4、リーズ村(4)
「ただいまあ」
子供たちと駆けまわり、疲れ切ったシュリィの間延びした声に、部屋の中からふたつの声が返ってきた。
「おかえりなさい」
「おかえり、シュリィ」
台所で夕食の支度を始める母リリーと、畑仕事から帰ってきてテーブルの椅子に座っていた父シュルヴェステルが部屋に入ってきた彼女に笑顔を向ける。
親に言われる前に手を洗い、疲れた顔でとてとてと寄ってきた我が子を、シュルヴェステルは膝にひょいと抱き上げた。
「疲れてるな、シュリィ。今日は何をして遊んだのかな?」
「・・・みんなでおにごっこ」
苦い顔で呟いた子供に両親は二人揃ってくすくすと笑い声を上げた。
村の子供の中で一番年下のシュリィだ。
逃げればすぐに捕まるし、鬼になればなかなか人が捕まらないだろうことは想像に難くない。
シュルヴェステルが自分の片手にすっぽり収まりそうな頭をがしがしと撫でる。
ゆらゆらと小さな肢体が揺れた。
(・・・・・・三才。私は三才。三才のシュリィ。)
その間、シュリィは念仏のようにそう唱える。
28歳、プラスのこの三年。
精神年齢では立派な三十路であるシュリィにとってまっさらな子供扱いをされるのは騙しているような後ろめたさと久しい感覚への恥ずかしさで大変居心地がよろしくない。
よろしくない、のだが、拒みすぎれば不審がられるのは目に見えているので、適度に恥ずかしがるように抵抗するくらいしかできない。
まさか転生なんてそう簡単にばれるものでもないだろうが、この三年、なるべく外見の年相応に、子供らしく子供らしくと心がけてきた。
とはいえ中身が28プラス3である以上、折り合いを付け難いこともあるし気を抜いたところでぽろりと零れるものもあった。
だから子供の素振りにもどうしたって限界がある。
おかげでシュリィは人より早く自分の足で立ち、人より早く言葉を喋った、手のかからない子供だった。
体の自由が利くようになり、初めて言葉らしい言葉を発したとき。
身体の機能は当然まるきり子供なので自然と舌足らずになったが、言葉選び、話し方とわざと幼稚なものを口にした時の居た堪れなさといったらなかった。
が、それも今となってはお手の物である。
(慣れって怖い。ほんとこわい。)
やさぐれたい気分だ。
だって、なにか大事なものを捨ててしまったような気がする。
ふっ、と黄昏れるように、シュリィは内心でニヒルに笑った。
ムク爺に怯まなかった村の子供、シュリィ。
随分早くに歩き出し、舌足らずながらも流暢に大人と同じくらい多くの単語を使って話す。
三才でありながら異常なまでに聞き分けが良く、とにかく手がかからない。
というのがシュリィに対する村での評判だ。
だから大人受けはすこぶる良い。
あんまり聞き分けが良すぎるのも気味が悪いだろうかと案じたが、なんとかなるものだ。
幸いなことにこの世界、早い所では16辺りで大人の仲間入りかそうでないか、といったところ。
栄える主要都市ではもっと遅いらしいが、特に街を離れるにつれて少ない人口の割に働き手がいるせいなのかより顕著にそれが表れる。
リーズもまさしくそれに該当し、この村では15、16で既に小慣れた手つきで大人の仕事に交り始めるのだ。
だから自然と少年少女は日本に比べて割合年よりしっかりした人間が多い。
ちらりと見上げた父親も、一児の父にしては若いと日本なら言われるだろう。
そんな父は目が合うと、青やら紺やらをひたすら濃くしたようなほとんど黒に近い瞳を柔らかく細めた。
父シュルヴェステルは漆黒の髪に、光の届き損ねた深海の双眸を
母リリーはミルクティーのような柔らかい茶髪に、穏やかな森のような深緑の瞳をしている。
ふたりとも平均的な顔立ちだ。
その子供であるシュリィは同じく人並みの平凡な顔、髪はそっくりそのまま母親のものを、瞳の色は両親のものを足したような色彩を受け継いだ。
ほんとうに微かに、緩やかなカーブを描くミルクティーの髪。
双眸は、緑に少しの青を混ぜて透き通るほど薄めた水彩絵の具を一筆でさっと画用紙に走らせたような色が、しんしんとした澄んだ黒の奥やら表やらに混ざっている。
うっすらとほんの微かに光が届く、深海の底のような静かで深みのある色だ。
若干人より込み入った曖昧な色をしているが特筆するほど目を惹くものでもない。
多少形容しがたい複雑な色合いの双眸ではあるが、そういった人間は多い。
多種多様な色彩が混ざり合うため個人差は出るが、混じり気のある瞳の人間は雑多としている。
むしろ混じり気のない純粋な色の虹彩の持ち主のほうがどちらかといえば希少であるこの世界で、シュリィの髪と瞳はそういう意味ではどちらも広く見かけることの多い色だった。
転生したら美人に生まれた。
とはフィクションでよく聞くが、現実はなかなか上手くはいかないものだ。
なんて少しだけがっかりはしたものの、ほっとしたこともあった。
見た所、顔立ちは以前の野宮朱里のものと比べ、物凄く違う、というほどではない。
かといって、そっくりそのまま、というのでもないという微妙な塩梅であった。
これが思っていた以上に精神的に良かった。
自分の顔を見るたびに愕然とすることも、逆に野宮朱里の顔を色濃く思い出しすぎることもない。
ぱっと見、一瞬違和感を覚える程度で、馴染むのは思ったよりもずっと早かった。
それになにより、
(・・・こっちの家族)
温かい家族と穏やかな村に生まれ落ちた。
このことは、どこにいるとも知れないこちらの神様とやらに感謝してもいい。
ふと目を伏せて考え込んでいたシュリィの前に、とん、とスープの入った器が置かれた。
ゆるゆると湯気がぼんやり霞み、食欲をそそる優しい匂いが鼻孔をくすぐる。
顔を上げると、深い森が、包み込むように笑みを浮かべた。
「さあ、ごはんにしましょう。私の愛する家族たち」
リリーの耳触りの良い声が、夕暮れに染まる村を窓へ映す部屋にころんと零れた。
「セレナティエ王国、じゃ」
「せれなてぃえ」
「そう」
たじたじと言いにくそうに呟いたシュリィにムク爺は鷹揚に頷いた。
そういえば、と自分のいる国の名を知らないことに気付いたシュリィが尋ねたのにムク爺が答えたところである。
村の奥まったところにあるムク爺の家に、シュリィは足繁く通い詰めていた。
シュリィは知識が欲しかった。
もともと彼女は何かを学ぶ、ということが嫌いではないし、一度興味を惹かれれば知識欲が滾々と湧いてくる質でもある。
なにより彼女にしてみれば、転生前の記憶がある分、何も知らない異世界に突然放り込まれたような気分だった。
知らないことばかりで、今にも生活に支障を来しそうに思えて不安になる。
真実何も知らない子供なのだから堂々と構えていればいいのだが、どうにもいてもたってもいられない。
体がまだ小さくて仕事もさせてもらえないため時間もふんだんにあるのだが、童心に返って遊ぶのにも限界がある。だからどうしても時間が余る。もったいない。
となれば、落ち着くために必要な知識をある程度得ようとするのは人間として当たり前の行為のはず。
まして今は子供。
若いだけあって、記憶力は28歳の野宮朱里に比べて飛躍的に向上していた。
面白いほどにするすると入っていくのだ。
その様、まさしく土が水を吸うかのごとく。
加えてここは前世で言えばファンタジーの世界。
これで知識に対して積極的にならずにいられようか。
(恐るべし子供の脳、よね)
なにかを覚えていくたびに、その若さ漲る能力にシュリィはしきりに感心した。
ところで何故、ムク爺なのか、というとそれはもちろん村一番の博識家だからなのだが、リーズ村では、真実ムク爺こそが先生なのである。
というのは、この国、この世界の教育制度が根幹にある。
この世界、識字率はやはり現代日本と比べるとかなり劣っていた。
仕方のないことなのだが、その事実に日本で家庭教師をしていたシュリィは少なからずカルチャーショックを受けた。
詳しく聞いたことがないからよくはわからないが、学校はある。
それも国が運営する学園がいくつかあるらしいのだが、これは限られた主要都市にしかない。
とはいえ、学ぶことが制限されているわけでも、貴族の特権とやらになっているわけでもなく、各町々にある教会である程度は教養を身に着けることができる仕組みになっているのだそうだ。
教会だから全ての人間にその門を開いているし、国も国民が広く学ぶことを推奨していることにはしているのだが、やはり人は生活に重きを置く。
余裕がなければ勉強をしに教会へは行けない。
そもそもリーズのように辺鄙な土地には教会自体がないから、結果、都市を離れれば離れるほど識字率は下がる。
これはこの国だけの話ではなく、この世界全てに通じる事実であるのだという。
ところが、リーズは違った。
リーズの村民は全員文字が読めるのだ。
何故か。
言わずもがな、ムク爺の言葉がはじまりだった。
教養はそうでないように見えて実は生活に必要なものである。
少なくとも文字を解することは最低限身に付けるべきなのだ。
だから、自分が皆に文字を教えよう。
ということで、リーズの人間は誰でも、最低限文字だけは習う。
今の子供に至っては、既に親が文字を読めるのでわざわざムク爺に教わらずとも家でそれぞれの家族に習うことができる。
シュリィ自身、書くのはまだあやしいが、知らない単語が時折あるのを除けば読みはほとんど問題ない程度には身に付けた。
村の中を歩けるようになって以来、シュリィはムク爺の家を訪ねては、その知識を譲ってもらう。
高価な本がそうそうこの村の家にあるはずがない。
いわばムク爺はリーズで最高の百科事典だった。