道具のジレンマ
渇望する。
「女の子が羨ましい」
執務室でマリーに紅茶を振る舞いながら、アイヒマンはぽつりとつぶやいた。
アイヒマンの一部の資産はユダヤ人の資産家たちから賄賂として贈与されたものだ。もっとも、そんなユダヤ人の一部は容赦なく強制収容所へと送られた。
そう。
騙されるほうが悪いのだ。
信じるほうが浅はかなのだ。
「かわいい女の子ならなおさら、女の子というだけの理由で愛されるからな」
ぽつりぽつりと独白するように言葉を紡ぐアドルフ・アイヒマンにマリーはにこりと笑ってみせる。
「好きになってもらいたいなら、素直に好きになってほしいと言えばいいと思うの」
「君は簡単に言うが、わたしにはそんな簡単な話じゃない」
「そうなの?」
「そうなの」
問い返されてアイヒマンは応じながら憮然とした。
そもそもマリーは「好きになってもらいたいなら、そう言えばいい」などと言うが、マリーのような十代半ばの女の子が言うならばともかく、アイヒマンのような中年男が言ってもさっぱりありがたみはないし、全くかわいくない。
それはアイヒマンにも同感だ。
「わたしはわたしに優しくしてくれるアイヒマン中佐のこと大好きよ?」
「……――うむ」
マリーの言葉にアイヒマンはバウンドケーキをつまみながら視線を天井に向けたままで考え込んだ。
少女に「大好きだ」と言われても、どうにも今ひとつ素直に喜べない。
彼女に対して、大人の女性たちに対する時と同じように情欲に満ちた眼差しを向ければ、そんなアイヒマンの眼差しに気がついた「自称父親」とも呼べる高級指導者たちに文字通り「八つ裂き」にされるだろう。
それだけではなく、アイヒマンが彼女に対して情愛に満ちた目を向けるには、いささか年齢も離れすぎているし、仮に彼女を女性として好ましく思っていたとしても、傍目に見れば良い年齢の男が少女に異常な感情を抱いているようにしか見えないだろう。
世間体がなによりも大切なアイヒマンにとってそうした醜聞を向けられるのは我慢ならない。
今までつきあった女たちは、アイヒマンにとって権威を誇示するためのアクセサリーにすぎなかった。
だけれども、マリーをそんな自分の身勝手な思いで汚したくないと思った。
「アイヒマン中佐は、わたしのこと好き?」
好き?
それはどういう意味だろう。
数秒の逡巡の後にアイヒマンがかすかに苦笑した。
「もちろん」
けれども彼女に対して「好き」だとは言えなかった。
彼女を好きだと思ってしまったからこそ。
言葉にしてはならない気持ちだ。
「もちろんだとも、マリー」
――わたしは、必要とされたかった。
都合の良い道具としてではなく。
いや、都合の良い道具でも良かった。だけれども、それが満たされてしまうと、人というのはさらなる欲がわくもので。
都合の良い道具としてではなく、中卒のアイヒマンとして必要とされたくなってしまった。
「わたしは、君と午後の休憩を取るのが楽しみなんだ」
好きとは言わない。
それはきっと許されない。
アイヒマンの魂が、なにかに共鳴して警鐘を鳴らし続けていた。
アイヒマンは癒し系、異論は認める。