9、リーズ村(9)
不穏の風は前触れもなくやってきた。
その日、シュリィは村の入り口を少し抜けた所にある草原で花を摘んでいた。
リーズ村から見える距離にあるその草原にはたくさんの花が咲く。
盛りには一斉に綻んで、無造作に一面多種多様な色が散る様は、普段の微笑ましさを飛び越えていっそ壮観ともいえる。それほどに咲き乱れる。
その盛りも数か月前に過ぎた今、シュリィがひとりでここを訪れたのはもちろんただ普通の女の子のように小花で首飾りや髪飾りを作って遊ぶためではない。
それはそれで童心に返って面白いのだが、それは村の子供たちと遊ぶ時だけで十分だ。
では彼女は何をしに来たのか。
他でもない、草花を摘みに来たのだ。
というのも、ここの野原に咲く植物のなかには調合すれば薬になるものがある、とムク爺に教えてもらったからだった。
やはりというか、なんというか。
こちらの世界は日本に比べて医学分野が発展していない。
魔導があるだけに治癒魔法に頼りすぎるのか、医学に詳しいわけでもないシュリィの目からでも技術的な面ではかなり見劣りする。
風邪を拗らせれば風邪薬。
流行感染症には予防注射。
どこかひどく痛めたら病院。
疲労が濃ければ栄養ドリンク。
肌荒れが気になれば美容サプリメント。
諸々の生活を送っていたシュリィにしてみれば、これはひどく心許ない。
せめて薬草だけでもある程度は知識を身に着けよう、という腹積もりだ。
シュリィは背の高い草に埋もれるようにせっせと草の選別を続けた。
馬の闊歩する音が聞こえたのはそれからしばらく経った頃だった。
リーズは辺境の村。
必要最低限しかいない馬は大抵いつも出払っていたし、帰りはいつも日暮れと遅い。
村人以外が村を訪れることもめったにない。
来ても何もないのだから仕方がない。
まだ日の高い昼時に、馬の駆ける音がこちらへ近づいてくるのはほんとうに珍しいことだった。
自然とシュリィの体は硬くなった。
嫌な予感がする。
音のする方へ顔を向ければ、案の定、見たことのない人間が三人、馬に乗ってこちらへ向かっている。
急くように駆けていた馬は、村の近くになると徐々にスピードを緩めていく。
このままでは、シュリィの前を通るころには馬は走るのをやめて歩くだろう。
厄介ごとに率先して関わる趣味はない。
(・・・このままやり過ごそう)
地面にしゃがみこんでいるシュリィはうまくいけば所々背の高い雑草の力もあいまって、あちらからは注意しなければ見えないだろう。
なにせこちらは3才児なのだ。
小ささには自信も定評もある。
いよいよ人影が近くになって、シュリィはきゅっと息を潜めた。
馬上の人たちは、村では見たことのない出で立ちだった。
鎧というのだろうか。
シュリィが地球での僅かな知識で知っているものよりも軽装で簡素であるように見えるが、なんらかの攻撃を防ぐ役割を果たすのであろう防具を着用している。
身に纏っている服の生地は一見して丈夫、というよりも頑丈そうな作りをしていた。
ただの村人ではないことは一目瞭然。
こちらでは初めて見かけた格好だが、日本では紙やテレビの媒体を通して似たようなものを見たことがある。
(・・・・・騎士?)
こちらと日本の見解がここで一致しているなら十中八九彼らは武人で間違いない。
体格が良い者もいるし、馬を乗りこなす姿は如才がない。
馬も村にいるどれよりもたくましい。
でも、何故?
シュリィは首を捻った。
リーズは地図にも乗らぬ辺境の村。
わずかばかりの村民が互いを支えあって慎ましく穏やかに生きている。
このリーズの向こうに町はない。
少し行けば険しい山が聳えている。
その向こうは隣国の敷地になるが山自体が広大で隣国との距離は遠いし、何よりちゃんとした街道がある。
それ以外にもこの山を越えるよりは余程楽な道のりが確かあと3本はあるはずだ。
リーズ村は利便の悪い立地に何故だかひょっこりと出来てしまった村だった。
国境地域にあるにも関わらず、ある意味自国とも隣国とも遠い。
少し先にあるハハリの街の方が土地の仕組み上隣国と接しやすい。
交易で栄えるのも緊迫した状態に陥るのもあちらの街の方がよほど・・・。
不信感がより募る。
平穏な姿そのものである辺鄙な村に、中央の仰々しい空気がする彼らに足を向けてほしくない。
無意識のうちにシュリィはぎゅっと両手の花を強く握りしめていた。
「きみはそういうところ、なんとかしといたほうがいいと思うよ?」
からかうロイスにライナスはうんざりと息を吐いた。
「余計なお世話だ」
そのライナスの姿に小さく笑いながら、ロイスは微かに自然な動作で下げている剣の柄頭を軽く触れる。
それを視界の端に捕らえて、ライナスもちらりと自らの愛剣に目をやった。
ロイスもライナスも少し前から気付いていた。
村のすぐ手前にある小高い草原に気配がある。
姿は見えないが、ひとり、誰かが息を潜めているのがわかる。
それとの距離が近くなるにつれ、自然と二人は表面には出さずに警戒する姿勢に入った。
表面上は穏やかに会話を続け、馬の手綱を片手に前進を続けながら神経を研いでいく。
慣れきった所作だった。
距離を測りながらライナスはちらりと上官を一瞥する。
自分たちが気付いたのだ。
ジークムントが気付かぬはずがない。
きっと自分たちよりもっと早くに察知していただろう。
けれど傍目には全くその様が見て取れない。
(・・・怖い人だよな、こういうときは)
ライナス自身、表に出すようなへまはしないが、それはあくまで素人相手には、であって、ある程度の人間になればわずかな呼吸ひとつ、意識のずらし方ひとつ、片鱗程度なら必ずわかるはずだ。
命のやりとりを前に、鍛えられた人間は肌で、本能で勘が動く。
戦いに身を置く時の所作、という点に置いて、恐ろしいとライナスが思う人間は多くない。
ジークムントはその筆頭だった。
しかし、
(あの人は、もっと読めない)
ともう一人、ここにはいない人物を思い浮かべる。
常に柔和な微笑を浮かべているその人物もまた、彼の上官にあたる人間であるのだが、男でありながら人が息を呑むような繊細で美麗な顔をしておいて、その実職務に関しては厳しい。
それはもう厳しい。
鬼の如く厳しい。
・・・嫌なことを思い出した。
ライナスはぞっと背筋が震えて居住まいを正した。
名も知らない野花が咲き乱れる草原にぽつんとある気配まで、あとそれほどの距離もない。
さわさわと草の揺れる音が辺りに響く。
ふとロイスがライナスを振り返った。
気配があるのはロイス側の道である。
彼の方が近い。
小さく食えない微笑みを浮かべながら一度目を合わせてきたのでこちらも視線だけで頷き返す。
手綱を引き音もなく馬を止め、ロイスはひらりと身軽に降りた。
野原の草に足を踏み入れる。
くしゃくしゃと草特有の音が足元から上がる。
気配のあるところから数歩距離を空けて立ち止まると、彼は殊更柔和で明るい声を投げた。
「そこにいるのはどなたかな?」
緊張感の欠片もないその声にライナスは呆れたように溜息を吐き出す。
人を食ったような、飄々とした姿を常に崩さないロイスは面の皮がたいそう厚い。
しばらく間を置いてがさがさと草が揺れた。
ロイスがおや、と片眉を上げ、ジークムントが馬上で微かに身動ぐ。
ライナスは僅かに目を見開いた。
ロイスの向こうで、小さな子供がひょっこりと姿を現した。