マリーとチョコレートボンボン
ぼーっとでも音がしてきそうだ。
主に頭の上辺りから。
「……マリー?」
講義をしていた陸軍参謀総長、フランツ・ハルダーは老眼鏡の鼻当てを指先で押し上げながら少女の名前を呼んだ。
「あい……」
手の甲で目をこすっているマリーは舌足らずに聞こえそうなくぐもった声で返事をしてから何度も睫毛をしばたたかせる。
肩からずりおちた厚手のショールを右手で直してからマリーは開いた黒い手帳に転がる万年筆を持ち直した。
「眠いのかね?」
「大丈夫です、ハルダー上級大将……」
大丈夫と彼女は言うが全くもって「大丈夫」そうには見えない。
彼女の横で腕を組んだままうたた寝をする態勢になっているハインツ・グデーリアンは暢気にいびきをたてていた。
ソファの前に据えられた低いテーブルにはグデーリアンが持ち込んだ菓子と、ハルダーがマリーのために用意した紅茶が置いてあった。
知的活動には体力が必要だ。
それをハルダーもグデーリアンも知っていたし、なによりも彼女の体型がひどく不安を感じさせてそのために高カロリーのチョコレート菓子などを用意した次第だ。
粗野で子供っぽいところもあるグデーリアンは、まっすぐで荒んでいない彼女がひどく気に入ったらしい。
当初、マリーにはマラソンなどをさせたため、警戒されたものだが季節はすっかり冬へと入り、体力のない彼女にマラソンをさせるどころの季節ではなくなったため、おとなしくこうして隣でいびきをたてている。
あくびをかみ殺しながらハルダーに視線を向けた彼女は溜め息をついてから「なんの話しでしたっけ?」と眉をひそめた。
そんな彼女の反応に眉をひそめたくなるのはフランツ・ハルダーのほうで、彼女に長い一般常識的な講義を行っていたにもかかわらずほとんど聞いていなかったらしい。
ハルダーの勉強会に対して、親衛隊長官のヒムラーや、国家保安本部長官のカルテンブルンナーあたりは良い顔をしなかったが、これを国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクがなんとかおさめて国防軍首脳部によるマリーの教育が始まった。
「ただで彼女の教育をしてくれるわけですから、ありがたいと思えばよろしいのではありませんか?」
シェレンベルクはそう言った。
「どこまで聞いていたんだね?」
「えーっと、……偉い人と話すときはもっと言葉使いを気をつけなさいって言ったところまでは覚えてるんですけど」
もごもごと呟く彼女にハルダーはやれやれと肩を落とした。
もっともマリーにしたところでプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセでの勤務を終えてからハルダーの執務室へと遊びに来ているわけだから、それなりに疲れていてもおかしくはない。
「……グデーリアン大将の持ってきてくれたチョコレートおいしいわ」
にっこりと笑いながらトンチンカンな言葉を語る彼女に、ハルダーは胸元に老眼鏡を戻すとデスクから立ち上がった。
「どれ……」
グデーリアンとマリーの前に置かれたチョコレート菓子に手を伸ばして口に放り込む。
そうしてから黙り込んだ。
「ハインツ、寝こけている場合じゃないぞ」
思わずフランツ・ハルダーは戦友の爪先を蹴り飛ばした。
なんだこれはと問い詰めるハルダーに、「せっかちハインツ」は大きく伸びをしながら参謀総長を見上げる。
「これは酒が入っているじゃないか」
どうりでマリーが眠たそうにしているはずだ。
加えて、少女の頬がほんのりと赤く染まっている。
「少しくらい問題なかろう、ハルダー上級大将」
「子供にこんなものを食わせるな」
大人たちのやりとりを耳にしながら、マリーは自分が相手にされていないらしいということを感じ取ってふらふらと頭を振ってソファに深く寄りかかった。
すーと寝息をたてて眠り込んでしまったマリーの華奢な体が隣に腰を下ろしているグデーリアンに寄りかかった。
「少しくらいいいだろう、子供には睡眠が必要だ。だいたい、ハルダー上級大将は彼女が疲れていることをわかっていない」
マリーは国家保安本部の一員だ。
常に激務に晒される彼女を気遣うハインツ・グデーリアンにハルダーはむっつりと唇をへの字に曲げた。
「親衛隊員が参謀本部で居眠りとは良いご身分だ」
「まぁまぁ」
ハルダーの愚痴にグデーリアンが苦笑しながら少女の体を自分の膝の上に横倒しにするのだった……。