冷酷と噂の皇帝陛下は、下級妃のわたしだけを溺愛してくださる。ただ一つ——夏祭りの『祭囃子』の下でだけ、他のお妃さまも侍女たちも、みんな作り物めいて見えるのです
冷酷と噂される皇帝陛下は、どういうわけか、下級妃のわたしだけを、溺愛してくださいます。
「ノエル。……こちらへ」
夏の宵、陛下は、いつものように、わたしを、隣へ招かれました。
後宮に上がって、まだ、ひと月。
身寄りも、後ろ盾もない、数合わせの下級妃。
それが、わたしです。
本来なら、上級のお妃さまがたに、見向きもされない立場のはず。
なのに、陛下は。
「今日は、何を、して過ごした」
「はい。……お庭の、白い花が、咲きましたので。少し、眺めておりました」
「そうか」
陛下は、氷のような青灰の瞳を、ほんの少しだけ、やわらげて。
「明日は、わたしと、見よう。……その花を」
「……はい。うれしいです」
冷酷無比と、大陸じゅうに恐れられる、このお方が。
わたしの前でだけは、こんなにも、静かに、甘い。
夢のような、日々でした。
——ただ。
その夢には、一つだけ。
どうしても、拭いきれない、奇妙な、違和感が、ありました。
*
後宮とは、争いの絶えぬ場所だと、聞いておりました。
寵を競い、嫉妬し、時には、毒さえ盛られる。
そういう、恐ろしい場所なのだと。
けれど。
この後宮では。
そういうことが、何ひとつ、起こらないのです。
上級のお妃さまがたは、下級のわたしにも、いつも、にこやかで。
「ごきげんよう、ノエルさま」
「お茶が、はいりましたのよ。ご一緒に、いかが」
侍女たちは、みな、優しく、行き届いていて。
いじめも、意地悪も、陰口の一つも、聞いたことが、ありません。
毒見役が、青ざめることも、ない。
まるで。
——まるで、争いごとの起こしかたを、誰も、知らないみたいに。
はじめは、なんて平和な後宮だろうと、思っていました。
けれど、日を追うごとに。
その平和は、だんだんと、こわいものに、感じられてきたのです。
*
はっきりと、それに気づいたのは。
夏祭りの、宵のことでした。
後宮の中庭に、赤い提灯が、いくつも、灯されて。
どん、どん、と。
太鼓の音が、腹に響く。
ぴい、と。
笛の音が、夜空に、細く、伸びていく。
祭囃子です。
夏の宵を、彩る、賑やかな、囃子の音。
わたしは、その音を聞きながら、ふと、中庭を、見渡しました。
そして。
——あら?
気づいて、しまったのです。
向こうで、扇をかざして笑っている、上級のお妃さま。
その笑い方が、昼間、見たときと。
一分の狂いもなく、同じでした。
同じ角度に、首を傾げて。
同じ言葉を、口にして。
「まあ、ほほほ。今宵も、よい月ですこと」
……たしか、その台詞も。
三日前の宵に、聞いた気が、します。
隣に立つ、侍女の笑顔も。
その隣の、また別の侍女の笑顔も。
みんな、みんな、同じ。
同じ角度の、同じ笑み。
祭囃子の下で、みんなが、まるで。
——誰かに、糸で、動かされている、人形みたいに。
「……っ」
わたしは、思わず、背筋が、冷たくなりました。
どん、どん、と。
太鼓の音が、響きます。
*
「陛下」
その夜、わたしは、たまらず、陛下に、尋ねました。
「あの……こんなことを、申し上げて、ご無礼かも、しれませんが」
「言ってごらん」
「この後宮は……どこか、変では、ありませんか」
陛下の、盃を持つ手が、ほんの一瞬、止まったように、見えました。
「変、とは」
「その……お妃さまがたも、侍女たちも。祭囃子の下でだけ、みんな、同じ笑顔で、同じ言葉を、繰り返して……」
わたしは、膝の上で、指を、握りしめました。
「まるで、作り物めいて、見えるのです」
しばらく、陛下は、黙って、わたしを、見ておられました。
やがて。
「……祭りの夜は」
静かに、そう、仰いました。
「そういうものだ。灯りと、囃子に、酔って。人は、みな、同じ顔に、見える」
「……そう、でしょうか」
「気に、するな」
陛下は、わたしの頬に、そっと、手を添えました。
その手は、いつものように、優しくて。
けれど。
その瞳の奥が、ほんの少し、揺れたのを。
わたしは、たしかに、見て、しまったのです。
*
眠れない夜でした。
祭囃子は、まだ、遠くで、鳴っています。
どん、どん、と。
ぴい、と。
わたしは、そっと、寝所を、抜け出しました。
確かめたかったのです。
この、胸の底に、わだかまる、こわさの、正体を。
赤い提灯の灯りを、避けながら。
わたしは、後宮の奥へ、奥へと、歩いていきました。
やがて、たどり着いたのは。
ふだんは、決して、立ち入らない、奥宮の、一室。
その扉が、わずかに、開いていました。
中を、覗いて。
わたしは、息を、呑みました。
そこには。
大きな帳面が、幾冊も、積まれていたのです。
一冊を、そっと、手に取って、開いてみると。
——それは。
まるで、芝居の、配役表のようでした。
「第三妃・アデル……役。台詞、別紙のとおり」
「侍女・マリ……役。ノエルさまには、常に、笑顔で対応のこと」
「宦官・ゴート……役。祭囃子の刻には、東の回廊を、三度、往復」
役。
役。
役。
ずらりと、並んだ、その文字。
わたしの、膝が、震えました。
——この後宮に、いる人たちは。
まさか。
「……ノエル」
背後から、静かな声が、しました。
振り返ると。
そこに、陛下が、立っておられました。
*
「見て、しまったか」
陛下は、静かに、そう、仰いました。
叱る様子も、慌てる様子も、ありません。
ただ、ひどく、静かな、お顔で。
「陛下……これは。……この、帳面は」
「そなたの、思っている、とおりだ」
陛下は、ゆっくりと、わたしのほうへ、歩いてきました。
「この後宮に、いる者は。……妃も、侍女も、宦官も。みな、わたしが、選んで、置いた者だ」
「置いた……?」
「台本を、与えて、な」
どん、と。
遠くで、太鼓が、鳴りました。
「本物の、人間は」
陛下は、わたしの前で、足を、止めました。
「この後宮に、ただ一人。……そなただけだ、ノエル」
わたしは、言葉を、失いました。
あの、優しかったお妃さまも。
行き届いた、侍女たちも。
みんな、みんな。
陛下が、配した、役者だった。
「どうして……どうして、そんなことを」
わたしの声は、震えていました。
すると。
陛下の、氷のような瞳が。
はじめて、痛みに、歪んだのです。
「……わたしの、母は」
絞り出すように、陛下は、言いました。
「わたしが、幼い頃。後宮で、毒を、盛られて、死んだ」
「……っ」
「後宮とは、な、ノエル。人が、人を、殺す場所だ。嫉妬で。陰謀で。ほんの、些細な、寵の差で」
陛下の、拳が、握りしめられました。
「わたしは、決めた。……もし、生涯にただ一人、心から愛せる者が、現れたなら」
その瞳が、まっすぐに、わたしを、射抜きました。
「その者だけは、二度と。……この場所の、毒に、触れさせは、しない、と」
*
「だから、わたしは」
陛下は、囁くように、続けました。
「この後宮を、まるごと、作り替えた」
嫉妬する妃も、いない。
陰口を叩く侍女も、いない。
毒を盛る者も、いない。
なぜなら、そのすべてが。
わたしを、傷つけないように、書かれた、台本の上の、役者だから。
「そなたの、世界には」
陛下は、そっと、わたしを、抱き寄せました。
「危険なものは、一つも、要らない。……本物は、そなただけで、いい」
わたしは、陛下の胸の中で。
こわさと。
それから。
——途方もない、何かに、包まれるような、感覚に、震えていました。
このお方は。
わたし、ひとりを、守るために。
後宮という、一つの、世界そのものを。
まるごと、作り変えて、しまった。
「……こわい、か」
陛下が、静かに、尋ねました。
「わたしを、こわいと、思うか。ノエル」
わたしは、しばらく、答えられませんでした。
こわくない、と言えば。
それは、嘘に、なります。
けれど。
*
「……陛下」
わたしは、顔を、上げました。
「わたし、ずっと、不思議だったんです」
「なに、を」
「身寄りもない、下級のわたしを。どうして、こんなにも、大切に、してくださるのか」
わたしは、陛下の、頬に、手を、添えました。
「ずっと、こわかった。この、平和の、意味が、わからなくて」
どん、どん、と。
祭囃子が、遠くで、鳴っています。
「でも、今、わかりました」
わたしは、微笑みました。
「陛下は、わたしを。……こわいくらいに、大切に、してくださっていたんですね」
陛下の、瞳が、大きく、見開かれました。
「怒らない、のか」
「怒る?」
わたしは、首を、振りました。
「だって。……この後宮の、だれよりも」
涙が、こぼれました。
けれど、それは、こわさの涙では、ありませんでした。
「陛下だけが、本物で。陛下だけが、わたしを、本気で、愛してくださっている」
「ノエル……」
「それが、わかったんです。……もう、こわくなんて、ありません」
陛下は、わたしを、痛いほど、強く、抱きしめました。
「……離さない」
耳元で、震える声が、しました。
「そなただけは、生涯、わたしが、守る。……この世の、どんな毒からも」
「はい」
「そなたの、世界を。……わたしが、ぜんぶ、安全に、してみせる」
「はい。……うれしい、です」
どん、どん、と。
祭囃子が、鳴っています。
その拍子に、合わせて。
きっと、今も、この後宮のどこかで、役者たちが。
わたしを、傷つけないための、優しい芝居を、続けているのでしょう。
*
それから、幾度、夏祭りが、めぐったでしょう。
わたしは、今も、この後宮で。
冷酷と噂される、皇帝陛下の、たった一人のお妃として。
しあわせに、暮らしています。
上級のお妃さまがたは、今日も、にこやかで。
侍女たちは、今日も、行き届いていて。
この後宮では、あいかわらず。
いじめも、毒も、争いも、何ひとつ、起こりません。
だって。
そのすべてが。
わたし、ひとりを、守るために、そこに、在るのですから。
夏祭りの、宵。
赤い提灯の下で、陛下は、わたしを、後ろから、そっと、抱きしめて、囁かれます。
「祭囃子だ、ノエル」
「はい」
どん、どん、と。太鼓が。
ぴい、と。笛が。
「この音が、聞こえるあいだは。……そなたの世界は、ずっと、安全だ」
「……ええ」
わたしは、うっとりと、目を閉じます。
このお方が、どれほど深く、途方もなく、わたしを愛して、この後宮に、何をしたのか。
——それでも。
いいえ。
だからこそ。
わたしは、このお方を、世界のだれよりも、深く、愛しているのです。
どん、どん、と。
今宵も、祭囃子が、鳴っています。
わたし、ひとりのための、世界一やさしい、箱庭の中で。
蜜月 憂です。今作は「後宮×祭囃子」。争いの絶えぬはずの後宮で、なぜ何ひとつ悪意が起こらないのか——その理由は、皇帝がたった一人の妃を守るために、後宮そのものを役者ばかりの安全な箱庭に作り替えていたから。本物の人間は、彼女ひとり。夏祭りの太鼓と笛の下で綻ぶ作り物めいた世界の違和感を、どうか味わってください。ヒロインは最後まで傷つかず、世界一やさしい箱庭の中で愛されて幸せです。ゾクッときゅんを、どうぞ。




