マリーとオーレンドルフ
クリスマスも意識するようになった頃、オーレンドルフがラタン細工のバスケットを持ってプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに出勤してきた。
特に面白そうなわけでもなければ、いつものオーレンドルフの仏頂面だ。
「マリー、妻から君にこれを持って行ったらいいんじゃないかと言われてね」
妻から、という部分を強調して表情をかけらも変えずに、経済学の教授は少女の鼻先にバスケットを突きだした。
「なんですか?」
ぽかんとして口を開いたマリーはバスケットの中にかけられたナプキンを指先でめくってから大きな青い眼をさらに大きく見開いてから両手を上げて喜んだ。
「シュトレンだわ!」
果物がたくさん入ったシュトレンにオーレンドルフに抱きつく勢いで喜ぶ彼女に、若い国内諜報局長は今さらの様に辺りを見回してから「内緒だぞ」と言った。
一応、ナチス親衛隊という組織は宗教的行事には関わらないということになっている。
そのため、オーレンドルフに限ったことではないが、もちろんキリスト教からも脱退しているのだ。それにしては、宗教的な怪しげな儀式に熱心なヒムラーだから、なんとも言っていることとやっていることがちぐはぐだと言ってもいいだろう。
「はい」
オーレンドルフに神妙な顔をして頷いたマリーはそうしてから、ほんの数秒考え込んでから彼に向かって内緒話でもするように背伸びをした。
「オーレンドルフ局長、後でお茶しに局長のところにいってもいいですか?」
「かまわんが……」
そう呟いて、顎を手のひらで撫でてから考える。
「わたしのところに来てもなにもないぞ」
それに、とオットー・オーレンドルフは少女にほほえみかけた。
「それに、君はもっと自分の時間を大事にするべきだ。君のところに遊びにきたい連中は山ほどいる。誰とは言わんが」
目を細めてくつくつと喉を鳴らした彼は、アイヒマンとマイジンガーの仏頂面を思い出してから鋭く踵を返すとひらりと片手を肩の上で振って見せた。
マリーに背中を向けて歩きながら、オーレンドルフは思う。
不思議なものだ……――。
ほんの半年ほど前まで、オーレンドルフは安らいだ笑顔など浮かべることができずにいた。数万人に及ぶ人間を殺戮したことに対する罪の意識が彼の心を硬直させていた。
誰に言われなくても、自分がなにをしたのかはわかっていた。
そしてその罪の意識に苛まれて、笑顔をうかべることなどできなくなってしまっていたことを。
「……オーレンドルフ局長!」
マリーの声が背後から聞こえた。
わざとらしく無視をして、彼は唇の端でほほえんだ。
そのときだ。
背中に重い衝撃を感じてそのままオーレンドルフは勢いよく床につんのめった。
マリーが背後から突進する勢いで抱きついてきたのだ。
かろうじて体をひねり、少女の細い体を片手で抱きかかえるようにした彼はしたたかに背中を床に打ち付ける羽目になった。
後頭部を打たなかったことは幸いした。
「何事だ……」
衝撃に噎せたオーレンドルフに受け止められてマリーは、青年の首に腕を回す。
「お菓子、大好き!」
ありがとうございます。
そう耳元に囁かれて、オーレンドルフは咳き込みながらマリーの金色の頭を軽く撫でた。
そんな彼の目に、大きめの包みを抱えたアイヒマンの姿が見えて、オーレンドルフは眉をひそめるが、時はすでに遅い。背中からマリーに突撃されたオーレンドルフのひどい恰好にアイヒマンがそれなりに端正な顔を緩めて声を上げて笑い出す。
ジングルベル、とはいかないが、控えめなクリスマスがプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセにも訪れようとしていた……。