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怖い夢

作者: 古数母守
掲載日:2026/11/06

 夜の街を彷徨っていた。弱々しい街灯を頼りに、黒く滲んだ道を急いでいた。靴底がアスファルトを打つ音だけが、やけに大きく響いていた。背後に何かが迫り来るのを身体全体で感じていた。振り返る勇気は全然なかった。止まったらお終いだという強い確信があった。息が苦しかった。肺が焼けるようだった。疲労が増し、足がだんだんと重くなっていた。けれども止まる訳にはいかなかった。さっきよりも距離を縮められている感じがした。もっと速く走らなければならなかった。焦る気持ちで角を曲がるとそこは商店街だった。どの店もシャッターが降りていた。助けを求めようとしたが、声が出なかった。喉から空気だけが漏れて音にならなかった。その時、背後の足音が止まった。おそるおそる振り返ると誰もいなかった。拍子抜けした瞬間、耳元で誰かの息遣いが聞こえた。情けないほどの悲鳴を上げて、また走り出した。気が付くと階段を駆け上がっていた。ビルの裏手の非常階段をどこまでも駆け上がっていた。日陰のコンクリートが冷たく湿っていた。上へ上へと昇って行けば助かるような気がしていた。やがて屋上に出た。冷たい風が吹きつけて来た。辺りはすっかり暗くなっていた。フェンスに囲まれた狭い屋上だった。眼下に街の灯りが見えた。背後で何かが軋む音がした。ゆっくり振り返った。それは、人の形をしていた。のっぺりとした顔がこちらを向いていた。親しみや情がまったく欠落している顔だった。少しずつ近付いて来た。フェンスに背中が触れた。もう逃げ場はない。

「来るな」

やっと絞り出した声は、びっくりするほど小さかった。そのとき、気づいた。

――あれは、私と同じ身長

――同じ姿勢

――同じ動き

それは首をかしげていた。その時、私も首をかしげていた。心臓が凍りついた。私を追いかけて来たのは私だった。次の瞬間、私はベッドの上で目が覚めた。眩しく柔らかな朝の光がカーテンを膨らませていた。大きく深く息を吸って呼吸を整える。つい今しがたまで続いていた緊張感を整理する。夢だ。それはただの夢だった。呼吸も鼓動も落ち着いている。大丈夫だ。だが起き上がろうとしても、身体が動かなかった。指一本、動かなかった。カーテンの陰に誰か立っている。さっき夢で見たあれだ。それが静かにじっと私の方を見ている。やがてその影が私の方へと一歩を踏み出す。私の胸の奥で大きく鼓動が響く。まだ、終わっていない。そう思った瞬間、私は落下をはじめていた。


 耳を裂くような風の音が続いていた。落ちているという感覚だけがあった。もうどれくらいこの状態が続いているのか、時間の感覚すら麻痺していた。周囲は闇が広がっているだけで何も見えなかった。もしかしたら上には黒い空があり、下には黒い大地があるのかもしれなかった。あるいはもうすぐ地面に激突して死んでしまうのかもしれなかった。死の恐怖に身のすくむ思いがしたが、いつまでも落ちて行くことに不安を感じているのも事実だった。いったい、いつまで落ち続けるのだろうか? 時間の感覚が狂ってしまって、一秒と一分の区別もつかなくなっている気がした。加速度的に落下しているなら、ほんの数秒で地面に到達して、ぐしゃぐしゃに潰れてしまうはずだと思った。だが私をぺしゃんこにしてしまうはずの地面にはいつまで経っても遭遇することはなかった。あるいはほんの数秒がとてつもない時間に感じられるほど、私の感覚はおかしくなっているのかもしれなかった。もしかしたら、もう何時間も落ちているのかもしれなかった。考えていても仕方がないので、時間のことを気にするのはやめた。落ちて行きながら大きく息を吸った。あるいは水中を落下しているのかもしれないと思ったが、ちゃんと空気はあるようだった。時間の経過と共に、ゆっくりと胸が締め付けられている感じがした。恐怖に耐え切れず、思いっきり叫んでみる。だが声がまるで聞こえない。絶叫しているはずの声は風に千切れてしまっているのか、まったく耳に届かない。景色はまったく変わらない。異次元の空間に通じる道のように、そこにはまるで実体がない。同じ色。同じ暗さ。同じ温度。陽の光も草や土の匂いも水のうるおいもすべて拒絶するのっぺりとした空間がひたすら続いていた。本当に落ちているのだろうか? もしかしたら落ちてさえいないのかもしれないという不安に襲われる。暗闇の中で何かつかめないかと手を伸ばすが、何もさわれない。虚しく空をつかむだけ。その瞬間、何かが触れた。温かいもの。それをぎゅっと強く握りしめる。温かさが伝わって来る。それは誰かの手だった。さっきからずっと同じ速度で誰かが私と一緒に落ちていたのだと思った。でも暗くて誰なのかわからない。

「もうすぐだよ」

誰かがそっと囁く。その時、空を切る風の音が止んだ。落ちている感覚も無くなった。固いものの上に立っている。しっかりとした重力の感覚が戻って来た。

「最初からずっとそうだった」

誰かが言った。しっかりと目を開いて周りを見た。机と本棚が目に入る。窓にはカーテンがかかっている。見慣れた自分の部屋だった。カーテンから朝の光が漏れている。あれは夢だったのと思って、胸を撫で下ろす。ベッドから起き上がろうとする。でも、身体が沈んで行く。ベッドの中へとゆっくり確実に沈んで行く。そしてまた私は落ちて行く。天井が遠ざかって行く。さっきと同じように落ちて行く。いつまで続くのか? 今度は終わりがあるのか? いや、終わったと思ったのは錯覚だったのか? それもわからないまま、ひたすら落ちて行く。いや、そうではない。天井から水が落ちて来ていた。


 ぽたり。静まり返った部屋の中。水滴の落ちる微かな音が聞こえる。誰かが蛇口をしっかり閉めなかったのだろう。それでこんな音が聞こえて来るのだ。ぽたり。ぽたり。音は規則正しく時を刻んでいるかのようだ。秒針のように狂いなく正確な間隔を刻んでいる。やがて辺りが湿った冷たい匂いに満ちていることに気付く。雨に打たれるコンクリートから立ち込めて来るような湿った匂い。ここはどこなのだろう? 部屋にいたのではなかったのか? 床に視線を落とす。暗い。色が吸い込まれたように暗い。いや、違う。床一面に水が溜まっている。さっきまで何もなかったはずなのに、足首まで水に浸かっている。水の落ちる音は、いつしか水を注ぐ音に変わっている。ポットやビンからコップに注ぎ込む時の水に変わっている。そして注ぎ込まれた水が床を満たしている。床から下へ、あるいは外へ水の流れはないのだろうか? 水位が次第に上がっている。もう膝のあたりまで水に浸かっている。早く逃げなければと思ってドアを探すが見当たらない。水は溜まる一方で出口はない。窓から逃げようと思ったが窓が開かない。机の上にあったコップを投げつけてみる。窓ガラスはびくともしない。コップは砕けて床に落ち、水の中に吸い込まれる。部屋は完全に塞がれている。巨大な四角のコップに水が注がれ、そしてそのコップの底に私が立っている感じがした。水はもう腰のあたりまで来た。たっぷりと水分を吸い込んだズボンが肌にまとわりついて不快な気分になる。体温もゆるやかに奪われて行く。このまま水位が増していけば確実に溺れてしまうという恐怖が襲い掛かって来る。水の音がだんだん激しくなって来る。逆に水の音以外は何も聞こえない。外の世界からすっかり隔離されてしまっている。世界からこの部屋だけが取り残されてしまっている感じがする。水面が次第に近付いている。それは鏡のように滑らかに天井の光を映している。さっきまで黒かった天井は眩しいまでに白くなっていた。いや、それは天井ではない。突き抜けた空間になっている。その向こう側に何か見える。そこに部屋がある。そこに誰かがいる。その誰かが私の方をじっと見ている。水の流れ来る向こう側から誰かが私を見ている。もう胸まで水が来ている。手足の間隔が次第に薄れて行く。感覚がすっかり麻痺しているようで冷たさは感じられない。口元まで水が来た。水の中に沈んで行く。苦しい。向こうの誰かが水に沈んで行く私を見て、微笑んでいる。あれは私だ。なんて冷酷非道なやつだ。

「やっと私の番が来た」

向こうにいる私がつぶやく。その瞬間、足首をつかまれ、私は水中深くに引きずり込まれる。水棲動物が獲物を引きずり込むように、無力な私は水の中を引きずり回される。水面で光が揺れている。その光が次第に遠ざかって行く。息が吸えない。苦しい。でもどこかでほっとしている。もうあくせくすることはない。すべてを手放してしまえばいい。水の中で私は安堵している。やがて意識が遠ざかって行く。

 目を開けると、いつもの天井が見えた。窓から明るい光が射し込んでいた。気温は低く、空気はすっかり乾燥していた。水はなかった。滴る水音もなく、口元まで来ていた圧倒的な量の水もすっかり消えていた。あれは夢だったのか? 大きく息を吸って、肺に酸素を取り込む。溺れかけて助かった者がそうするように肺に新鮮な空気を送り込む。すっかり安心している私はあることに気付く。ぽたり。床の一点がわずかに濡れている。天井を見上げるとあいつがいた。いや、気のせいだった。でもいつもと何かが違っているような気がした。


 その日は徹頭徹尾いつもと違っていた。目覚めた時から異質な雰囲気が漂っていた。部屋も備品も昨日とまったく変わっていない。どんよりした冴えない天気だったが、それだけで何かが大きく変わる訳ではない。でも何かが違っていた。目の前にあるすべてが紙と段ボールで作られた舞台装置のようにのっぺりとした作り物のようだった。その時、チャイムが鳴った。玄関の扉を開けて外に出ると、紺色の制服を着た男が二人立っていた。胸には見たことのない徽章が光っていた。

「あなたを連行します」

男の一人が上目遣いに私を見ながら唐突に言った。

「何を言っているのですか? 意味がわかりません」

困惑している私にもう一人の男が書類を差し出した。私を連れて行くことを許可した書類のようだった。納得できない文字が並んでいた。文字の羅列が無慈悲に私を告発していた。人格をまったく持たない悪意がその書類に満ちていた。

「身に覚えのないことです」

私は必死に抵抗したが、男たちは拒否することを許さない断固とした目で私を見据えていた。

「間違いが起きることはありません」

事務的に男は言った。そして私は連れて行かれることになった。

 通りはスーツに身を固めたビジネスマンが行き交っていた。誰もこちらを見ようとしなかった。目が合いそうになると、わざと視線をずらしているように感じられた。連れて行かれたのは、廃校のような古びた建物だった。出入りする人は一人もいなかった。足を踏み入れると床板が軋む音がした。古びてはいるが清掃の行き届いた廊下をどこまでも進んで行った。三人分の足音が響いていた。やがて男たちは表札も何もない部屋の前で止まった。扉を開き、中に入った。部屋の向こう側、窓の下に長机があり、三人の男が座っていた。その手前に裁判所にある被告人席のような場所があり、そこに立たされた。

「あなたは重大な違反を犯しました」

中央に座っている男が、眼鏡を光らせながら事務的に言った。

「私が何をしたというのですか?」

私は反論を試みたが、誰も私の発言に注意を払っていなかった。よくあることだという感じで聞き流しているような気がした。中央の男は、分厚い本に目を通し、時折深くうなづいていた。隣の男にひそひそ話を仕掛け、しばらくするとその通りですなという感じでニコニコしていた。

「いい加減に罪を認めたらどうですか?」

隣の男は目の前に座っている男たちに頭が上がらないようだった。それで私にへりくだるように促しているようだった。一体全体、何が私の犯した罪なのか、私は考え始めていた。それが彼らの狙いなのかもしれない。何もないのに、何かあるように思わせ、人々を陥れる。そんな見え透いた罠に嵌められたりはしないと思っていても、一人の味方もいないという状況が、段々と私を不安にさせて行った。

「沈黙はあなたを有利にはしません」

向かいの左に座っている男が言った。私はずっと考え込んでいた。一度も嘘をついたことがない。誰かを裏切ったこともない。そう言い切れる程、善人ではなかった。卑しい妄想や欲望をひそかに抱いていたこともある。ずっと昔のことだ。もう誰も覚えていないはずだ。でも決して記憶から取り除くことはできなかった。それはその時からずっと心の中に一定の位置を占め、あるいはもっと嫌な形に増幅され、居座り続けている。普通に生活していれば、思い出すことはない。だが何かがきっかけで、心から嫌悪するそうした記憶が蘇り、まるで昨日のことのように私の心を支配する。なんて嫌な人間なのだろう。それはいつまでも私を告発する。

「もう済んだことじゃないか?」

大声を張り上げる。その瞬間、私は目を覚ます。鳥のさえずりが聞こえる。嫌な夢だった。いや、夢を見ていなくても、常に何人かの男たちに見張られている。そんな気がした。でも今は本当に目覚めているのだろうか? さっきからずっと夢から夢へと渡り歩いているような気がする。今度、目覚めても、そこはやはり夢の中かもしれない。


 目覚めた時、世界は静けさに満ちていた。そこには一切の音が消えていた。鳥のさえずりも近くを走る車がアスファルトを踏み鳴らして行く音も、何も聞こえなかった。音が抜かれているのかと思って、手を叩いてみた。力が足りなかったのか鈍い音が聞こえただけだったが、少し安心した。しばらくして外に出た。歩いている人もいないし、車も走っていなかった。信号機だけが規則的に色を変えたり、点滅したりしていた。ひっそりとしていた。人影はどこにも見当たらず、建物や並木道や商品がただ静かにそこにあった。人々はいったいどこへ行ってしまったのだろうか? どうして私一人だけがここにいるのだろうか? 次から次へと疑問が湧いて来たが、答えてくれる者はもちろんいなかった。何の収穫も得られないまま家に戻った。テレビをつけてみたが、そこにはさっき見て来たような街並みが映っているだけだった。番組に人間は映っていなかった。アナウンサーの声が聞きたくて仕方がなかった。たとえ興味の持てないニュースであったとしても、世界のどこかで誰かが何かをしているということが聞きたくて仕方がなかった。どの局を映しても同じだった。私の知らない間に、世界は静かに終わってしまったのかもしれなかった。もう一度、外に出た。コンビニまで歩いた。自動ドアは私の重みを検出して正常に開いた。商品はきれいに陳列されていた。おにぎりやお弁当もあった。賞味期限がすぎた訳ではない。トラックを使ってごく短時間のうちに運び込まれたに違いなかった。その時、お腹が空いていることに気付いた。から揚げ弁当を手に取って、レジに向かった。オンラインで決済は無理そうだった。財布から千円札を一枚抜き出して、レジの横に置いた。いくらでも万引きできそうだったが、誰でもいいから代金を受け取ってほしいと思っていた。それからずっと歩き回った。誰でもいいから話がしたくて、どこかに人間がいないかと思って、探し回った。夜になった。星が瞬いているのが見えた。いままであまり気にしなかったが、星がそこで光っていることに何かありがたさを感じた。星々を無理やりつないで動物や英雄がそこに祀り上げられていると考えた古代の人々の気持ちがなんとなくわかるような気がした。広大な空間と果てしない時間が目の前に広がっていた。涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。そこで目が覚めた。鳥のさえずりが聞こえた。アスファルトを踏みしめて走る車の音にほっとした。世界がそこにあることに感謝せずにはいられなかった。


 私は今、本当に起きているのだろうか? それとも何か怖い夢を見ているのだろうか? それとも現実の世界が怖い夢なのだろうか? 夢から夢へと永遠に続く地獄にいるのだろうか? 夢なら早く醒めてほしい。でも現実が一番おそろしいのかもしれなかった。


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