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そこに咲く花

「……――!」

 マリーは隣と、向かい側からふたりの若い科学者に見つめられるという奇妙な状況に、大きな瞳をさらに大きく見開いてから、長い睫毛をしばたたかせた。世界最高の頭脳の一端とも呼べるふたりを目の前にして、彼女は決して怖じ気づくようなこともない。

「ハイゼンベルク博士……、と、ランダウ博士?」

「この子がゾンマーフェルト博士の教え子だ」

 ぞんざいに説明されたレフ・ランダウはちらりとハイゼンベルクを見つめてから、再び少女に視線を戻した。

「”あの”高名なゾンマーフェルト博士の教え子というには、頭が足りなそうだが」

 ずけずけと遠慮もなく目の前の少女を評価したランダウは、少女の書いたノートをざっと開いてから一瞥する。

「今は博士も引退している。別に教壇に立って科学者を養成している訳じゃない。それにこの子は少なくともわたしよりはすごいんだぞ? なんといっても馬鹿そうに見えて、独英露仏と四カ国語に通じているんだ」

「別に言葉が堪能だからすごいという理屈にはなっていない、ハイゼンベルク博士」

 歯に衣を着せない物言いをするランダウは、やや年上のヴェルナー・ハイゼンベルクの、少女に対する褒め言葉を切って捨てた。

「言葉を話せて、言葉を書けても意味などない。そんなこと、過去に多くの神学者共が聖書を各国語に訳したようなものだ。内容をわかっている連中が何人いる? 歌をうたうだけならカナリアで充分だ」

 理詰めで言い捨てられたハイゼンベルクだが、それでもそんなことで今さら及び腰になるようなこともなかった。

 二十代の頃には、ボーアやパウリの中で科学者として鍛えられてきたのである。

 中でも議論魔とも言えるデンマークの理論物理学の怪物――ニールス・ボーアのことは印象が強い。

 その不屈の闘志で、ボーアはパウリと同じくオーストリア出身の物理学者、エルヴィン・シュレーディンガーとも矛先を交えた。さらに言えば、シュレーディンガーだけではない。ソルベー会議では、現代物理学の巨人とも呼ばれたアルベルト・アインシュタインとも激しい論争を繰り広げた。

 そして、そのやりとりをよく知るのもハイゼンベルクだった。

 当時はボーア派の人間として、朝から晩までアインシュタインを打ち負かすべく、パウリやボーアと議論を繰り広げたのである。

「そう一蹴してしまうのは、どうかと思うがね」

「言葉を教えて、ただ同じように繰り返すだけの存在など無益だと言っているのだ」

 ランダウはほかでもない。

 言いたいことを声高に発言したためにソ連当局に拘束されたのだ。ピョートル・カピッツァの助けがなければ、悪くすれば命を落としていたかも知れない。そんなことはわかっているが、だからどうだというのだ!

「主体性のなさそうな彼女がゾンマーフェルト教授の教えを受けるのは無益だと言いたいのか?」

 ハイゼンベルクの声音が険悪さを増した。

 もちろん、彼女をひいき目に見ているつもりでもないし、彼女の科学の素養のなさは十分に理解しているつもりだ。

 けれども、彼女は「まっすぐ」だ。

 誰よりもまっすぐにドイツの将来を夢見ている。

 そんな彼女の瞳に、ハイゼンベルクは現実に引き戻された。

 もはや、ドイツも。政権もなにもかもに嫌気が差して、彼の心は投錨された船のようにただただ夢へと続く大海原を閉ざされたも同然だった。

 国家の指導者たちは、国家安泰のためだとお為ごかしを唱えながら、結局なにも考えてはいないのである。

「ランダウ博士、もしかしたら無益だと思うものにも未知の可能性が存在しているかも知れないではないか。”君の側から観測できないもの”を、ゾンマーフェルト教授は”観測している”のかもしれない」

「……はっ」

 ハイゼンベルクの確信めいた言葉を、ランダウは鼻先で笑い飛ばした。

「この子のどこに、我々のような知性があるというのだ」

 言いながら長い指でランダウが少女を差すと、金髪の子供のほうはいつのまにやらテーブルに両手をついて顔を伏せるようにして寝息を立てていた。

「こんな緊張感もない文系のアホの子になにがわかるというのだ」

 ランダウが憮然として腕を組むと、少女の足元で礼儀正しく座っている赤毛のシェパードが両方の耳を立てて黒い瞳をキラキラと光をたたえてから、ワンと一声鳴いた。

 どこまでも緊張感がない。

「度胸は据わっていそうだが」

「それが彼女の才能だ。ランダウ博士」

 マリーは誰に対しても、遠慮することがない。

 眠ければ寝るし、腹が空けばそう訴える。感じたことを感じたままに、大人たちに伝えられる子供などそう何人も居はしない。

 年を重ねれば重ねるほど、人間というものは権力を恐れるようになるものなのだ。

「”この子は、誰も恐れない”」

「スターリンの子分共なら、容赦なく射殺するだろうな」

 容赦のないレフ・ランダウの言葉に、ハイゼンベルクも首をすくめた。

 おそらく、彼女もかつてのドイツでは「必要のない子供」に分類されていただろう子供だ。

 人の命には優劣がないと、人権活動家たちはもっともらしく唱えるが、現実問題として、そこに優劣は存在している。

 彼女のように病弱で、華奢な不健康な子供はドイツ社会では好まれないのだ。

 余りにも弱々しい「マリー」という存在は、そんなドイツ人たちに巣くう強さの影に存在する「弱さ」の中にするりと入り込んだのだ。

 その事実を、まだ、彼女に関わるほとんど全ての人間たちがわかっていなかった。

 無力で、儚い、風に煽られれば吹き飛んでしまうような、弱い小さな蝶のような存在だ。


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