8、リーズ村(8)
一歩出しかけた足を、そのまま止めてエイダは土手を振り仰ぐ。
土手の坂を、怯まずに勢いよく駆け下りてくる少年の姿がそこにはあった。
アビーとよく似た赤毛まじりの濃い茶髪を風に揺らして、少年は難なく土手を下りきる。
そのまま軽い身のこなしでエイダとシュリィの前にさっと立った。
薄い青の、真っ直ぐに清んだ瞳がこちらを正面から向く。
「バート」
エイダが困ったように彼の名を呼んだ。
バート、10才の少年。
アビーのいとこにあたる。
遺伝なのか、彼もまた身体能力が抜群で、喧嘩が強く、村の子供たちのリーダーのような存在だ。
村には12、13の子供もいるのだが、彼らはどちらかといえばもう大人に交じりつつある。
当然一緒に駆けっこをして遊んだりはしない。
だから実質子供たちの最年長は、10才であるバートとヨハンの二人だった。
バートが村の子供を纏め、率先するリーダーで、それをサポートするヨハン。
そんな図式がいつの間にか村には出来ていた。
そのバートの視線は今、エイダとシュリィの二人に向いている。
アビーよりも薄い色だが、やはり従兄妹なだけあって、同じく底抜けに青い夏の空の色をした双眸。
アビーと同じで廉直な目をしている、とシュリィは思う。
しかし、バートのどこかまだやんちゃで勝気そうな光をちらつかせる強い視線は、今はどこか怒っているようにも見える。
シュリィは、あらら、と内心で苦笑した。
(たぶん、私のせいかな)
シュリィが見た所、バートはどうもエイダに自覚の薄い初恋中だ。
なにせ村で群を抜いて美人なエイダだ。
優しくて頭もいいのに、どこか抜けていて運動が苦手。
守ってあげたくなる彼女に彼が心奪われるのはある意味当然の出来事だった。
それなのに、当のエイダのお気に入りはもっぱらシュリィで、最近はいっつもシュリィばかりに構っている。
思わず嫉妬もしたくなる。
村の子供の頼もしいリーダーで、分け隔てなく弟分たちを気にかけてやるバートは、けれどどこかシュリィにだけはよそよそしい。
しかし、いかんせん自覚が薄い。
恋をしているというはっきりとした自覚がないから、自分がどうしてエイダに弱くて、シュリィをつい妬ましく思ってしまうのかよくわからない。
だから余計にいらいらが募る。
そんな葛藤の中に10才の少年はいた。
(・・・・ぴゅあだわあー)
見ていると微笑ましくてきゅんきゅんしてしまう。
時折バートに冷たくされてしまうシュリィだが、彼のことは嫌いではない。
よそよそしい態度を取った後、バートはしまった、というような気まずそうな顔をするし、
シュリィが思うように動かない足をもつれさせて転んでしまった時、彼は何も言わずにシュリィを背中に負ぶって家まで連れて行ってくれた。
今は初めての感情に戸惑ってはいるが、ちゃんと正義感と責任感があるよきリーダーで、子供たちの人気者で、加えて求心力もある。
バートはなんだかんだでいい子なのだ。
良く見れば男前な顔立ちもしている。
いずれはお似合いのカップルになるかもしれない、とシュリィは密かに二人のこれからを楽しみにしていたりする。
だから、今回もエイダがシュリィの手を握っているからか、と思ったのだが、
「エイダ、どうして体調が悪いのに大人しくしてないんだ!」
違ったらしい。
「・・・え。エイダ、ぐあいわるいの?」
しばらくバートの言葉にぽかんとしていたシュリィだが、慌ててエイダの顔をまじまじと見つめると、エイダは罰が悪そうに視線を逸らした。
「わ、悪くない。悪くないわ。全然平気。元気よ」
・・・・・見るからに嘘である。
思わず口を噤んだシュリィに反し、はあ、とバートはわかりやすく溜息をついた。
「嘘付け。さっきお前の母さんに頼まれたんだよ。昨日の夜から体調がおかしかったのにいつのまにか目を盗んで出かけたみたいだから探して連れ戻してきてくれってな」
そこでちらりとシュリィを見る。
「・・・・・お前、連れ出したんじゃないよな」
じろりとした視線にぶんぶんと勢いよく首を振ったシュリィを、エイダが庇うように叫んだ。
「変なこと言わないで!私が勝手にシュリィに会いたくて来たの!」
(ああっ、エイダ!それはそれで逆効果!)
果たして、バートの機嫌は著しく低下していく。
ひやりとした汗を感じながら、けれどシュリィは握られているエイダの手をきゅっと力を入れて握り返し、彼女を見上げた。
「・・・エイダ」
エイダは居心地が悪そうに身動きする。
「・・・昨日、ちょっと疲れて早く寝ただけなの。」
「お前、そう言って何回寝込んだか覚えてないのかよ」
バートの言葉にエイダが口を尖らせる。
しかし、本当のことだから言い返すことが出来ない。
バートも、自分が口うるさくなっていることを自覚してはいるのだが、体調を崩して苦しげに寝込むエイダの姿を小さな時から知っているから、どうしても言わずにはいられなかった。
エイダは体があまり丈夫ではない。
病弱というわけでもないのだが、疲れが過ぎると体調を崩し、少し体調を崩したと思ったら、気を抜くと今度はそれがどんどん悪化していく。
だから変調が少しでもあったら用心してすぐに休ませるのが常だった。
「帰るぞ、エイダ」
バートが顔をしかめたままそう言うと、エイダは見る見るうちにしゅん、と眉を下げる。
「でもね、ビルたちがなにをするのか見てみたいし」
「・・・だめだ」
「ねえ、お願い」
こてん、と見事な角度でエイダが小首を傾げる。
天使のような容貌が、どこか潤んだ、綺麗な瞳をした上目遣いで窺ってくる。
バートはぴしりと音を立てて固まった。
そのやりとりを少し離れて見ていたヨハンがうっ、と思わず呻く。
正面からあの視線を受け取っているわけでもないのに、これは侮れない。
なにせエイダは自分の効率的な使い方を常に本能的に磨いているのだから、威力は凄まじい。
エイダの「お願い」を、今まであっさりとつっぱねることができた者はムク爺以外ヨハンの知る限りいない。
事実、正面からそれを受け取らざるを得なかったバートは、かわいそうに、顔を真っ赤にして言葉も紡げないのか、なにかを言いかけては声にならず口を閉ざすのを繰り返している。
まあ、あいつの場合は無自覚の惚れた弱みもあるだろう。
(・・・卑怯だぞ、エイダ)
口に出すと後が怖いので視線を逸らしつつ胸中だけで文句を告げたヨハンは、しかしシュリィの言葉に目を見開いた。
舌足らずな子供の声が妙に気合を含んで響いた。
「だめよ、エイダ」
エイダの「お願い」に、思わずシュリィもたじろぐ。
彼女の整った顔が悲しげな表情を浮かべていた。
柳眉はものの見事に下がり、雰囲気はまるっきり子犬が落ち込む姿に似ている。
繊細な睫毛がふるふると揺れていた。
彼女の髪と同じ綺麗な金色だ。
それが心なし水分を孕んで細かく時に上下する。
まるで自分がこの神秘的な美少女にとんでもない無体を働いたような気分に気圧されそうになる。
しかし、シュリィは踏ん張った。
ここは心を鬼にせねば。
なにせこれはエイダのためなのだ。
こんな辺境で彼女が風邪などを拗らせては、それこそ笑いごとでは済まないのである。
(ひきはじめが肝心っていうし・・・)
シュリィはエイダの視線を振り切って、首を振った。
彼女を見ると負けてしまいそうになるので声に力を入れる。
「だめよ、エイダ」
より下がったエイダの眉尻に怯みそうになるが、これも彼女のため。
気合を入れなおして首を振った。
「きょうはおとなしくねておこう、ね?」
「シュリィ」
「ひどくなったら、たいへんだよ」
シュリィは真剣な顔で、懇々と諭すように説得の言葉を連ねた。
野宮朱里は塾講師、兼家庭教師をしていた。
情報社会でこれといった苦もなくある程度の情報を迅速に手に入れることができる世代の子供たちは時として、大人が驚くほどにませていて、その眼は寂しくなるほど達観であり冷静で、賢い。
そんな彼らを毎日何人も相手にしてきたのだ。
多少の免疫には自信がある。
だからエイダのおねだりにもシュリィはぎりぎり屈しなかった。
「エイダ」
頑として譲る気がないとみえるシュリィに、折れないと察したのか、未練がまだあるような仕種をしつつもエイダはシュリィの手を握る自分の手に小さく力を入れた。
「・・・・・シュリィが言うなら」
渋々と頷いたエイダに、シュリィはほっとしてその手をやはり両手で握り返し笑顔を向ける。
その笑顔に、エイダも下げていた眉をゆるゆると元に戻した。
手を取り合って笑いあう子供が二人。
微笑ましくも見えるそんな二人を少し離れた場所からまじまじと見つめていたのはヨハンだ。
いまだ硬直が解けずにいる友人はこの際放っておいて、彼は目を大きく見開いてひとり驚きを露わにするのだが、当の二人はその様子には気付く素振りをちらりとも見せない。
(・・・そういえば、シュリィはムク爺を見て泣かなかったんだっけ)
ふと昔村で話題になったことを思い出して、ヨハンは思った。
(もしかして、一番強いのって、シュリィみたいな人間なのかもしれない)