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距離感の話

 自分と彼女では年齢が離れすぎている。

 散々、女とは遊んできた身だったからこそ、そんなアドルフ・アイヒマンには迂闊に手を伸ばすことはためらわれた。


 決して彼女の後ろに控えている権力者達が恐いわけではない……!


 ――いや、正直なところを言えば恐いのだが。


 ヴァルター・シェレンベルクのように、スマートに自然に彼女に接すればいいだけのことなのだ。

 頭ではわかっていても、それがアイヒマンには難しい。


 今までは国家保安本部の親衛隊中佐というきらびやかな地位をちらつかせて寄ってきた女をくどいていたに過ぎないのだと、まざまざと感じさせられた。


 マリーは、男たちの権力や名誉などといったものに関心を示さない。

 親衛隊の権力をもってして、今まで思いのままにならない相手はいなかった。だから、そんな前例が通用しない相手にアイヒマンは困惑した。


 困惑させられた。


 大人の世界の政治闘争になど全く興味を示そうともしない彼女の心を惹きつけられるものは甘い菓子だけだ。

 けれども、そんなものが彼女に触れるだけの動機になるのかと言えば、決してそうではない。

 そんなものは動機にならない。


 だから、アドルフ・アイヒマンはどうすればいいのかわからずに途方に暮れた。


 素直に触れてみたいと言えば、彼女はいやな顔をしないかもしれない。

 嫌な顔をするかもしれない。


 では、嫌な顔をされたときはどうすればいいのだろう。


 今まで彼が接してきた女たちは、それはそれで割り切ったつきあいをしてきたつもりだったから、女たちに嫌な顔をされてもアイヒマンは傷つかなかった。しかし、仮にマリーに嫌な顔をされたときは、傷つかずにいられる自信がなかった。


「……どうしたんだ? マリー?」


 そんなことを悶々と考え込んで歩いていたアイヒマンの視界の端に、いつも通りバルコニーの日向におかれた椅子に腰を下ろして、自分の髪の先をつまんで悪戦苦闘している少女のしかめ面にいきついた。


「からまちゃってとれないの……」


 髪飾りの装飾部分に金色の細い髪がからみついてしまってにっちもさっちもいかなくなっていたらしいマリーは、弱り顔で溜め息をついた。


「……とってやろうか」

「本当!?」


 そっと少女の指から金髪の絡みついた髪飾りを取りあげて、内心でアイヒマンはドキリとする。


 マリーの瞳がひどく近くにあることに胸が高鳴った。


「随分と盛大に絡まったな」


 照れ隠しに呟いたマリーはアイヒマンの手に額を近づけてクスクスと笑っている。

 けれどもどこか真剣にアイヒマンの手元を見つめているその青い瞳。


 まるで、基礎教育時代の初恋でも思い出したような感覚にとらわれてアイヒマンは目を伏せた。


 彼女の瞳。

 彼女の唇と薄い胸。


 余り心臓によろしくない。


 彼女との距離感を測りかねて、アドルフ・アイヒマンは長く息を吐き出した。


 結局絡まってしまった髪はどうすることもできずに、少しばかり離れたところにある少女の体温と吐息の暖かさにぎょっとして身を引いた瞬間に、ぷちりと音を立てて抜けてしまった。


「あ、痛っ……!」


 悲鳴を上げたマリーに反射的に「すまん」と謝りながら、アイヒマンは手元に残った髪飾りをしげしげと眺めてから、困惑した様子で目尻を下げる。


「これだけ絡まるととれそうにないから、今度、わたしが新しいものを贈ってやろう」

「はい、ありがとうございます」


 マリーはいつもこうだ。

 

 誰に対しても。


 自分は彼女にとって、国家保安本部の官僚のひとりでしかないと言い聞かせながら、唐突に背後に小さな咳払いの音を聞いて背筋を正して振り返る。


 ヴェルナー・ベスト。

 マリーの首席補佐官を務める法学博士だ。


「中将閣下……」


 やましいことはなにもないのだから動揺する必要などないというのに、腰がひける。


「あ、ベスト博士」

 マリーが笑った。


「こんなところで茶飲み話かね? マリー?」


 ベストの見解が自分の評価に関わるのではないかと、身を竦ませたアイヒマンのほうは一瞥しただけで、ヴェルナー・ベストは右手で拳を作ると軽く彼女の頭頂部をぽかりと叩いただけだった。


「次は誰か重役でも巻き込めばいい。そうすれば言い訳探しも楽だからな」


 ベストが素っ気なく言うとマリーは椅子から立ち上がりながら差しだされた法学博士の腕に片手を搦めて花が咲くように満面の笑顔になった。

「シュトレッケンバッハ中将辺りが暇そうだ」


 誰にも顧みられない。

 誰も彼を振り返らない。


 国家保安本部の下っ端官僚のアイヒマンのことなど、ベストやシェレンベルクらからはどうでも良い程度の存在なのだろう。


 けれども、そんな権力を握る彼らに対して接するのと同じようにマリーだけはアイヒマンに屈託のない笑顔を見せた。


「アイヒマン中佐、またね」


 マリーが片手を振っている。

 そんな彼女に堅い表情で片手を振り返してから、我に返ったように表情を改めるとカッと踵を鋭く鳴らしてベストに敬礼した。


 彼女の髪に触れることは意外と簡単だった。


 柔らかく、暖かでどこか儚げで心臓がドギマギしたこと。


 とりあえず、彼女に贈る髪飾りをなにか見繕ってこよう。

 アイヒマンはそんなことを考えた。


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