第一話 あたしが暴力を振るうような人間に見えるか?
そのアパートの前に立って、僕は短い髪を撫でつけるようにして整えた。
それから灰色のパーカーの裾を少し直し、深呼吸をひとつ。
「――よし」
小さく呟いて、扉に手をかける僕。
ガラガラと音を立てながら、その扉は横に開いていく。
足を上げ、玄関口に一歩踏み込んで――
「こら待てえぇぇぇぇぇぇっ!!」
その怒声に、ビクッと身体が竦んだ。
声の主は、おそらく女性だろう。
いや、声質からわかる限りでは、少女といったほうがいいかもしれない。
続いて耳に飛び込んできたのは、木張りの廊下をバタバタと走ってくる足音ふたつ。
見れば、短い黒髪の大男と、栗色の髪をポニーテールにした少女が奥のほうからやってくる。
「返せっ! あたしのポテチっ!!」
少女は大声でわめきながら走りつつ、大男にげしげしと蹴りをいれていた。
大男のほうは、それに反撃することはせずに「痛てっ! 痛ててっ!」と逃げ回るのみ。
……な、なんなんだろう、この光景は。
しばし呆然としたあと、僕は一度玄関口から外に出て、表札を確かめた。
表札に書かれている名前は『片山荘』。
うん、間違いなくそう書かれている。
どうやら、入る建物を間違えたというわけではないようだ。
ということは、あの二人はこのアパートの住人ということになる。
今日から僕が住むことになる、このアパートの。
……なぜだろう、軽い頭痛を覚えてしまった。
それでも左手で頭を押さえながら、僕はアパートの中に戻る。
再び足を踏み入れた玄関口で僕が見たのは、土下座にも近い姿勢で床に座っている大男と、腰に手を当てて憤然と彼を見下ろしている少女の姿だった。
と、大男が片手を前に突きだして、少女を制止しようと試みる。
「待て、あすか! お前の菓子はまだこの世から消えちゃあいない!」
「じゃあ、どこにあるっていうんだ!」
キーンと耳の奥が鳴るくらいの大声で問い詰める、あすかという名前らしい少女。
それに大男は少し言いづらそうな表情になって、
「……オレの、腹の中?」
「だったら、いますぐ出せっ!」
「だから待て! 蹴るなっ! いいか、あすか? 仮にオレが胃袋から菓子を出せる特異体質の持ち主だったとして、だ。オレが口から出した菓子をお前は食うのか? 食えるのか?」
「……っ!」
顔を引きつらせて、少女が一歩退いた。
けれど、それも一瞬。
「なら弁償しろ! いますぐ同じの買ってこい! バカっ!」
「え~……、今月ピンチなんだよ~。だから菓子はお前からもらったってのに……」
「あたしにあげた覚えはない! 炊事場に置いておいたのを、お前が勝手に食べただけだろ!」
「炊事場に置いてあるものは、片山荘に住むみんなのものだろうがよ!」
「んなわけあるかあぁぁぁっ!!」
いままでに聞いた中でも一番の大声に、僕、耳キーン。
それはそれとして、少女は少し疲れたのか、肩で息をし始めた。……まあ、大男との比較ではなく、実際に小柄な少女だから無理もない。
一時的にではあれ、彼女の糾弾がやんだのを好機ととったのか、それとも単に天然なだけなのか、大男が立ち上がって、こちらに視線を向けてきた。
「あれ? 誰だ? てめえは」
「えぅっ……?」
いきなり『てめえ』と呼ばれて、思わず足が竦んでしまう僕。
だって、相手はすごくケンカに強そうな巨漢だ。年齢だって、十七である僕よりも五歳くらいは上だろう。
そんな人に、若干とはいえ凄むような態度をとられたら……。
まったく言葉を紡ぎだせない僕の代わりに口を開いたのは、予想よりも早く回復したポニーテールの少女だった。
「あっ! あれじゃないか!? うん、あれだ! そう、間違いなく、あれ!」
それに脱力したように大男がこぼす。
「『あれ』じゃわかんねえよ……」
「うっさい! あたしだって喉元まで出かかってる状態で気持ち悪いんじゃ! ええと、ほら……あれ。朝に梢が言っていた、あれ」
「梢が? ……ああ、新入居者がどうこうって話か?」
「それだ! 新にゅうにょしゃ!」
「噛んでますぜ~? あすかっち~」
「うっさいわ!」
そんな漫才めいたやりとりをしてから、大男は改めて僕のほうを向いた。今度は、ニカッという人好きのする笑みを浮かべて。
「なんだよ! それならそうって初めっから言えよな~! 不審者かなにかかと思っちまったじゃねえか!」
そんなのだと思われたんだ、僕。
これでも『善良そうな人』ってよく言われるんだけどな……って、痛い! そんなに背中をバンバン叩かないで! 本当に痛いから!!
「え、ええと……。二人は、梢ちゃんから僕のこと聞かされてるの?」
ここに来て初めて口を開く僕。
ちなみに梢ちゃんというのは、僕の『はとこ』であり、幼い頃の知り合いであり、ここの大家でもある女の子のことだ。
「おうよ! 朝、一緒にメシ食ったときに教えてもらった!」
「お前はあたしたちが一緒に食べてるところに、たかりに来ただけだろ!」
「いや~、なんせ今月ピンチだからよ~……」
「……忘れてた! ポテチ弁償しろ! 買ってこい!」
「しまったあぁぁぁぁっ!! なんで思いださせるようなこと言っちまったんだオレぇぇぇぇぇっ!!」
大男は盛大に頭を抱えて、木張りの床にうずくまった。
なんだろう、妙に哀愁を感じさせる姿だ……。
しかし、あすかという少女は微塵もそんなもの感じないらしく、大男の背中をげしげしと蹴りだした。
「ちょっ! きみ、それは可哀想だよ!」
「どこがだっ! あたしはポテチ食べられたんだぞっ! 朝も梢との朝食タイムを邪魔されたしっ!」
「それは、確かにこっちの人が悪いのかもしれないけど、でも暴力はいけないって!」
なんとかやめさせようと、けれど初対面の女の子に触れることなんて僕にはできなくて、声だけでやめるよう呼びかける。
それが功をそうしたのか、
「……まったく。次の次はないからな」
捨てゼリフのように呟き、あすかは腰に手を当てて大きく嘆息した。
というか、『次の次』って。『次』はあるんだ……。
「ありがとよ。愛してるぜ、あすか」
「やめろ、気色悪いっ!」
またしても足蹴にされる大男。ああ、余計なことを言うから……。
「それはそれとして、だ。てめえ、立川理緒って名前で合ってるか?」
なにごともなかったかのように立ちあがり、平然と尋ねてくる大男。
でも、まだ『てめえ』って呼ばれてる……。
訂正をお願いしようかな。あすかに対する態度を見ていると、強気にいっても大丈夫な感じはするし。
ああ、でもそれは『あすかだから』とか『女の子だから』とか、そういう理由なのかも……。
「お~い、人の質問には答えようぜ、理緒っちよ~。つか、スルーってのは堪えるんだよ、オレみたいな人間にはよ~……」
気づけば、少し不満げな表情で大男が僕の顔を覗き込んできていた。
それに慌てて返す僕。
「ははは、はいっ! 僕は立川理緒です! 間違いないですっ!」
「……おい、あすか。ちょっと引っ込んでろ。お前のせいで新入りが怯えてる」
「いや、怯えさせてるのはお前のほうじゃないのか?」
あすかの至極まっとうな突っ込み。
そのとおりです。僕はこの巨漢に怯えてるんです。
「いやいや、どう考えてもあすかに怯えてるだろ。お前、理緒の前で何回オレを蹴ったと思ってる? あれを自分にもされたらって考えたら、普通はビビるって」
「いやいやいや、大事なのは見た目だろう。あたしが暴力を振るうような人間に見えるか?」
「いやいやいやいや、現実に振るってただろうがよ、お前」
「いやいやいやいやいや、こんな可憐な美少女が人を蹴るなんて、普通は想像できない。あくまでも見た目から受ける印象の話をしてるんだ、あたしは」
「まあ、確かに外見ではオレが不利だけどよ。でも実際にオレが蹴られてるのを目の当たりにしてるんだぜ? こいつは」
頬をぽりぽりと掻きながら、僕を目で指す大男。
それにあすかは気まずそうな表情を浮かべて、
「さすがのあたしも、それを言われると辛いな……。わかった。あたしは自分の部屋に戻っていてやろう」
……え? ちょっ……!?
「おう、そうしててくれると助かる。……悪りぃな、あとで埋め合わせはするからよ」
「埋め合わせする気があるならポテチ買ってこい」
「それは勘弁してくだせえ、あすかさまあぁぁぁぁぁっ!」
「……まあ、ポテチは済んだことだから、もういい。じゃあ、またあとで」
少し素っ気なく口にして、あすかは僕たちに背を向ける。向けてしまう。
だから僕は、
「ちょ、ちょっと待ってえぇぇぇぇぇっ!!」
ついつい、らしくもなく大声を出して、彼女を引き止めてしまうのだった。
ハイテンション・コメディー第一話、いかがでしたでしょうか?
楽しんでいただけたのなら、とても嬉しく思います。
最近、暴力系ヒロインが苦手という人が多いと聞くので、主人公である理緒には暴力を振るわないようになっているのですが、そもそも誰に対してであれ暴力を振るうヒロインがダメなんだ、という声もあるんですよね(苦笑)。
大男の名前はまだ明らかになっていませんが、それは次の話で判明するかと。
今日、明日、明後日と連続で投稿していく予定でいますので、登場人物の頭の弱さやテンションの高さに呆れずについてきていただければありがたいです。