マリーの心はいつも寂しい
ベック家のバルコニー。
雪の降り積もる穏やかな昼時に、バイオリンの音色が心地よく響く。
揺り椅子に腰掛けて老眼鏡をかけたルートヴィヒ・ベックはちらりと本から視線を上げて、目の前に立ってバイオリンを鳴らす少女を見やった。
彼女の持っているバイオリンは、初夏にエルンスト・カルテンブルンナーからウィーンで購入して送ったものらしい。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い――。
それほど大人げないつもりはないので、別段彼女の持っているバイオリンに目くじらを立てることもない。
初めて彼女のバイオリンの演奏を聴いたがなかなか見事なものだ、と思った。
ヨーロッパ大陸の知識人にとって、知性と同じように強く求められるのは芸術性だ。
多くの知識人たちは、やはりその知識の蓄積と同じように芸術の才能を求められて然るべきだ。
「どこで習ったのだね?」
ごくまっとうなベックの問いかけに、マリーは静かに口元で笑っただけだった。
「どこか、室内楽をやっている連中を紹介しようか?」
彼女の腕前なら、趣味で室内楽を楽しんでいるインテリたちは喜んでバイオリンの席を彼女に提供するだろう。
「しかし、本当に専門的に習ったとしか思えんな」
膝の上に本を伏せると、目を閉じて彼女のバイオリンの音色に耳を傾ける。
無粋なベックにすらそう思わせるほど、彼女のバイオリンは見事だった。
ややしてから演奏の手を止めたマリーはベックがうつらうつらと船を漕いでいるのを見下ろしてからそっと足音も立てずに、ベンチに腰を下ろす。
穏やかな日差しの下でマリーはじっと雪景色を見渡して小首を傾げた。
マリーはバイオリンを習ったことなどない。
強いて言うなら体が覚えていると言ったほうが正しいのかも知れない。それに、誰かに聞いてもらいたくてマリーがバイオリンを演奏していたわけでもない。
バイオリンは、彼女の心のさざ波を沈めてくれた。
昔も、今も変わることはなく。
もちろん体が覚えているからと言ったところで、手が簡単に動くようになるわけでもない。
手首が自在に動くようになるだけでも半年ほどかかってしまった。
それからめきめきと上達して今に至る。
「”彼”は、ドイツをとても憎んでいて、そして愛していた……」
祖国を、愛してやまなかった。
帰るべき理由。
還るべき理由。
「”わたし”は、ここにいたかった」
バルコニーに両肘をついて暖かな日差しの下で瞼を閉じた彼女は、そのままの格好でうたた寝の淵へと誘い込まれていくようだ。
「また肺炎をぶり返して病院送りにされるぞ」
マリー……――。
そう言われて少女は抱き寄せられた腕の暖かさに顔をすり寄せた。
「……ここにいていい?」
夢見心地で問いかけると、老人の声がかすかに笑った。
「風邪を悪くしなければ、いくらでも」
「ここ」にいていい。
「……――”ここ”にいたい」
魂が慟哭する。
ドイツに生きていたい、と。
彼女――彼の心の最奥に息づくものは、ありとあらゆる感情を飲み込んだ複雑すぎる愛国心だ。
全てを憎み、全てを愛した。
ドイツという存在そのものを。
憎みすぎた。
「”ここ”にいて……」
そう誰に告げるでもなく独白して、マリーは自分を抱き上げる男に縋り付いた。