最後の便箋
大切な人に、素直な言葉を伝えられる時間は、思っているほど長くありません。
これは、言えなかった「ありがとう」と、届かなかった「ごめんね」が、最後に心をつなぐ物語です。
母が死んでから、もう三か月が過ぎていた。
六月の雨は細く長く降り続き、窓ガラスを静かに叩いていた。
白石結衣は、薄暗い母の部屋の真ん中で膝を抱えたまま、動けずにいた。
部屋にはまだ母の匂いが残っている。
柔軟剤の匂い。
ハンドクリームの甘い香り。
少し古くなった本の匂い。
その全部が胸を締めつけた。
「片づけ、今日で終わらせよう」
背後から父の声がした。
結衣は返事をしなかった。
返事をすると、本当に終わってしまう気がしたからだ。
父はそれ以上何も言わず、廊下へ戻っていった。
母の部屋は小さかった。
本棚と机、それにベッドだけの質素な部屋。けれど、母はいつも「ここが一番落ち着くの」と笑っていた。
結衣は重たい息を吐きながら、机の引き出しを開けた。
古い通帳。
輪ゴムで束ねられたレシート。
薬袋。
その奥に、一通の便箋が入っていた。
白い封筒。
表には、少し震えた字でこう書かれている。
『結衣へ』
その文字を見た瞬間、喉が詰まった。
結衣はゆっくり封筒を開いた。
便箋は一枚だけだった。
『結衣へ
もしこの手紙を読んでいるなら、私はもうあなたのそばにいないのでしょう。
まず最初に、ごめんね。
私は、あなたにちゃんと向き合えなかった。
本当は毎日苦しかった。
病気が怖かった。
死ぬのが怖かった。
でも一番怖かったのは、あなたを残していくことでした』
文字が滲んで見えた。
結衣は慌てて目元を拭った。
泣くつもりなんてなかった。
母が病気になってからの二年間、結衣はずっと素直になれなかった。
「どうせまた入院なんでしょ」
「体調悪いなら寝てれば?」
「私、今忙しいから」
そんな言葉ばかり投げていた。
本当は怖かったのだ。
母がいなくなることが。
けれど、それを認めるのが嫌で、結衣は冷たい態度を続けた。
最後の日ですら。
『結衣、ちょっと話せる?』
病室で母がそう言った時も、結衣はスマホから顔を上げなかった。
『また今度でいい』
そう言ってしまった。
その三日後、母は亡くなった。
最後の会話だった。
結衣は便箋を握りしめた。
『結衣。
あなたは昔から優しい子でした。
小さい頃、公園で転んだ男の子に絆創膏をあげていたよね。
私が熱を出した時、一生懸命おかゆを作ろうとしてくれたよね。
味はびっくりするくらい薄かったけど、お母さん、本当に嬉しかった』
涙が頬を伝った。
そんなこと、覚えていなかった。
『でも、中学生になった頃から、あなたは少しずつ笑わなくなった。
私は気づいていたのに、ちゃんと抱きしめてあげられなかった。
仕事ばかりして、ごめんね。
お父さんとうまくいかなくて、あなたにたくさん我慢させて、ごめんね』
結衣は唇を噛んだ。
違う。
悪かったのは自分だ。
母はいつだって頑張っていた。
体調が悪くても朝ごはんを作ってくれた。
夜遅くまで働いていた。
自分の薬より、結衣の参考書を優先して買っていた。
なのに結衣は、そんな母に甘え続けていた。
部屋の外で食器の音がした。
父が夕飯を作っているのだろう。
母がいなくなってから、父は急に静かになった。
もともと無口だったけれど、今は必要最低限しか話さない。
きっと父も壊れそうなのだ。
だけど、結衣には父を支える余裕なんてなかった。
『結衣。
もしあなたが、自分を嫌いになっているなら、それだけはやめてください。
あなたはちゃんと優しい子です。
ちゃんと、人を愛せる子です。
お母さんは知っています』
結衣は顔を覆った。
視界がぼやける。
呼吸が苦しい。
「……っ、う……」
声が漏れた。
ずっと我慢していた感情が、崩れるみたいに溢れていく。
「ごめん……お母さん……」
部屋の中で、小さな嗚咽が響いた。
「ごめんなさい……」
謝りたかった。
もっと話したかった。
もっと優しくしたかった。
もっと、一緒にいたかった。
けれど、もう遅い。
どれだけ願っても、母は戻らない。
結衣は便箋を胸に押し当てた。
すると、足音が近づいてきた。
父だった。
父は泣いている結衣を見ると、少しだけ困った顔をした。
「……見つけたのか」
結衣は黙って頷いた。
父はゆっくり部屋に入り、窓の外を見た。
「お母さんな、あれ書くのに何日も悩んでた」
「……」
「何回も書き直してたよ。結衣に嫌われたままだったらどうしようって」
結衣は目を見開いた。
「嫌ってなんか……」
言葉が途中で詰まった。
嫌っていなかった。
ただ、怖かった。
母が弱っていく姿を見るのが。
だから逃げていた。
父は静かに笑った。
「お母さん、お前のこと大好きだったからな」
その一言で、また涙が溢れた。
父は何も言わず、結衣の頭をそっと撫でた。
子どもの頃みたいに。
結衣はその手の温かさに、余計泣けてしまった。
夜になっても雨は止まなかった。
食卓には父が作ったカレーが並んでいた。
少し焦げていた。
母なら笑っていただろう。
『また焦がしてる』
そう言いながら。
結衣はスプーンを握った。
「……いただきます」
父も小さく呟いた。
「いただきます」
二人きりの食卓は静かだった。
でも、不思議と前より苦しくなかった。
食後、結衣は自分の部屋へ戻った。
机に便箋を置き、何度も読み返した。
母の字は弱々しいのに、どこか温かかった。
スマホを見ると、親友の奈央からメッセージが届いていた。
『大丈夫?』
結衣は少し考えてから返信した。
『今、ちょっと泣いてる』
すぐに返事が来る。
『ちゃんと泣けて偉い』
その言葉に、思わず笑ってしまった。
涙でぐしゃぐしゃなのに。
結衣はスマホを置き、窓を開けた。
雨の匂いが部屋に入ってくる。
冷たい風が頬を撫でた。
遠くで電車の音が聞こえる。
世界は変わらず続いていた。
母がいなくても、朝は来る。
学校もある。
季節も巡る。
そんな当たり前が、少し寂しかった。
でも。
結衣は便箋を見つめた。
母の想いは、ちゃんとここに残っている。
消えたりしない。
結衣は机の引き出しから白い便箋を取り出した。
そしてペンを持つ。
何を書けばいいかわからなかった。
それでも、ゆっくり文字を書く。
『お母さんへ』
その五文字を書いただけで、また涙が落ちた。
でも今度は、少しだけ温かい涙だった。
『私は、お母さんにちゃんとありがとうって言えてませんでした。
本当は大好きでした。
ずっと甘えていました。
ごめんなさい。
それから、ありがとう』
文字は途中から滲んでいた。
それでも結衣は書き続けた。
母がもう読めないとしても。
きっと、この気持ちはどこかへ届く気がしたから。
窓の外では、雨が少しずつ弱くなっていた。
長い夜が終わるみたいに。
結衣は便箋を胸に抱き、小さく目を閉じた。
「……おやすみ、お母さん」
返事はない。
それでも、不思議と一人じゃない気がした。
机の上では、最後の便箋が静かに揺れていた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
この物語が、誰かに伝えたい言葉を思い出すきっかけになれば嬉しいです。
会えるうちに、話せるうちに、大切な人へ一言だけでも伝えてみてください。




