ける。
「これくらいなんでもないさ」
少女の命令にぴたりと攻撃態勢を解除した赤いシェパードだったが、勢いは止められず、そのまま犬と衝突する形になった士官候補生の青年はもつれるように舗装された道路に倒れ込んだ。
倒れ込んだ長身の青年に慌てふためいた少女は「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も頭を下げた。
金色の長い髪は腰の辺りまで伸びていて、それが印象的だ。
白いマントと白いロシアンハットがよく似合っている。
「俺は兵隊だからこれくらいなんでもないが、君こそ俺が蹴った石があたったんだろう。大丈夫か?」
問いかけた彼に金髪の少女は困った顔をしてから、ひょこりと小さく足を引きずった。
「少し痛みますけど、大丈夫です」
「そうか、悪かったな」
少しむしゃくしゃしていてなぁ……。
溜め息混じりのヴィットマンに、金髪の少女はほほえむとじっと若い青年を青い瞳で覗き込む。
「君は?」
「マリーです」
マリー。
彼女はそう名乗った。
「そうか、マリーか。俺はミヒャエル……。そうだな、お詫びと言ってはなんだけど昼飯でも食っていかないか?」
「わたし、別にお金に困っていません」
「いいんだ、おごる」
お詫びだと言った。
彼のそんな言い訳じみた言葉に、ややしてからにこりと笑うと少女は長い睫毛をまたたかせた。
ヨーロッパの女性は高すぎる鼻を嫌うものだが、少女の鼻はすっと鼻筋が通っていてバランスの整った顔立ちをしている。
強いて印象づけるものがあるとすれば、少し広めの額かもしれない。
「その犬は君の犬なのか?」
「はい、番犬です」
「ふぅん……、良い犬だな」
そんな他愛のない話しを交わしながら、シェパードのリードをひいたヴィットマンは不意に、パァンと鳴ったクラクションの音を聞いた。
「あっ!」
マリーと名乗った少女が声を上げて胸元から懐中時計を開けた。
「マリー、お友達かね?」
「いいえ、たった今会ったばかりの人です」
「ふむ……」
じろじろと青年を見つめている男はコートを身につけた初老の紳士だ。
「足を引きずっているが、怪我でもしたのか?」
六十代前後だろうか。
男がマリーに問いかけた。
その顔にミヒャエル・ヴィットマンは見覚えがあった。
「……――ベック上級大将閣下」
呆然と、ヴィットマンがそれだけ言った。
「転んでしまいました」
「ふむ……。しかし、ハインツも言っていたが、もう少し筋肉をつけなければな。そんなに”虚弱体質”だから、よく転ぶのだ」
「ごめんなさい」
ひょこりひょこりと足をひきずって歩く彼女は、さりげなく差し伸べられたベックの長い腕に捕まって、ヴィットマンに振り返った。
「ベックさんとご飯食べる予定だったから、またね。ミヒャエル」
少女は、ヴィットマンが蹴った石のことには触れなかった。
かばってくれたのだろうか?
そんなことを思い悩んでいると、柔らかなマリーの声が聞こえてくる。
肩の上でひらひらと手を振った彼女は、前陸軍参謀総長ルートヴィヒ・ベックの登場に固まってしまったヴィットマンは言葉をなくしたまま少女と元退役した将軍を見つめていた。
ベックさん――。
親しげに彼女は彼をそう呼んで、黒いベンツに乗り込んでいく。
「あのね、ベックさん。この間、ハルダー上級大将にやっとマンシュタイン元帥とお話をさせてもらえたの」
「聞いているとも」
彼女の口から出たのは錚々たる名前だ。
「マリー、余りその辺の若い男と馴れ馴れしく会話などするものじゃない」
ベックの小言に少女――マリーは「はーい」と言葉を返した。
「でもね、ベックさん。ミヒャエルはきっととても良い人よ」
わたしに悪いことなんてしないわ。
そんなふたりのやりとりを残して、黒いベンツはヴィットマンの目の前を重いエンジンの音を響かせて駆け抜けていった。