プロローグ:激流
プロローグ:激流
―――ドカーーーーッ!!!
少年には、その音が何を意味するのか、まるで理解できなかった。
いや、それ以前に理解する時間すらも与えられなかった。
少年がその音を聞いた瞬間、彼は自分が息をすることもできないまま、強力な力の中に押し流されてしまった。
たった今まで、家族と共にいたのに、その光景がまるで嘘か幻であったかのように、消え去った。
(助けて!……母さん……父さん)
少年は無意識にそれだけを思った。
だが、少年の意識は次の瞬間には消え去っていた。
抗うことのできない、強力な力に、ただ少年は何もできないまま飲み込まれていった。
それから、どれだけの時が立ったのか分からない。
少年は再び意識を取り戻していた。だが、頭も体もひどく重くて、クラクラする。目を開けることだっておぼつかない。
微かに開いた瞼の間から、暖かな光が差し込んだ。
―――パチパチ、パキンッ
(焚火?)
まだはっきりとしない意識の中で、少年はぼんやりと思う。
「……ううっ……」
何かを言おう。そう思って、口を開こうとしたが、口から出たのは声にもならない、うめき声だった。
自分の体がひどく重い。こんなのは初めてだ。
「気が付きましたか?」
突然、少年に語りかける声がした。
「君は、っ!!!」
訪ねようとして、だか少年は思わず体中から襲ってくる悲鳴に声を上げた。
痛い、それも今までに感じたことのない痛みが、体のそこかしこから声を上げてくる。
息が口から漏れる。
「いけません、まだ動いてはダメです」
語りかける声にそう言われる。
少年は力なく、その声に従うしかなかった。どうやっても、体に力が入らない。それよりも、今は体を動かすとすごい痛みが襲ってくる。でも、動かなければ、痛みは襲ってこなかった。
「ルールーラー」
そんな少年の傍で、歌声が聞こえてきた。そして、少年の額に暖かな体温を感じる。
「おっ、おかあ……さん」
「動かないで、今のあなたはまだ動けませんよ」
体から上がる痛みもこらえて、少年はおぼつかない声で、その人の名を呼んだ。しかし、以外にも少年に帰ってきたのは、母の声ではなかった。それでも、なんだか気持よくて、安心できる声。
それは本当にお母さんが近くにいてくれるように思えた。
少年はその優しさに抱かれて、再び意識を失った。だが、今度は暗闇の飲み込まれるように意識を失ったのではなかった。
少年が気をしなかった後も、穏やかな歌声は周囲を満たし続けていた。
―――チュンチュン
「ここは……どこ?」
小鳥の声と太陽の暖かな光。少年が再び意識を取り戻した時、そこは知らない場所だった。
木々に囲まれた、小さな広場だ。こんな場所を少年は知らない。
ただ、昨日は体を動かすことさえできなかったのに、今は体が自然に動いた。
しかし、少年はそのことを不思議に思わなかった。それよりも、知らない場所に自分がいることに、不安を感じる。
「お母さん、どこ、どこにいるの!」
少年が不安になって声を上げる。
「おかあさーん!」
再びの声も、しかし森の木々に反射して、こだまするだけ。
周囲には、誰もいない。
自分1人だけ、知らない場所にいる恐怖が少年の心に襲いかかってくる。
「うっ、ううっ」
すぐさま少年の不安は限界に、目から大きな涙になってこぼれおちる。
「ううっ、おがーざーん」
声が声になっていないが、それでも母を求め、少年はなくことをやめられない。
「まあ、気が付きましたか?」
と、少年が不安に耐えられなくなっていたところに、声がした。
少年が振り向くと、そこには1人の女性が立っていた。少年が期待する、母親の姿ではなかった。
だが、少年にはそれよりも、その女性から目を離すことができなくなってしまった。
銀色の流星の尾を束ねたかのような、銀色の長い髪の女性。どこか不思議な雰囲気を漂わせ、付きを思わせる美麗な顔だち。髪と同じ色をした瞳が、不安に駆られる少年を見つめていた。
「よかった、もう体は大丈夫みたいですね」
―――キュッ
安堵する女性。その女性の服を、少年は両手で力いっぱいつかんだ。
「大丈夫ですよ。私はどこにも行きませんから」
「本当?」
人がいてくれた喜び。そして、再びいなくなってしまうのではという不安が、少年にこのような行動を取らせる。
「大丈夫ですよ。それよりも、お腹すきません?
よかったら、これを食べてくださいね」
そういって、女性は両手に抱えている果物を少年に差し出した。
「いらない」
「そうですか……」
「お水!」
「はいはい、水筒のお水ですよ」
少年の要求に、女性は笑顔で答えてくれた。
女性が差し出した水筒を、少年はすぐさま奪い取るようにして取る。そして、急いで水を飲みだした。
喉が渇いていた。
ひどく、乾いて苦しい。
「落ち着いてください。あんまり急に飲むと」
「ゴホゴホっ」
「……言うのが遅かったみたいですね」
あまりに慌てて、水を飲もうとするものだから、それに体が追い付けずにむせかえる。
しかし、再び少年は水を飲み、そして女性が手にしていた果物も、おお慌てて、食べ始めた。
その間、女性はただ穏やかに少年の言うことを聞いている。
「でも、よかったです。三日間も意識が戻らなかったから、さすがに私もダメかと思いました」
「僕、そんなに寝てたの」
「ええ」
女性の言葉に、少年が驚く。例え、少年は朝寝坊をすることがあっても、そんなに寝ていることはない。
そのことを口に出して言うと、女性はクスクスと笑った。
「まあ、では大変な朝寝坊でしたね」
「うん、こんなに朝寝坊をしたのは初めてだ」
「アハハッ」
少年の言い方が面白かったのか、女性はその後しばらく笑い続けた。笑いが止まらなくなって、ついには笑いを止めようと必死になる。
「ひどいなー、そこまで笑うことないじゃない」
「ごめんなさい。クスクス、でも面白い坊やですね」
「坊やじゃないやい。アルフォードって名前がちゃんとあるんだ!」
「そうですか、アルフォード……アルでいいですね。そう呼んだ方が可愛いですし」
「可愛いじゃないやい!」
「はいはい、かっこいいですね、アル」
「うん、そうだろう」
女性の言葉に、少年は気持ちをよくする。
さっきまでの不安はもうどこかに行っていた。なぜか、彼女といると、少年アルフォードの心は、ひどく落ち着くのだ。
まるでお母さんと一緒にいるかのように。
「しかし、アル。驚きましたよ。私が歩いていると、激流に呑まれたあなたの姿が見えたのです」
「ゲキリュウ?」
「川が氾濫したのです」
「ハンラン?」
女性の言葉に、あるが不思議そうに繰り返す。言葉の選択がまずいと思ったらしい。すぐに彼女は、子供にでもわかる言葉で話すことにした。
「川の水がたくさん流れたのです。その水のせいで、町や村がいくつも流されたんです」
「そんなことがあるの?」
「はい……」
アルは、その流れに流されたのですね。
そう、女性は心の中で付け加える。子供に対して言うべき言葉に思えなかったのだ。
そしてあの流れの中から、アルを助け出したのも彼女だ。
「でも、よかったです。アルが無事でいてくれて」
「うん、よく分からなかったけど。僕を助けてくれたんだよね。ありがとう、おばさん」
よくは理解できてないだろうが、それでも自分を助けてくれたのが、彼女であることはアルも分かったらしい。それに、彼が気を失う瞬間に聞こえていたのは、彼女の声だった。
だが、そんなことはどうでもいい。
「オ、オバ、オバなんですって!」
それまで穏やかだった彼女の表情が、急激に剣呑になる。
「だから、ありがとうオバ……ムグッ」
「いいです、それ以上何も言わないで」
「ムグムグッ!」
彼女はアルの口を手で押さえ、無理やりしゃべれなくさせた。
「いいですか、今度から私のことはこう呼んでください。美人のお姉さんって」
「やだ、おばさん、じゃん」
「!」
子供の正直すぎる言葉に、おばさん……ではない、彼女はことばを失った。
「どうしてでしょうね。どうして、子供ってこんなに残酷なのでしょう」
陰の入った様子で、彼女は思わず呟く。
そんな彼女の姿に、さすがにアルも、少しためらいを覚える。
「じゃあ、おばさんと、お姉さんはやめましょう。私のことはラーベラムって呼んでください」
「ラーベラム?それが名前なの」
「はい、私の名前はラーベラムです」
「変な名前」
「!」
再びショックを受ける、女性……ラーベラム。
「ふうっ。子供って、どうしてこんなに可愛いんでしょうね」
「イダダダ、ラーベリャミャ、手をはしぇ」
笑顔になって、しかし表情とは完全に裏腹に、ラーベラムは少年の正直すぎる口をつねった。おかげで、アルの言葉がおかしくなっている。
「本当は、美人の素敵なラーベラムお姉さんって呼んでくれたら、私も嬉しいんですが」
心の願望を素直に表現するラーベラムだったが、しかしアルは白い目をしていた。
「ブーブー、ラーベラム変だぞ」
「まあ、私に向かって、そんなことをいう子はあなたが初めてです!」
「やーい、変なラーベラム」
「ムキー、だから私は美人で……」
「ラーベラムって、本当に変なの」
「……」
変な者扱いされ、ラーベラムはすっかり気落ちしてしまった。
「ああ、命の恩人の私に向かってこんな扱いをするなんて……」
ラーベラムがクヨクヨすると、さすがにこれはやりすぎだとアルも思ったらしい。
「あんまり落ち込むなよ。ラーベラムが変だからって、僕は全然気にしないからな」
アルはそういうが、フォローにならないフォローだ。
「へ、変……」
すっかりいじけてしまう、ラーベラム。
だが、そんな会話をしている時だった、アルはラーベラムの足がおかしいことに気づいた。
「ねぇ、ラーベラム。足が光ってる」
さっきまでの様子はどこへやら、アルは不思議そうにラーベラムの足を指差した。
「ああ、これですね。どうやら私も長くなさそうですね」
「長くない?」
「はい、人間で言う、死ぬってことです」
「死ぬって?まさか、ラーベラムは死んじゃうの!」
突然の死という言葉に、少年が動揺する。
「……はい、せっかくアルに出会えたのですが、どうやら私はもうダメみたいです」
「そんな、死んじゃだめだよ、ラーベラム!」
「すみません。私もアルともっと一緒にいたいんですが、これ以上は持ちそうにないですね」
そう話す間にも、ラーベラムの足が消えていく。彼女の体から淡い光がはじけるたびに、徐々にラーベラムの姿が消えていく。
こんな光景をアルは一度も見たことはない。村で人が死んだときには、みんな眠ったようになって動かない。その光景は見たことがあるが、これはアルの知っている死とは、まるで違う死に方だ。
「いやだよ。ラーベラム死なないで。消えちゃヤダよ」
「……」
少年の言葉に、ラーベラムの顔が物悲しそうになる。
「……では、あなたは私と共に生きてみますか?」
ラーベラムは不思議な様子でたずねる。表に出してはならない感情が、いまにも溢れそうだが、それでも決してあらわにしない感情。
「ラーベラムが生きれるんだったら、僕何でもするよ」
「ですが、私と共に生きるということは、簡単なことでは……」
「そんなことはいいから、ラーベラム生きてよ。死んじゃだめだ」
アルが大粒の涙をボロボロとこぼしながら、必死になってラーベラムを両手でつかむ。今にも消えてしまいそうなラーベラムを、消えないでくれと必死につなぎとめようと、力を振り絞る。
不思議と、少年に力強くつかまれた部分だけ、ラーベラムの姿ははっきりとしている。しかし、それ以外の部分は、淡い光と共に、いまにも消えてしまいそうだ。
(今回で、終わりにするつもりでした。
ですが、まだ脈が残っていたみたいですね)
ラーベラムは、心の中でつぶやいた。
それから彼女は、自らの体の境界が、急速に失われていくのを感じた。
もう、ラーベラムは、ラーベラムとしての意識を持たない。
急速に体の境界を失っていく彼女は、消え去った。