最終話 お帰りなさい、理緒さん
時刻は午後の九時。
宴会もお開きになり、僕は一足先に部屋を出ていた。
みんなはまだ部屋の中。
言うまでもなく、宴会の片づけだ。
もちろん僕も手伝うと申し出たのだけど、力也を始めとした面々から先に戻って休むよう言われてしまったのだ。
「そんなに、具合が悪そうに見えるのかな……」
そりゃ、よくないのは認めるけどさ。
それでも、すぐに自室に戻る気にはなれなくて、四方を廊下に囲まれた中庭に出ることにした。そこで少しのんびりしよう、と。
幸い、廊下の端にサンダルが一組だけあったから、それをつっかけて。
もう季節は春だけれど、吹きつける夜の風はまだ少し肌寒い。
それに、ちょっとだけ身体を竦ませてしまった。
はあー、と手に息を吐きつける。そこまで手が冷えていたわけではないけれど、なんとなく。
息も、白くはならなかった。その事実に『もう、春なんだよな』と、思うでもなく再認識する。
「――理緒さん」
背後から声をかけられたのは、そんなときだった。
振り向いて、声の主を確認する。それが誰なのかなんて、もちろんわかってはいたのだけれど。
「梢ちゃん、もう片づけは終わったの?」
「はい」と首を縦に振る、あすかよりも少しだけ背の高い少女。
どういう成り行きでか、この片山荘の大家となっていた僕の『はとこ』、天野梢。
クリーム色のセーターと、青いロングスカートという落ちついた服装をした彼女は、どこからともなくサンダルを取りだして、木張りの廊下から下りてきた。
「もう、具合のほうはよろしいんですか?」
「うん。……というか、別に体調が悪くなっていたわけじゃないんだ。ひと段落して、ちょっと疲れが出ただけだから」
「そうですか。なら、よかったです」
心の底から安堵したように呟いて、梢ちゃんは笑顔を向けてくる。
彼女は僕より二つ下の十五歳。昼にあすかもそれらしきことを言っていたっけ。
でも、目の前の少女が身にまとう雰囲気や丁寧な口調は、彼女をもっと年上の人間のように感じさせた。
やっぱり、大家なんてやっていると、歳相応ではいられないのだろうか。
「あの、理緒さん。遅くなってしまいましたが、その……、改めまして、お久しぶりです」
すっ、と梢ちゃんが腰を折る。わずかに揺れるのは、地味に切り揃えられたおかっぱの髪。
それを見て、僕も慌てて頭を下げた。
「こっちこそ。……えっと、元気だった?」
「はい、おかげさまで。大家としても、黒江さんやフィアリスさんの助けもあって、なんとかやっていけてます」
「そっか、それはよかった」
それは、とても当たり障りのない会話。
だって、僕の中にある『幼い頃に彼女と過ごした』という記憶は、とてもあやふやなもので。
僕ですらそうなのだから、年下である梢ちゃんは、もっと曖昧な記憶しか持っていないはずで。
である以上、こんな会話になってしまうのは仕方のないことで……。
『――起こったことよ セピアにかすめ』
それでも、そんな昔の記憶を――『在りし日の思い出』を、少しでも頭の中に蘇らせたいと。
そう、僕は望んだから。
だから、僕は……。
『――心の傷あと もう増えることのないように』
……僕は。
思うままに。
願うままに。
言葉を、紡いだ。
「僕たちがこうやって会うの、すごく久しぶりだよね。何年ぶりに、なるんだっけ?」
それに梢ちゃんが、ほんの少しだけ寂しそうな表情になったことに、気づけないまま。
「ちょうど十年ぶり、ですよ。わたしたちが最後に会って遊んだのは、理緒さんが七歳で、わたしが五歳のときですから」
「そっか。もう、そんなに経つんだ。どおりで見違えるわけだ」
「見違える……?」
「うん、見違えるくらい大きく……ううん、可愛くなった」
といっても、昔の彼女の姿なんて、うすぼんやりとしか憶えていないわけだけれど。
「か、可愛くっ……!? そ、それを言うならっ……」
顔を真っ赤にした梢ちゃんは、わたわたと手を振りながら、
「理緒さん、だって……格好よく、なりました……」
その言葉に、一瞬だけ目を丸くしてしまった。
けれど、すぐにお世辞の類だと理解する。
「ありがとう。お世辞でも嬉しいよ」
「お世辞だなんて……。でも、そう思われても仕方ないですよね。わたし、子供の頃のこと、ほとんど憶えていないですから……」
眉尻を下げる少女に、僕は苦笑を向ける。
「それこそ、仕方ないことだよ。当時の梢ちゃんは、まだ五歳だったんだから。……それに正直なところ、僕だってあの頃のことはよく憶えてないからね。お互いさま、だよ」
「そう、ですね……」
梢ちゃんの口許に浮かぶ、わずかな微笑。
それは、少しの歪みもない美しい微笑みだったのだけれど。
なぜだろう、それを見て『彼』の浮かべていた微笑を思いだしてしまった。
先ほどまで話をしていた『彼』――黒江さんが浮かべていた、柔らかな微笑を。
◆ ◆ ◆
宴会の席で。
僕の隣に腰を下ろす、二十代後半のスーツ姿の男性。
「黒江さん、でしたっけ……?」
なぜか肌が粟立つのを感じながら、口から言葉を紡ぎだす。
彼はずっと欲しかった玩具を見つけた子供のように微笑んで、
「ああ、黒江栄太。歳は二十七で、ここに住んでいる者の中では最古参だ。部屋は三号室になる」
「そうですか……」
微笑む彼に、少し掠れた声でそれだけを返す僕。
別に威圧されてるわけじゃない。それはわかっているのに、なぜか身体は萎縮していた。
彼の口許に浮かんでいるのは、柔らかな微笑。
黒江さんは背が高い。それは座っていてもわかるほどなのだけれど、別に力也ほどではないのだから、怖がる理由にはならないはずだ。
というか、彼は体格こそいいものの、身体の線自体は細い。子供であってもこの青年に怯えるなんてことはないはず。
ないはず、なのに……。
「あ、あの……」
「ん? ああ、すまない。少し、懐かしさに浸ってしまっていた」
口の端を苦笑の形に歪める、黒髪の青年。
「懐かしさ、ですか?」
「ああ。言っただろう? 最古参だ、と。天野大善――先々代の大家であるきみの祖父とも面識はあるし、小さい頃のきみとだって会ったことはある。憶えていないかい?」
その言葉に、少しだけ申し訳なく感じて頭を下げる。
「すみません。昔、ここによく遊びに来ていたことは憶えているんですが、その頃のこと自体は、どうにもあやふやで……」
「ふむ、そうか」
なにごとか思案するように、黒江さんは指先であごをつまんだ。
それから少し間が空いてから、再度彼の口許に浮かぶ、微笑。
それは、とてもとても愉快そうな微笑みで……。
「まあ、無理のないことではあるな。あの頃のきみは、まだ年端もいかない子供だったから」
それだけなら、なんの変哲もない言葉だった。
けれど、そのあとに続くのは……。
「自己満足のためだけに行った『あの行為』を、きみが思いだせないのも仕方はない。――術者が『彼女』なのだから、なおさらね」
「――えっ……?」
フラッシュバックするのは、あの光景。
木張りの廊下に立つ、二つの人影。
『――起こったことよ セピアにかすめ』
ひとりは、綺麗な金色の髪をポニーテールにした、十代後半の少女。
もうひとりは、黒いスーツを身にまとった、二十代後半の男性。
二人はなにかを言い争っていて……いや、違う。なにごとかを責めたてる少女を、青年がのらりくらりとやり過ごしている。
なぜだろう、それを見て僕は、少女には女神の、青年には死神のイメージを重ねてしまった。
『――心の傷あと もう増えることのないように』
どちらも神であることには変わりない。
けれど、その在り方はまったく違う。
そんな二人は――
「――くん? どうしたんだい? 理緒くん」
「……っ!?」
気づけば、うつむいて自分の思考に没頭してしまっていたらしい。
いや、あれは本当に『自分の思考』だったのだろうか……?
目線を上げると、微笑を浮かべたままの黒江さんと目が合った。
恐怖、とまではいかない。けれど僕は、その微笑みに――彼に、苦手意識を持ってしまっている。
「ともあれ、憶えていないのなら『久しぶり』ではないな。初めまして、だ。これからよろしく、理緒くん」
「あ、はい……。よろしく、お願いします……」
お互いに右手を差しだし、軽く握手。
それは、なんだか『敵意や害意がないことの証明』のように思えた。……なんで、そう感じたのかはわからないけれど。
彼は子供の頃の僕を知っているという。
それなら、ここで暮らすそのうちに、彼と過ごした過去を知るときもくるのだろうか?
嫌な予感しかしないけれど、あやふやなままの過去を知らされるときがくるのだろうか?
彼の、いまは微笑しか浮かんでいない、その口から。
やがて手を離し、彼は立ちあがった。
そして僕を見下ろしながら、呟くように口にする。
「なに、それはいま考えることではないさ。なぜなら……」
それは、まるで。
僕の心を読んだかのような……。
「なぜなら、それはここでは語られる必要のない、まったく別の物語なのだからね。――登場人物が、同じであっても」
「別の、物語……」
そうして彼は、酌をしろと呼びかけてきたフィアリスに苦笑を向け、僕の傍を離れていったのだった。
◆ ◆ ◆
「――さん? あの、理緒さん?」
少女の声を耳にして、意識が現在に戻ってくる。
わずかに感じる、既視感。
ほんの少し前に、似たような光景があった……ような。
知らずうつむいていた顔を上げ、目の前の少女に視線を向ける。
そこにあったのは、ただただ僕を心配する表情だった。
「あの、まだ気分が優れないのでは? 顔色が……」
どうやら顔色が悪くなっていたらしい。なんてことはない、宴会をした部屋を出たときと、状態はまったく同じだ。
だから、なんてことないという表情を浮かべて首を横に振る。事実、どうもなってはいないのだから。
「大丈夫。さっきも言ったでしょ。疲れが出てるだけだよ。ちょっと休めばよくなるって」
顔色の悪さは、精神的な理由によるものだ。
だから、問題なんてなにもない。
でも、なんなんだよ。『別の物語』って。
僕の人生に、別も、別じゃないも、あるわけが……。
……いや、あるのか。
『未来の僕』が紡いでいく物語が。
『現在の僕』には介入できない物語が。
……なるほど。確かにそれは、いま考えるべきことじゃない。
まだ起こってもいない事件は、どうやったって解決には導けないのだから。
そう、ケンカしていない二人の人間を、仲直りさせることなんて誰にもできないのと同じで。
黙り込んでしまった僕を見て、なにを思ったのだろうか。
不安の色を瞳に浮かべて、梢ちゃんが口を開いた。
「あの、じゃあ今日はもう、お休みになったほうが……」
「あ、うん。そうだね。そうするよ。みんなは、もう?」
「はい。お風呂に行ったか、自室に戻ってるかしているかと」
「お風呂?」
「もしかして、場所がわかりませんか? 玄関口のすぐ近くにあるんですけど……」
「いや、そうじゃなくて。なんか色々あって、お風呂入るの失念してたなって。ありがとう、思いださせてくれて」
じゃあ部屋に一度戻ってタオルを取ってこないとな、と梢ちゃんに背を向ける。
そこに、かけられる声があった。
「あ、そうだ。わたしのほうも失念していました。あの、理緒さん」
肩越しに振り返ると、そこにあったのは彼女の微笑み。
いや、満面の笑顔といったほうが正しいだろうか。
それに、僕は思わず見とれてしまった。
人って、こんなに綺麗に笑うことができるものなんだ、と。
「すっかり、言うのが遅くなってしまいましたけど……」
その笑顔のままで、少女は言葉を紡ぐ。
柔らかく、夜の空気を震わせながら。
「――お帰りなさい、理緒さん。また、よろしくお願いします」
その言葉は、僕の胸の奥深くに染み込んでいく。
それを強く、強くかみしめて――。
「うん、こちらこそよろしく。梢ちゃん」
ああ、僕はこれからここで暮らしていくんだ、と。
ようやく、そう実感できた。
過去のことなんて、なにひとつ思いだせないままだけど。
そんな僕に、きみは笑顔を向けてくれたから。
この短い間だけで、幾度となく向けてくれたから。
僕はここにいていいんだって、そう、心から思えたから。
だから――。
――ただいま、梢ちゃん。
声に出さずに呟いて夜空を見上げれば、そこには流れる星がひとつ。
そして、他にも星が七つ、こちらは流れることなく輝いていた――。
Fin...?
とりあえず、これにて閉幕です。
最終話はちゃんとメインヒロインである梢のターンとなりました。
まあ、それと同時に、片山荘に住む人間の中で、唯一、理緒に害意とでも呼べそうなものを持っている黒江のターンでもありましたが(笑)。
ここから先の物語は、『在りし日の思い出』本編で。
大丈夫、連載は明日からスタートの予定ですので。
いままでよりもちょっとだけシリアスに、そしてラブも香るコメディになっていきます。
どうぞ、ここから先もおつきあいくださいませ。
それでは、『在りし日の思い出』本編でお会いできることを祈りつつ。