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おとぎの国

「……誰からの手紙だね?」


 問いかけられて、正直、オーゲ・ニールスは飛び上がってびっくりした。


「と、父さんか……」


 まさに飛び上がるほどびっくりした。

 白い便箋を開いていた青年はそこに綴られている文字に釘付けになっていたから、父親が背後に近づいたことに気がつかなかったのだ。


 そう、内心では言い訳する。


 自分はデンマークのユダヤ人で、彼らは危険な存在だから心を開いてはならない。

 それが彼の内側で鳴り響く警鐘だ。


「……この間の、ドイツ人の女の子の」


 国家保安本部――。


 世界的にも高名な科学者でもあるボーアの知的な鋭利な瞳に不安げな光が揺れる。

「ドイツは、本当になにを考えているのだ」


 むっつりとタバコを口に運びながら呟いた父親に、青年は弱り切った様子でため息を吐き出す。


「父さん、これ、どう思う?」


 問いかけられてデンマークの理論物理学者――ニールス・ボーアは不機嫌な眼差しを手紙に向ける。

「……――どうとは?」


 どういうことだ。

 そう問い返したニールス・ボーアにオーゲ・ニールスが首をすくめる。


 手紙には、自分がオーゲ・ニールスに宛てる手紙には今後は検閲をされないといった趣旨の内容が書いてある。

 しかも届けるのは国家保安本部の正式なメッセンジャーだ。


「ゲシュタポの連中を信じろと言うのが無理な話だ」

「僕もそう思う」


 ナチはいつも約束を反故にしてばかりだった。

 いつでも彼らは嘘つきだ。


 だから信用してはならない。


「でも、もしも本当に彼女の手紙が検閲されないのなら、もしかしたらドイツの内情を読み取れるかもしれない」

「オーゲ、おまえは考えが浅いのだ」


 ひどく不愉快そうな眼差しをさまよわせてからそう呟いたニールス・ボーアは、フンと鼻から息を吐き出した。


 戦争がはじまる前までは良い時代だった。


 アインシュタインと論争を繰り広げたのも今では懐かしい過去になってしまった。

 もしかしたら、自分はドイツの人種政策によって命を落とすことになるのかも知れない。

「ドイツ人でも良い人たちはたくさんいた」


 溜め息を漏らす。

 彼や、多くの科学者たちがたたき上げたドイツの科学者たちもまた多い。


「全員がならず者ではないこともわかっている」

 けれども、彼らは屈してしまった。

 国家の巨大な権力に。


 友人だとすら思っていたのに……!


「どうせ、その手紙についても、わたしたちには拒否権はないのだ。ゲシュタポはどこにでもいて我々をいつでも監視しているだろうし、こちらの気持ちなど無視して手紙を寄越すだろう」


 だから。

 ニールス・ボーアはそこまで一息に言ってから言葉を続けた。


「だから、充分に気をつけるように。彼らは味方ではない。敵でもないかもしれんが、連中はドイツ人だ。我々、デンマーク人とは違う」


「わかったよ……」


 仏頂面の禿げ頭の老人と一緒に映っている少女の写真。

 ブドウを片手に、もう片手でブドウの粒を唇の中に押し込みながら、少女は老人に朗らかに笑っていた。


 もう一枚の写真は雪の中に、モデルのように白いマントと、白いロシアンハット。それに白いマフに手を差し込んだ少女が笑っている写真だった。


 先日、ボーア家を訪れた老人と一緒に撮影した写真だろう。

 家庭用のスナップ写真にしては写真の腕が違う。


 おそらくプロによるものだ。


 ――わたしの手紙はこれからは調べられないことになったから、また手紙を書くわね。


 いずれにしろ写真など送ってきた意図を測りかねた。

 理解しがたい。


「でも、かわいい写真だと思うけど」

「相手がかわいい女の子だからと情にほだされるなよ。連中は我々ユダヤ人の敵だ……」

「わかってるよ、父さん」


 まったく彼女はどこまで計算していて、どこまで計算していないのか。。若いオーゲ・ニールスには判断できなかった。

 彼女はいったいなにを考えてこんな写真を送ってきたのだろう。

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