12、リーズ村(12)
自分に伸ばされた小さな手に、ライナスはぱちぱちと瞬きをした。
咄嗟にどういうことなのかわからなくて驚いた、あるいは意外だ、というような顔をしている。
話の流れから、てっきり子供受けのいいロイスがこの子を連れて行くのだろうと思っていたのだ。
かくいうライナスも割と子供に好かれる質ではある。
彼自身、子供が嫌いではない。
ただ、女の子となると、ロイスの影響力は圧倒的に大きかった。
女の子たちは一様にロイスに憧れる。
物腰柔らかでなおかつ騎士という地位にあるロイスに、彼女たちは恋物語に出てくる素敵な男性を思い起こし、彼の優しげな笑顔にときめきと夢を重ねた。
やんちゃな女の子も、ロイスがいると途端にしおらしくなるのだから折り紙つきである。
都合がいいし適任だからいつもそうしてきた。
現についさっきも通常通りロイスが真っ先に、この子供へ連れて行くことの了承を求めたばかりだ。
しかし、子供の手はそのロイスを素通りしてしっかり自分の服を掴んでいる。
ライナスとロイスは無言で顔を見合わせた。
「振られちゃったなあ」
と呟きながらロイスは肩を竦めてみせる。
言葉とは裏腹に、その声はなぜだかやたらと楽しげだ。
「初の負け戦か?」
「自信をなくすね」
ライナスの言葉にロイスは捉え所のない顔でそううそぶく。
それには応じず、子供の手に握られている自分の服をライナスは見た。
用心のために防具を身に着けてはいるものの、その姿は戦の真っただ中でもないから軽装だ。
覆っている部分は少ない。
そもそも魔法が存在するこの世界では防御にも特化した魔導がある。
その役割は大きい。
戦時、身に纏う防具は、シュリィが知る地球のものよりも自然と簡略化されたものになっていた。
その簡略化された防具で覆われていない服の部分を、彼女は握っている。
子供の手で、服にはゆるゆるとしわができている。
強く握られているわけではないから跡には残らないだろうが、大人の男の服を掴むその手は小ささが際立った。
その様をどこか物珍しげな視線でしばらく見た後、ライナスはその手に応えるようにひょいと子供を抱き上げた。
ひょい
ほんとうにそんな音がしそうなくらい、大して力も入れていない両腕で子供は簡単に持ち上がる。
驚くほどに軽い。
小さい子供なのだからそれが当たり前なのだが、あまりに軽くていっそ怖くなる。
彼の心は計らずもほんの微かに動揺した。
無意識にそれは顔に出る。
ライナスが子供を抱え上げるのを見るともなしに目で追っていたロイスだけがそれに気づいた。
溜息に似た息を吐き出すと共に心中でぽつりと呟く。
(・・・職業病だね、これは)
ライナスの顔にほんの一瞬だけ掠めた心の揺れを、心ならずも目にしてしまったロイスはつい舌打ちをしそうになるのを堪えて、胸の内で唸った。
機微に聡いロイスは人が瞬きひとつの時間に僅かに漏らしてしまうものにうっかり気付いてしまうことが多い。
それに救われてきたし、時にはいいように利用している自分が言えた立場ではないのだが、こういう職場の人間のものに居合わせるのはどうにも居心地が悪くて、好きじゃない。
彼にはライナスがその時何を思ったのかわかるような気がした。
不本意ながらロイスにも心当たりがある。
職業柄、時折襲ってくる感情だ。
たぶん、あんまりいいものではないんだろう。
「情けない顔だね、ライナス」
隣で立ち上がりつつ苦笑しながら指摘してやると、ロイスの言葉にライナスはロイスよりもどこか苦々しい笑みをその顔に浮かべた。
同僚に胸中を量られて決まりが悪いらしい。
ひとりわけがわからない子供がきょとんとするのを抱え直す。
反動で子供の柔らかな茶色の髪が揺れて、ふわりと昼時の光に透けた。
その様を一瞥してからライナスは後味の悪い感情を逃がすように顔を上げ、先ほどの指摘には聞かなかったふりをしてロイスににやりと笑ってみせた。
「嫌われたな、ロイス」
ロイスに言及されたばつの悪さを誤魔化すように、露骨は承知で話題を変えるためなんでもない顔をしてそう告げる。
手当たり次第に見つけて、半ば強引に振った話題だが、口にしてみてしみじみと思った。
ロイスに懐かない子供はほんとうに珍しい。
一番に声をかけたのがロイスだから、警戒心が尾を引いているのだろうか。
自分の腕には大人しく納まっている子供を見下ろすと、小さな両手の中で、小花と草がふわふわとその背を揺らしている。
嫌われたと率直に言われたロイスはうーん、と弱ったように眉を下げてみせた。
それは少し寂し気で、ロイスの端正な容姿ではどこか憂いさえも帯びた仕種になる。
「悲しいな」
彼に熱を上げる女性たちなら歓声をあげるような声と表情だ。
しかし生憎、ライナスは彼に熱烈な興味を抱く人間でもなければ、ロイスと全くの初対面であるのでもない。
嬉しくないことに、腐れ縁のある同僚である。
ライナスはうんざりと溜息を吐いた。
(思ってもいないくせに、よくやるよ)
と思いはするが、もちろん口には出さない。
理由は明白である。
反撃が怖いのだ。
ロイスの口は笑みを湛えたまま人の心を抉ることを躊躇わない。
触らぬ神に、というやつだ。
かなしいかな、大人になると呑み込むべき言葉と乗り込んでくる厄介と、それをやり過ごす所作を覚える。
ロイスを見てなにやらたじろいだ子供が手から落としかけた花を慌てて抱え直す姿に、ライナスはなんだか訳もなくほろりとした。
(・・・こんな大人になってくれるなよ)
今後、関わることもないだろう子供の将来を心の底から祈り、ライナスはぽん、と一度軽く自らの腕にいる子供の頭を撫でる。
「・・・・・?」
唐突に撫でられた挙句、なんだか生暖かい目に見下ろされたシュリィは、きょとんとした瞳で彼を見上げた。
ライナスは子供を抱えたまま馬の所へ足を進めた。その後をロイスがついてくる。
馬に乗る時だけ子供をロイスへ預け、改めて馬上で子供を受け取ると手前に座らせ自分の片腕で落ちないようにしっかりと抱きかかえる。
その後ロイスが馬に乗って、ジークムントの馬を先頭に、村まであと少しの距離を三頭が闊歩する。
初めて馬に乗ったシュリィはその景色の高さにまず驚いた。
小さな体が振動で弾みそうになるのをライナスの腕がちゃんと支えるからあまり怖くはない。
それでもがくがくと視界は揺れた。
28年の日本での生活を入れても、馬上の風景は初めて見る。
子供の頃に家族とポニーに乗ったことしかない。
その隣の馬場で慣れたように綺麗な肢体の馬を駆けさせる大人を憧れの視線で見たのを覚えている。
彼らの目に映っていたのはこの景色なのだろうか。
思っていたよりも随分高い。
大人になるにつれ記憶の隅にすっかりと押しやっていた微かな憧憬だが、まさか生まれ変わって叶うとは思いもしなかった。
「・・・わあ」
思わずシュリィは素直に感心した。
子供のまま無邪気なその姿にライナスとロイスは小さく笑む。
彼らにもかつて大人たちの乗馬の姿に憧れていた頃があった。
初めて馬に乗せてもらった時の感動を覚えているから、子供の反応は微笑ましい。
シュリィの丸い頬を、緩やかな風が撫でていった。
ある程度高い視点からの景色を満喫して落ち着くと、ふと思いついたことがあって、シュリィは顔を上げてライナスを振り仰いだ。
「そんちょうにあいたいとのことですが」
「うん?」
「だいじなおはなしですか」
唐突な子供の質問にライナスは思わず言葉を詰まらせる。
シュリィの声を耳にしたジークムントがわずかに振り返るのが見えた。
それを視界の端に、ライナスはぎこちない笑みを浮かべて、見上げてくる子供の視線にああ、と首肯する。
「とても、大事な話だ」
ぎこちない笑み同様、心の内はあまり穏やかではなかった。
どんな話?と聞かれたら、この小さい子供になんと答えてやるのが一番よいのかわからない。
彼らが村長に会ってしなければならない話は、残念ながら子供にして楽しませてあげられるような類のものではない。
いつだって、そうだ。
眉を寄せるライナスに、しかし予想に反して子供はなにも聞かなかった。ただ、
「そうですか」
と一人で納得したように一度頷く。
身構えていただけに、ライナスは拍子抜けして次に続く言葉を咄嗟に紡ぐことが出来なかった。
一方、シュリィは考えていた。
大事な話。
それはそうだろう。
わざわざこんな辺鄙な村まで王室騎士団を名乗る人間が足を伸ばすのである。
暢気な世間話のはずがない。
(大事な話。)
それならば村長宅へ向かうより、このまま真っ先に長老の下へ行った方がいいだろう。
村の長である村長は、確かに村を率いる人間である。
しかし重要な話となると独断ではなく村長は村の長老の下へと相談をしに訪れる。
なにしろあの年で朦朧していない彼は村の頭脳なのだ。
色々と動ける人間でなければならないので村長はまだ働き盛りの男がなるが、重要な話はもっぱら最年長のムク爺に限る。
村長は村をしっかり取り仕切るが、込み入った話になると村長に限らずこの村では誰も彼もが長老の考えを頼る。
決定権も発言力もムク爺の力は絶大だ。
彼の長年による知恵と経験と知識と実績がそれを後押ししていた。
加えてその穏和な性格と包容力を前に相談相手になる人物として彼に敵うものは村にはいない。
第一今日の今の時間、村長は村を空けていた。
今日は村の者が揃って二つ向こうの大きな街へ出払っている。
辺境の村リーズでは補いきれない生活の品を村人の分、定期的にそこへ買いに行く。
加えて男も女も特に若い人間は、村では出来ない買い物や遊びを楽しみに大勢が村を空ける。
だから村に残った母が埋め合わせに今日は忙しくて、目を盗んでシュリィはあの草原まで出て来ていたのだ。
そういうわけで、シュリィは村長宅を素知らぬ顔で通り過ぎ、奥まって多少複雑な場所にあるムク爺の家へと案内することに決めた。