一人じゃない
真は警察署から解放されたが、空腹と絶望からはなかなか解放されない。いっそ、このまま飢え死のうかと思ったとき、後ろから何やら騒がしい声が聞こえた。
「止まれ。この!」
振り返ると、一人の男が走ってくる、その後ろを数人が追いかける。真はさりげなく逃げてくる男の足を引っかけた。泥棒の男は真の前で転んだ。真は知らない顔で立ち去ろうとするが、呼び止められた。
「ああ、あなたは。」
さっきの私服警官だ。全力疾走したようでかなり息が切れている。一方、泥棒は手錠をかけられ逃亡失敗。逮捕、連行された。
「さっきの人ですか。」
「…何があったんですか?顔色悪いですね。」
「それよりも、行かなくていいんですか?他の人はもう行きましたよ。」
半分は、あんたのせいだよ。
真はいかにも不機嫌そうな顔をして見せた。この人にとってはとばっちりなことを知りながら。
「彼らなら問題ありません。後は勝手にやってくれますから。」
「そうなんですか。」
高田課長、こんな部下で苦労してるんじゃないですか?
彼の記憶が正しければこの人も生活安全課の人だ。
「よし、蕎麦食いに行くか!今日は驕るから!」
どういう展開だ、これは…?
おそらく、見ず知らずの人に蕎麦を驕られるという経験をした人は極めて少ないだろう。真は裏があるのかと疑ったが、何の屈折もない笑顔を見て疑うこともバカバカしくなった。
二人は蕎麦屋に着いた。蕎麦のいい匂いが漂う。それと同時に懐かしさが漂う。誰もいない昼下がりの『蕎麦屋 喜兵衛』。
彼はふと思い当った。この蕎麦屋は十年前(プラス二百十年)に数回来たことがあることを思い出した。二人はカウンターの席に座る。
「よう、あんちゃん。いつものかい?」
気風のよさそうな店主が言う。その店主は彼が知っている店主と似た顔をしている。
「ああ。」
「お隣さんは?」
真は掛け蕎麦がメニューに残っていることを確認し、注文した。
「通だな。確かにここの掛け蕎麦は美味いよな。」
真の隣の警察官が言う。
「おう、三百年以上守り続けた味をそう簡単にゃ手放せないからな。」
彼が以前来た時の数代前の店主も同じことを言っていたことを思い出す。
「へい、お待ち。」
彼らの前に掛け蕎麦二つが出された。やはり『いつもの』蕎麦は掛け蕎麦だということを再認識した。
真は蕎麦を箸でつかみ、すすった。店主が言うとおり、二百年前と味が変わらない。たまらなく懐かしい。涙がにじみ出てくる。必死でこらえる。蕎麦をすする。黙ってすする。空腹感も孤独感も消えた気がした。もう少しここでやっていけそうな気がした。
「合計九六〇円です。」
すると、警察官はカードを手首のホルダーから取り出し、ポートにかざす。そのポートは真が知っている、プリペイドカードをかざす物と大して変わらない。これがあの『カード』であることが分かった。
「課長から話を聞いてるよ。俺は味方するよ。」
「あ、ありがとうございます。」
一人じゃない。俺は一人じゃない…!
彼は私服警官、安藤隆弘の後ろでこらえていた涙を流した。