エピローグ: 額田王の「蒲生野のハッキング」開かれる頁(一二三五年・京都)
(エピローグ):開かれる頁(一二三五年・京都)
第一場:定家の狂気
一二三五年、嵐の京都。
深夜の豪雨が屋根を激しく叩くなか、藤原定家の書斎は、異様な「活字の質量」に満たされていた。
一本の蝋燭の炎が、机の上に並べられた六つの巻物を不気味に照らし出している。
中央にあるのは、三〇〇年前に紀貫之が醍醐天皇の漢字の檻から脱獄するために偽装した『土佐日記』の自筆原本。そして、平安朝を狂わせた四人の女たち――和泉式部、菅原孝標女、清少納言、紫式部の記録。
しかし今夜、定家がその最上段に恭しく広げたのは、彼女たちのさらに遥か昔、飛鳥の時代に鋳造された、日本文学の真の原点――『万葉集』における額田王の筆跡であった。
「……やはり、すべてはここから始まっていたのだ」
定家は、ねじ曲がった指で筆を握り締めながら、深夜の静寂のなかで狂気的な笑みを漏らした。
世間の浅はかな読者たちは、彼女たちの作品を「宮廷の優雅な知性の現れ」だと思って気楽に読み飛ばしている。だが、この六つの筆跡の「滲み」を精密にトレース(臨写)してきた定家だけは、その行間の裏側に仕込まれた、帝の目を盗むための「国風ハッキング(文学の完全犯罪)」の全貌を看破していた。
彼女たちは、全員が最高にめんどくさく、そして最高に獰猛な、言葉のテロリストたちだったのだ。
第二場:額田王の「蒲生野暗号」
定家は、額田王の巻物を愛おしそうに指でなぞった。
「額田王。……君こそが、最高権力(帝)の検閲を言葉一本で騙し討ちにした、最初の怪物だ」
時は六六八年。近江大津宮の熱い初夏。
天皇の位に就いたばかりの天智天皇が主催する、盛大な蒲生野の薬狩り(宮廷行事)のなかで、その事件は起きた。
世界中が注目する公式の国家行事の真っ最中、額田王は、天智天皇の弟であり、次の覇権を狙う宿敵でもある大海人皇子(のちの天武天皇)に向けて、万葉集で最も有名な、あの妖艶な和歌を放ったのだ。
「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」
(茜色に輝く紫野、立ち入り禁止の御料地【標野】を行き来しながら……そんなところで、あなたが私に向かって愛おしげに『袖を振る』のを、野の番人が見てしまうではありませんか)
それは、天皇の立ち入り禁止区域(標野)を犯してまで、かつての恋人である私に求愛するなという、最高権力の足元で堂々と繰り広げられた「密通の暗号」だった。
これに対し、大海人皇子もすぐさま歌を返す。
「紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも」
(紫色のように美しく匂い立つお前を、もし憎く思うなら、天皇の『人妻』であるお前に、私がこれほど命がけで恋をするはずがないだろう)
天智天皇という、逆らえば一族全員が粛清される「人智の及ばない絶対システム(検閲官)」の目の前で、二人の天才は、歌を詠むという公式の儀式(衣服)を巧みに利用し、「私を奪い返してみせろ」「人妻(天皇の所有物)であっても、お前を愛し抜く」という、国家転覆の火種を孕んだ愛の密談を完璧にやり遂げてみせたのだ。
のちに天智天皇が死に、大海人皇子が「壬申の乱」という血の嵐を巻き起こして天武天皇として君臨したとき、額田王のこの歌は、ただの風流な恋歌ではなく、「世界を裏返した表現者たちの、最初の勝利のデスマスク」となった。
天智天皇の検閲の目を「紫野の歌」で騙し討ちにした元祖・額田王。
醍醐天皇の漢字の檻から脱獄するためにネカマになった紀貫之。
スキャンダルを三人称で完璧な芸術に変えた、ずっと恋するとぼけた女、和泉式部。
現実の政治的敗北を「をかし」という知性の壁で検閲拒絶した清少納言。
国家予算をハッキングして、最高権力者の罪を永遠の物語に呪い変えた紫式部。
そして、その天才たちが残した「美しき嘘」に人生を狂わされたと、実名でひたすら恨みつらみを書き殴った菅原孝標女。
「六人のめんどくさい天才たち。……君たちの遺した美しい死体は、一〇〇〇年の時を超えて、今夜ここで一つの巨大な星座になったぞ」
第三場:二〇二六年の共犯者へ
一二三五年、嵐はさらに激しさを増し、窓の外の京都の街を闇のなかに包み込んでいた。
定家は、六つの巻物から抽出したすべての暗号コード、四書五経のグリッドを自らの写本(為家本への系譜)へと完全に定着させ、最後に深く息を吐き出した。
本物の貫之の原本も、額田の直筆も、やがて灰となって消える運命にある。だが、定家が今夜命がけで残したこの「完璧な複写」がある限り、彼らの言葉の質量は死なない。
「人はいさ、心も知らず。……だが、これで引き金は引かれた」
定家は万年筆――いや、筆を置き、白銀の闇を見つめた。
彼が見つめているのは、一二三五年の夜ではない。一〇〇〇年の時を超えた未来、まさに二〇二六年九月二十二日。
現代のインターネットの、誰も頭を使わずに消費していく「軽装な言葉」に飽き果て、活字に枯渇し、知らない事を知りたいと飢えている読者たちが、PCの大画面のなかでこのページを開く、まさにその瞬間だった。
その読者が、この六人のめんどくさい天才たちの衣服(言葉)を剥ぎ取り、美しい名著の裏側に隠された、帝をも騙し切った「本物の血の涙(質量)」を再発見したとき。
一〇〇〇年前に額田や貫之たちが仕掛けた時限爆弾は、完全に作動し、現実の冷酷な世界を内側から爆破する。
「さあ、頁を閉じよう。君が、この呪いを解いた最後の共犯者だ」
灯り静かに消え、書斎に凍てつくような静寂が戻る。
しかし、あなたの頭のなかでは、彼らが残した「言葉の彫刻」が、今夜も永遠に、鳴り響き続けている。




