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冷酷と噂の皇帝陛下は、下級妃のわたしだけを溺愛してくださる。ただ一つ——夏祭りの『祭囃子』の下でだけ、他のお妃さまも侍女たちも、みんな作り物めいて見えるのです

作者: 蜜月 憂
掲載日:2026/07/18


冷酷と噂される皇帝陛下は、どういうわけか、下級妃のわたしだけを、溺愛してくださいます。


「ノエル。……こちらへ」


夏の宵、陛下は、いつものように、わたしを、隣へ招かれました。


後宮に上がって、まだ、ひと月。


身寄りも、後ろ盾もない、数合わせの下級妃。


それが、わたしです。


本来なら、上級のお妃さまがたに、見向きもされない立場のはず。


なのに、陛下は。


「今日は、何を、して過ごした」


「はい。……お庭の、白い花が、咲きましたので。少し、眺めておりました」


「そうか」


陛下は、氷のような青灰の瞳を、ほんの少しだけ、やわらげて。


「明日は、わたしと、見よう。……その花を」


「……はい。うれしいです」


冷酷無比と、大陸じゅうに恐れられる、このお方が。


わたしの前でだけは、こんなにも、静かに、甘い。


夢のような、日々でした。


——ただ。


その夢には、一つだけ。


どうしても、拭いきれない、奇妙な、違和感が、ありました。



後宮とは、争いの絶えぬ場所だと、聞いておりました。


寵を競い、嫉妬し、時には、毒さえ盛られる。


そういう、恐ろしい場所なのだと。


けれど。


この後宮では。


そういうことが、何ひとつ、起こらないのです。


上級のお妃さまがたは、下級のわたしにも、いつも、にこやかで。


「ごきげんよう、ノエルさま」


「お茶が、はいりましたのよ。ご一緒に、いかが」


侍女たちは、みな、優しく、行き届いていて。


いじめも、意地悪も、陰口の一つも、聞いたことが、ありません。


毒見役が、青ざめることも、ない。


まるで。


——まるで、争いごとの起こしかたを、誰も、知らないみたいに。


はじめは、なんて平和な後宮だろうと、思っていました。


けれど、日を追うごとに。


その平和は、だんだんと、こわいものに、感じられてきたのです。



はっきりと、それに気づいたのは。


夏祭りの、宵のことでした。


後宮の中庭に、赤い提灯が、いくつも、灯されて。


どん、どん、と。


太鼓の音が、腹に響く。


ぴい、と。


笛の音が、夜空に、細く、伸びていく。


祭囃子です。


夏の宵を、彩る、賑やかな、囃子の音。


わたしは、その音を聞きながら、ふと、中庭を、見渡しました。


そして。


——あら?


気づいて、しまったのです。


向こうで、扇をかざして笑っている、上級のお妃さま。


その笑い方が、昼間、見たときと。


一分の狂いもなく、同じでした。


同じ角度に、首を傾げて。


同じ言葉を、口にして。


「まあ、ほほほ。今宵も、よい月ですこと」


……たしか、その台詞も。


三日前の宵に、聞いた気が、します。


隣に立つ、侍女の笑顔も。


その隣の、また別の侍女の笑顔も。


みんな、みんな、同じ。


同じ角度の、同じ笑み。


祭囃子の下で、みんなが、まるで。


——誰かに、糸で、動かされている、人形みたいに。


「……っ」


わたしは、思わず、背筋が、冷たくなりました。


どん、どん、と。


太鼓の音が、響きます。



「陛下」


その夜、わたしは、たまらず、陛下に、尋ねました。


「あの……こんなことを、申し上げて、ご無礼かも、しれませんが」


「言ってごらん」


「この後宮は……どこか、変では、ありませんか」


陛下の、盃を持つ手が、ほんの一瞬、止まったように、見えました。


「変、とは」


「その……お妃さまがたも、侍女たちも。祭囃子の下でだけ、みんな、同じ笑顔で、同じ言葉を、繰り返して……」


わたしは、膝の上で、指を、握りしめました。


「まるで、作り物めいて、見えるのです」


しばらく、陛下は、黙って、わたしを、見ておられました。


やがて。


「……祭りの夜は」


静かに、そう、仰いました。


「そういうものだ。灯りと、囃子に、酔って。人は、みな、同じ顔に、見える」


「……そう、でしょうか」


「気に、するな」


陛下は、わたしの頬に、そっと、手を添えました。


その手は、いつものように、優しくて。


けれど。


その瞳の奥が、ほんの少し、揺れたのを。


わたしは、たしかに、見て、しまったのです。



眠れない夜でした。


祭囃子は、まだ、遠くで、鳴っています。


どん、どん、と。


ぴい、と。


わたしは、そっと、寝所を、抜け出しました。


確かめたかったのです。


この、胸の底に、わだかまる、こわさの、正体を。


赤い提灯の灯りを、避けながら。


わたしは、後宮の奥へ、奥へと、歩いていきました。


やがて、たどり着いたのは。


ふだんは、決して、立ち入らない、奥宮の、一室。


その扉が、わずかに、開いていました。


中を、覗いて。


わたしは、息を、呑みました。


そこには。


大きな帳面が、幾冊も、積まれていたのです。


一冊を、そっと、手に取って、開いてみると。


——それは。


まるで、芝居の、配役表のようでした。


「第三妃・アデル……役。台詞、別紙のとおり」


「侍女・マリ……役。ノエルさまには、常に、笑顔で対応のこと」


「宦官・ゴート……役。祭囃子の刻には、東の回廊を、三度、往復」


役。


役。


役。


ずらりと、並んだ、その文字。


わたしの、膝が、震えました。


——この後宮に、いる人たちは。


まさか。


「……ノエル」


背後から、静かな声が、しました。


振り返ると。


そこに、陛下が、立っておられました。



「見て、しまったか」


陛下は、静かに、そう、仰いました。


叱る様子も、慌てる様子も、ありません。


ただ、ひどく、静かな、お顔で。


「陛下……これは。……この、帳面は」


「そなたの、思っている、とおりだ」


陛下は、ゆっくりと、わたしのほうへ、歩いてきました。


「この後宮に、いる者は。……妃も、侍女も、宦官も。みな、わたしが、選んで、置いた者だ」


「置いた……?」


「台本を、与えて、な」


どん、と。


遠くで、太鼓が、鳴りました。


「本物の、人間は」


陛下は、わたしの前で、足を、止めました。


「この後宮に、ただ一人。……そなただけだ、ノエル」


わたしは、言葉を、失いました。


あの、優しかったお妃さまも。


行き届いた、侍女たちも。


みんな、みんな。


陛下が、配した、役者だった。


「どうして……どうして、そんなことを」


わたしの声は、震えていました。


すると。


陛下の、氷のような瞳が。


はじめて、痛みに、歪んだのです。


「……わたしの、母は」


絞り出すように、陛下は、言いました。


「わたしが、幼い頃。後宮で、毒を、盛られて、死んだ」


「……っ」


「後宮とは、な、ノエル。人が、人を、殺す場所だ。嫉妬で。陰謀で。ほんの、些細な、寵の差で」


陛下の、拳が、握りしめられました。


「わたしは、決めた。……もし、生涯にただ一人、心から愛せる者が、現れたなら」


その瞳が、まっすぐに、わたしを、射抜きました。


「その者だけは、二度と。……この場所の、毒に、触れさせは、しない、と」



「だから、わたしは」


陛下は、囁くように、続けました。


「この後宮を、まるごと、作り替えた」


嫉妬する妃も、いない。


陰口を叩く侍女も、いない。


毒を盛る者も、いない。


なぜなら、そのすべてが。


わたしを、傷つけないように、書かれた、台本の上の、役者だから。


「そなたの、世界には」


陛下は、そっと、わたしを、抱き寄せました。


「危険なものは、一つも、要らない。……本物は、そなただけで、いい」


わたしは、陛下の胸の中で。


こわさと。


それから。


——途方もない、何かに、包まれるような、感覚に、震えていました。


このお方は。


わたし、ひとりを、守るために。


後宮という、一つの、世界そのものを。


まるごと、作り変えて、しまった。


「……こわい、か」


陛下が、静かに、尋ねました。


「わたしを、こわいと、思うか。ノエル」


わたしは、しばらく、答えられませんでした。


こわくない、と言えば。


それは、嘘に、なります。


けれど。



「……陛下」


わたしは、顔を、上げました。


「わたし、ずっと、不思議だったんです」


「なに、を」


「身寄りもない、下級のわたしを。どうして、こんなにも、大切に、してくださるのか」


わたしは、陛下の、頬に、手を、添えました。


「ずっと、こわかった。この、平和の、意味が、わからなくて」


どん、どん、と。


祭囃子が、遠くで、鳴っています。


「でも、今、わかりました」


わたしは、微笑みました。


「陛下は、わたしを。……こわいくらいに、大切に、してくださっていたんですね」


陛下の、瞳が、大きく、見開かれました。


「怒らない、のか」


「怒る?」


わたしは、首を、振りました。


「だって。……この後宮の、だれよりも」


涙が、こぼれました。


けれど、それは、こわさの涙では、ありませんでした。


「陛下だけが、本物で。陛下だけが、わたしを、本気で、愛してくださっている」


「ノエル……」


「それが、わかったんです。……もう、こわくなんて、ありません」


陛下は、わたしを、痛いほど、強く、抱きしめました。


「……離さない」


耳元で、震える声が、しました。


「そなただけは、生涯、わたしが、守る。……この世の、どんな毒からも」


「はい」


「そなたの、世界を。……わたしが、ぜんぶ、安全に、してみせる」


「はい。……うれしい、です」


どん、どん、と。


祭囃子が、鳴っています。


その拍子に、合わせて。


きっと、今も、この後宮のどこかで、役者たちが。


わたしを、傷つけないための、優しい芝居を、続けているのでしょう。



それから、幾度、夏祭りが、めぐったでしょう。


わたしは、今も、この後宮で。


冷酷と噂される、皇帝陛下の、たった一人のお妃として。


しあわせに、暮らしています。


上級のお妃さまがたは、今日も、にこやかで。


侍女たちは、今日も、行き届いていて。


この後宮では、あいかわらず。


いじめも、毒も、争いも、何ひとつ、起こりません。


だって。


そのすべてが。


わたし、ひとりを、守るために、そこに、在るのですから。


夏祭りの、宵。


赤い提灯の下で、陛下は、わたしを、後ろから、そっと、抱きしめて、囁かれます。


「祭囃子だ、ノエル」


「はい」


どん、どん、と。太鼓が。


ぴい、と。笛が。


「この音が、聞こえるあいだは。……そなたの世界は、ずっと、安全だ」


「……ええ」


わたしは、うっとりと、目を閉じます。


このお方が、どれほど深く、途方もなく、わたしを愛して、この後宮に、何をしたのか。


——それでも。


いいえ。


だからこそ。


わたしは、このお方を、世界のだれよりも、深く、愛しているのです。


どん、どん、と。


今宵も、祭囃子が、鳴っています。


わたし、ひとりのための、世界一やさしい、箱庭の中で。

蜜月 憂です。今作は「後宮×祭囃子」。争いの絶えぬはずの後宮で、なぜ何ひとつ悪意が起こらないのか——その理由は、皇帝がたった一人の妃を守るために、後宮そのものを役者ばかりの安全な箱庭に作り替えていたから。本物の人間は、彼女ひとり。夏祭りの太鼓と笛の下で綻ぶ作り物めいた世界の違和感を、どうか味わってください。ヒロインは最後まで傷つかず、世界一やさしい箱庭の中で愛されて幸せです。ゾクッときゅんを、どうぞ。


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