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忘却使いの後悔 ―魔術の代償が”記憶”である世界で、それでも俺は守りたかった―

掲載日:2026/04/13

序章 記憶市場

 ギィ、ギィ、ギィ。

 荷車が石畳を引っ搔く音が夜明けの空気を裂く。王都ハルセインの南市場、朝の四つ刻。露店が軒を並べ、魚売りが咽喉を張り、香辛料の匂いが朝靄ごと鼻を刺す。銅貨がぱちん、ぱちんと手から手へ渡り、革袋が縄で縛られ、荷が馬の背から下ろされる。ごく普通の朝だ。

 ただ一箇所だけ、広場にぽっかりと空間が開いていた。

 白髪交じりの行商人が石柱にもたれて座っている。ルーカス、五十八歳。三十年間、同じ場所で魚を売ってきた男だ。両手を差し伸べ、その間に小さな水球を浮かべていた。ぱしゃ、ぱしゃと水面が揺れるたびに青白い光が走る。水の中の魚はぴちぴちと跳ねた。腐らない。どんな暑さの日でも腐らない。

「三十年前、嫁とイルマの港へ行ったときの記憶を使った」

 ルーカスはぽつりと言った。誰に向けているわけでもない。「今はもう思い出せん。海の色が青かったか、緑だったかも。嫁の顔は日記に残してある。でも、一緒に食った魚の味は、もう永遠に消えた」

 通りすがりの老婆が足を止め、小さく頭を下げた。「ご苦労様です」

「あんたに言われるほどのことじゃない。魚が売れればそれでいい」

 少し離れた場所では、記憶屋の老爺ガレン、七十二歳、黒い帽子、手の皺が深い、が屋台の前に座っていた。一日に十件、記憶を買い取る。痛みを切り売りする人間を三十年間見続けてきた男だ。

 その前に、若い女が立っていた。二十代。頬が赤い。手に小さなガラス瓶を持っていた。中で光の粒がゆらゆらと揺れている。

「これを……」女は言いかけて、止まった。

 ガレンは黙って待った。瓶の中身を見ない。客の顔だけを見る。

「息子の最初の誕生日の記憶です。初めて歩いた日の。借金が――」

「味や匂いは戻らない」ガレンは静かに言った。「記録だけは残せ。紙に書け、絵を描け。瓶は売るな」

 女の指が瓶を握り締めた。ぶるり、と震えた。

「だが決めるのはあんただ」

 女は長い間、動かなかった。それからゆっくりと瓶を懐に戻し、背を向けて歩いていった。ガレンはその背中を見送り、細く息を吐いた。

 隣の露店では、中年の男が二本の瓶を並べて悩んでいた。コレット、四十四歳、染め物職人。右の瓶には息子の初陣の記憶、左には亡き父との最後の冬の記憶が入っていた。どちらを売っても片方が永遠に失われる。男は長いこと立ったまま、どちらの瓶も取らなかった。

「思い出は売れる」ルーカスが独り言のように言った。「でも関係は売れない。そこだけがどうしても残る」

 ざわめきが戻る。市場は動き続ける。

 これがこの世界の日常だ。記憶を払って術を使い、日々を生き延びる。その積み重ねが、街を、国を、文明を動かしている。失うことに慣れた世界。失った何かを、誰もが日記という形で抱えて生きている世界。


 ザッ、ザッ、ザッ。

 鍬が土を引っ搔く音が朝靄に沈んでいた。

 村外れの畑。オルフェは膝をついて雑草を抜いていた。泥で黒ずんだ指先。ひびの入った爪。二十五歳の手にしては荒れすぎている。三年前まで王都の石畳を歩いていた手だとは、誰も思わないだろう。

 往診に出る前、彼はいつも小屋の机で手帳を確認する。

 黒革の手帳。中身はびっしりと書き込まれていた。ロッセの腰痛の記録。テオの母の飲み方の癖。ゾエの血圧の季節変動。デルファの古傷の反応。エルミラが寒い日だけ出す膝の痛みの周期。畑仕事で肩を壊したアルト、六十一歳。雨の前になると偏頭痛が出るイーニ、五十三歳。樵のベルナード、四十二歳、が四月に限って悪化する右膝の水。旅籠の女将カシア、四十七歳、が春先から繰り返す不眠の記録。村人二十七名分の、細かい医療メモ。

 ページをめくる。

 オルフェは手を止めた。

 自分の欄だけが、空白だった。

 名前だけが書いてある。オルフェ・ヴァン・テルラン。その下は白紙だ。生年月日も、出身地も、家族も。書けなかった。書けるものがない。

 手帳を閉じる。パタン、という音が小屋の中で響いた。


「オルフェ先生ーっ!」

 赤い頬の叫び声が畦道を転がってくる。テオだ。七歳。村長ハンスの孫で、いつでも走っていて、いつでも何かをこぼす。今朝は麦粥の跡が外套に白くついている。

「母ちゃんがまた腰をやったって! 昨日も薬飲んでたのに!」

「また飲みすぎたんだろう」

「なんで分かるの!?」

「パターンが同じだ」オルフェは立ち上がり、膝の泥を払った。「毎月三のつく日の翌朝に悪化する。三の日は市場の帰りに酒場に寄る日だからな」

 テオはぽかんとして、それからにかっと笑った。「先生って、実はすごく頭いいんじゃないの?」

「実はじゃなくていい」

「実はがないとかっこいいけどちょっと怖い」

「そういうものだ」

 村の中央を抜けると、石造りの井戸の前にいつもの三人組が集まっていた。ゾエ、七十三歳。デルファ、七十一歳。エルミラ、六十八歳。三人が集まると村の情報はすべてここを経由する。

「あら先生」ゾエが細い目をさらに細くした。「また往診かい」

「ロッセさんのところです」

「またあの人か」デルファが肩をすくめた。「先生が来るから甘えるんじゃないのかねえ」

「それができりゃあ先生じゃないよ」ゾエがぴしゃりと言った。「先生は顔を見に行くんだ。一人で暮らしてる人間に誰かが来るってことに、意味があるんだよ」

「そんな立派なものじゃないですよ」

「立派じゃなくていい。続いてれば十分だよ」

 ゾエが細い手を伸ばして、オルフェの腕をぽんと叩いた。やわらかい手だった。「先生、顔色が悪い。また夢を見たかい?」

「別に」

「嘘だ。目が乾いてる。眠れてない目だよ。何かが消えたのに何が消えたか分からなくて、毎朝そこで目が覚める顔。大事なものほど先に抜け落ちる、そういう人の顔だ」

 オルフェは何も言わなかった。

「先生がここに来て三年。笑ったのを、私は一度も見てない」

「笑いますよ」

「テオのあほ面を見てにやっとするのは笑いと違う」

 エルミラがくすくす笑った。デルファが「言い得て妙だ」と言った。

 ロッセの家は石垣沿いにある。原因は案の定だった。追加の薬を置き、食事制限の紙を壁に貼る。

「先生、悪いね」ロッセはぼそぼそと言った。四十代。細い目。いつも申し訳なさそうな顔をしている。

「いいんですよ。また来ます」

「先生って、なんで辺境になんかいるの。腕があるなら都会の方が稼げるでしょ」

「ここに来た経緯は覚えていない。でも来て良かったと思っています」

「覚えてない?」

「記憶を少し、なくしていまして」

 ロッセは「ああ」と短く言って、それ以上聞かなかった。この世界では珍しい話ではない。誰でも、何かしら失っている。

 帰り道、オルフェは村外れの丘に一人で立った。

 空が高い。秋の雲が薄く伸びている。

 右手の甲の傷跡を見た。細い線。三年前の戦闘でできた傷だと、論理的には分かる。でも、どんな状況でどう負ったかは思い出せない。由来のない歴史が、皮膚に刻まれている。

 胸の中心に穴がある。

 形のない空白。毎朝そこで目が覚める。何かを失った場所。失ったものの名前も知らない。輪郭だけが、ひどくはっきりと残っている。

 じわり、と風が体を冷やした。

(何かを、忘れている)

 それだけが、確かなことだった。


 その女騎士が来たのは、薬の在庫を確認していた午後のことだった。

 コン、コン。

 硬い音。金属の部分で叩いた音だ。

「どうぞ」

 扉が開いた。

 背の高い女だった。二十歳前後。赤茶の短い髪。鼻筋が通り、顎のラインが鋭い。軽鎧の隙間から王家の紋章入りの布地が見える。腰の剣は実用品だ。飾りではなく、何度も抜いた跡がある。

 目が、重い。

 長く持ちすぎたもの。憎しみでも、怒りでもない。もっと古いもの。固まりかけた悲しみが、薄い膜の下でまだ動いている。

「オルフェ・ヴァン・テルラン?」

「人違いです」

「嘘をついてもいいですが、私の時間が無駄になるだけです」

 女は部屋に踏み込んだ。棚の薬瓶を一瞥し、壁の分類表に目を止めた。その目が少し変わった。

「王都の魔術師協会でしか教えていない分類体系ですね」

「ご用件を」とオルフェは言った。

「リア・ヴェン・ハルセル。王国騎士団第三隊、隊長代理。あなたに会いに来ました」

 リアは机の前に立ち、何かを取り出した。

 小さな指輪だった。細い銀の輪。石は赤みがかった橙色。ことり、と机の上に置いた。音は静かだった。

「姉のものです」

 オルフェは指輪を見た。

 何も思い出せなかった。この指輪に覚えがない。でも、視線がそこから動かなかった。なくしてはいけないものだという感覚だけが、根拠もなく体の中に残った。


 夜になった。

 パチパチと炎が揺れる。橙色の光が部屋に満ちる。

「北の山岳地帯にラグノスという古代魔術師が現れました」

「名前は知っています」

「当然です。あなたが三年前に封印した術師の弟子です。師の復活を三年間待ち続け、今、解呪の儀式を進めている。七日後に儀式が完成します」

「封印の解呪に必要な術は」

「あなたが三年前に使ったものと同等以上が必要です。現存する術師の中で扱えるのはあなただけ」

 炉の中で薪がパチリと爆ぜた。火の粉が一瞬舞って、消えた。

「また術を使えば、また何かを失う」

「……分かっています」

「それでも来たんですか」

「来なければならなかった」

 沈黙。

 それからリアが言った。「姉から聞いていました。あなたの話を」

 空気の質が変わった。ひやりとした何かが混じり込んだ。

「……姉」

「私の姉はエルザ・ヴェン・ハルセルといいます。あなたの妻でした」

 オルフェの喉が鳴った。

 妻。

 その言葉が、聞いたことのない言語みたいに耳の中で転がった。意味は分かる。でも何も繋がらない。顔も、声も、温度も。エルザという名前も、ただの音だ。

「覚えていないでしょう、消えてるんだから」リアの声は刃のように鋭かった。でも震えてもいた。「でも姉はあなたのことをずっと話してくれた。だから私は知っている。料理が下手なのに毎朝必ず何かを作ろうとしていたことも。一週間かけて完成させた味噌汁が水みたいな色だったことも」

 オルフェは何も言えなかった。

「姉は三年前の戦争で亡くなりました。あなたが記憶を失う前に、あなたの手の中で」

 リアが息を吸った。深く、ゆっくりと。

「姉の最期の言葉は、あなたしか知らない。あなたが覚えていた頃の記憶だから、私には永遠に分からない。三年間、知ることができないでいる」

 炉の火だけが揺れた。

 オルフェは右手の甲の傷跡を見た。机の上の指輪に、視線がまた戻った。

 空白の中に、何かの気配がある。形のない何か。名前のない何か。指を伸ばしても触れられない。


幕間一 王都・下町

 同じ夜、王都南区画の小さなパン屋で、夫婦が向き合っていた。

 ゴット、四十六歳、小太り、笑い皺が目尻に刻まれているが今夜は笑っていない。妻のナン、四十二歳、細い目、子供たちを寝かせてから窓の外を見ている。裏通りで犬がくぅん、と鳴いた。

「ラグノスの話、聞いたか」

「聞いた。ウェル通りのハンナさんが言ってた。また戦争になるって」

「三年前のあれから国は立て直せてないのに。協会の術師が足りないって毎月言ってる」

「うちのルス、もう十三だよ」ナンが振り返った。「術適性があったらどうなる」

「徴用は十六からだ」

「十六になるまで何年ある」

 ゴットは答えなかった。小麦粉の袋を棚に押し込んだ。ドサ、という鈍い音がした。

「ちゃんと帰ってくれればいい、誰でも」ナンは言った。「王様でも術師でも。ちゃんと帰ってくれれば」

 石畳に雨が降り始めていた。ぱら、ぱら、と。

 パン屋の横の小道では、鍛冶師の息子ヴェルン、十七歳、が軒下に身を隠して空を見上げていた。徴用通知が来たのは二日前のことだった。父のグスタフ、四十八歳、は何も言わなかった。母のオルサ、四十五歳、は飯を三倍盛った。それだけだった。

 ぱたぱたと軒を叩く雨音の中、ヴェルンは両手を見た。鍛冶の練習で潰れた掌。こんな手で剣を持つことになるとは、半年前には思ってもいなかった。


幕間二 王都・宮廷

 同じ夜、王都の奥の間で三人の男が向き合っていた。

 ガルフォード三世、五十二歳、白髪交じりの顎鬚、かつては戦場に出た王。宰相ドネル、五十八歳、痩せた男、眼鏡の奥の目が常に計算している。魔術師団長カルシオ、四十三歳、黒衣、無口、しかし口を開くたびに的確なことを言う。

「ラグノスの儀式が想定より早い」ドネルが言った。「当初の予測では十日あった。今は七日しかない」

「カルシオ、お前ではどうだ」と王が言った。

「勝算は四割です」カルシオは即答した。「正直に言えばそれより低い」

「オルフェならば」

「八割以上になります。おそらく九割に近い」

 ドネルが眼鏡を押し上げた。「問題は、彼がまた記憶を失うことです。今の彼が持つすべてが、消える」

 部屋が静まり返った。ランプがじりじりと燃える。壁際に立つ副長エレノア、四十三歳、銀髪を束ね目が鋭い、が低く言った。「それでも行かせますか」

「強制はしない」王の声が沈んだ。「だが……もし彼が行かなければ、どれだけの人間が死ぬか」

 誰も答えなかった。

 その夜、執務室の隣の詰め所では、別の会話が生まれていた。

 若手術師フェルナ、二十四歳、細身で眉が薄い、がカルシオの背中に向かって言った。「師匠」

「なんだ」

「なぜあの人だけに頼るんですか。オルフェ殿が三年前に一度払った。また払わせる。それで国が何の対価を払う気があるのか、私には見えない」

 カルシオは振り返らなかった。

「見えていないのか、見えているのに言えるのか」

「見えていて言っています」

 長い沈黙。

「対価がないのは分かっている」カルシオは言った。「だから私はここにいる。いざとなれば私が行く。ただし私が行けば四割以下だ。その数字の重さを、お前は分かるか」

 フェルナは黙った。

「分かった上でなお言うなら、それは正しい問いだ。忘れるな」

 長い沈黙のあと、フェルナがぽつりと言った。「一つだけ聞いてもいいですか」

「なんだ」

「あの人は……三回目も同じ選択をするんでしょうか」

 カルシオはそのまま動かなかった。ランプが揺れた。

「記憶を失うたびに、人は壊れていくのが普通だ」カルシオは言った。「でもあの人は違う。二度消えて、二度とも同じ場所に戻ってくる。辺境の村で、困った人間のそばにいる。記憶が剥がれるたびに、あの人には余計なものがなくなっていく。残るのは、削っても消えないものだけだ」

 フェルナは何も言わなかった。

「だから俺はあの人を信じている。信じているから、頼む。それだけだ」

 城の衛兵詰め所では、また別の話が流れていた。

 衛兵長コルン、五十五歳、がんこ者で有名だ、がぶつぶつと言った。「また例の噂だ。オルフェ元首席が戻ってくるんだとよ」

「本当ですか」若い衛兵ニルス、二十歳、が目を丸くした。「あの人、確か三年前に」

「ああ。最上位封印術を使って記憶を根こそぎ持っていかれた。俺はあの人のことをよく知っていた。真面目で、少し不器用で、奥さんを大事にしていた」コルンはがしがしと頭を掻いた。「その奥さんも亡くなって、自分では何も覚えていなくて。そういう人間をまた引っ張り出すのは」

「でも国が」

「国が大事なのは分かってる。分かってるよ。でもな」コルンは長く息を吐いた。「分かってるからこそ、やりきれないんだ」

 ぱたぱたと、雨はやまなかった。


幕間三 ガウン山脈・山麓の集落

 同じ夜、山脈の麓にある小さな集落で、老婆が火の前に座っていた。

 マレン、七十八歳。山の知恵番と呼ばれている女だ。

「また山が唸ってる」

 隣の若者ヤン、十九歳、農家の息子、が耳を澄ませた。ごうごうと、低い振動が地面から伝わってくる。

「魔術の振動だ」マレンは言った。「何かを呼び起こそうとしている。三年前に聞いたのと同じ音だ」

「どうなるんですか」

「分からない。でも三年前は助かった」

「また助かりますか」

 マレンは火を見た。パチパチと燃える音だけが続いた。「それは山の上にいる人間次第だ」


 翌朝、オルフェは旅の支度を始めた。

 薬瓶を数本。乾燥した薬草の束。替えの衣服。それだけ。

「先生、どこか行くの」

 テオが戸口に立っていた。早起きだ。

「少し遠出する」

「どのくらい?」

「分からない」

「帰ってくる?」

「帰れたら帰る」

 テオは唇を噛んだ。泣きそうな顔を、歯を食いしばって固めた。「先生がいなかったら、母ちゃんの薬は」

「全部書いた。ゾエさんに渡してある。三のつく日の翌朝は特に注意するよう書いておいた」

「そんなこと聞いてない」

 テオはそのまま走っていった。振り返らずに。足音が遠ざかり、消えた。

 村長ハンス、六十八歳、がっしりとした老人だ、が離れた場所に立っていた。「行くのか」

「はい」

「ここの暮らしが向いてると思っていたがね」

「ここは良い場所でした」

 ハンスはしばらくオルフェを見てから、ゆっくりと頷いた。「テオはわしが見る。アルトの肩もイーニの頭痛も、お前が書いた指示書がある。帰ってこい」

「……ありがとうございます」

 ゾエが井戸の前に一人で立っていた。その後ろに、デルファとエルミラ。少し離れた場所に、アルト、イーニ、ロッセも立っていた。誰も何も言わなかった。ただそこにいた。

「いつでも帰っておいで、先生」ゾエが言った。

「世話になりました、ゾエさん」

「あの騎士娘と行くんだろう。きれいな目をしてるね。でも重いものを持ってる」ゾエはしわだらけの手でゆっくり手を振った。「先生と同じ種類の重さだ。うまくいくといいね」


 王都への道中、最初の二日間は沈黙が続いた。

 三日目の夜、野営の焚き火を挟んで初めて会話らしい会話が生まれた。

「姉上は、どんな人でしたか」

 リアの手が止まった。干し肉を裂こうとしていた手が、そのままになった。

「……あなたに聞かれるとは思わなかった」

「俺が聞かなければ、誰に聞けますか」

 リアはしばらく火を見た。炎がゆらゆらと揺れる。

「うるさい人でした」

「うるさい」

「朝から声が大きい。思ったことを全部口に出す。意地っ張りで、負けず嫌いで。でも」リアの目が遠くなった。「誰かが困っていると、絶対に放っておけない人でした。損をすると分かっていても、目の前で困っている人を見過ごせない」

「あなたと出会ったのもそういうことだったのでしょう」

「……推測ですか」

「根拠はない。でも、そういうことだったのだろうという確信がある」

 リアは少し黙った。「そうです。あなたが路上で倒れていたところを、姉が介抱した。それが始まりだったと」

 炎がパチリと鳴いた。火の粉が散って、消えた。

「姉は、あなたのことが好きでした」リアの声が微かに掠れた。「あなたが記憶を失ったと知って、泣きました。覚えていないあなたに、笑いかけ続けました。それがどれだけ辛かったか」

「……」

「あなたは何も悪くない。そう分かっていても、私はずっとあなたを責め続けた。姉を一人にした選択を。理不尽な仕組みをあなたにぶつけることで、どうにか自分を保ってきた」

「だから今、あなたを迎えに来たことが正しいのかどうか、今も分からない」

 リアは炎の向こうを見ていた。その横顔は刃のように鋭かった。しかし炎の光の中では、どこか子供みたいにも見えた。


 四日目の昼、カルシェの街の薬屋ベロウ、四十代、太って陽気な男だ、がオルフェの顔を見るなり目を輝かせた。

「おー! 先生! 久しぶり!」

「今日は旅の途中で。痛み止めを少し」

「王都へ? ラグノスの件か。噂が流れてるよ。街の人間もざわざわしてる。協会の新理事長ルスター殿が実力より貴族との繋がりを重視するって話でね」

「そういう話は流さない方がいいですよ」

「分かってる、分かってる。帰りも寄ってくれ先生」

 ベロウの声が背中に届く。街の音に、すぐに飲み込まれた。


 王都に着いたのは七日後だった。

 城門を抜けると石畳の街並みが広がる。商人の声、ガラガラと転がる荷車の音、子供たちの足音。オルフェは歩きながら一つ一つを見た。

 何も思い出せなかった。

「懐かしいですか」とリアが聞いた。

「分からない」

「そうですね」

 衛兵長コルンが門の前に立っていた。オルフェを見るなり、目を細めた。

「お戻りで……」かすれた声だった。「三年、無事でいたか」

「お久しぶりです」オルフェには名前が出てこない。

「コルンです。覚えていないか。まあ、そうだな」コルンは眉間に深い皺を寄せた。「あんたが去った後、ここはしばらくひどかった。士気が落ちて、術師不足で、みんな疲れていた」

「……申し訳ありません」

「謝ることじゃない。ただ、ちゃんと帰ってきてくれ。今度は」


 謁見の間には、王と宰相と魔術師団長が待っていた。壁際には副長エレノアと補佐のクルス、三十一歳、細身で愛想がよく目が笑っていない、が立っている。

「三年ぶりだな、オルフェ」と王が言った。

「お久しぶりでございます、陛下」

「礼を言いたい。三年前の件は、国が生き残れたのはお前の犠牲ゆえだ」

「犠牲と呼ぶほどのことでは」

「犠牲だ」王の声が低くなった。「だからこそ、また頼むことを躊躇した。しかし」

「他に手がない。道中で聞きました」

 ドネルが前に出た。「ラグノスの儀式は七日後に完成します」

「準備に必要なものは」

「すべて用意します」

 カルシオが腕組みしたまま言った。「オルフェ殿、一つだけ聞かせてください。今のあなたに残っている記憶の量を」

「多くない。辺境の村での三年間と、この数日分。それだけです」

「……では今回術を使えば」

「今の記憶がすべて消えます」

 部屋が静まり返った。ランプがじりじりと燃える音だけが続いた。

「強制はしない。それでも」王が言った。

「行きます」

 一拍置かず答えた。

 王が眉をかすかに上げた。「……即答か」

「迷っている時間がない」とオルフェは言った。

 でもその言葉は、半分だった。


 翌日、術の準備のために宮廷魔術師の執務室を借りた。

 若手術師が三名来た。フェルナ、二十四歳、細身で眉が薄い。カム、二十二歳、背が高くおとなしい。セラ、二十三歳、目が大きく反応が早い。

「……あの」フェルナが遠慮がちに言った。「実際にお会いできるとは思いませんでした。あなたの術式の記録を見て術師になったようなものなので」

「理解できなくて当然です。俺自身、今はあの術式を自分でどう組んだか完全には再現できない」

 若者たちは顔を見合わせた。

「でも」とオルフェは続けた。「体が覚えている部分がある。記憶がなくても、指が覚えている。それを使います」

「お手伝いできることはありますか」セラが言った。

「補助を頼みたい。完全に理解しなくていい。俺の動きに合わせて、魔力を流す方向を揃えてくれれば十分です」

 カムが静かに頷いた。「やります」

 フェルナは一瞬だけ躊躇してから、頷いた。「……やります」

 ゴウ、という音が窓の外から聞こえた。北からの風だ。


幕間四 王都・術師詰め所、夜半

 同じ夜、フェルナは灯りの下で術式のノートを広げていた。

 カムとセラはとっくに寝ている。一人だけが起きていた。

 ノートの右端の走り書きをじっと見た。三年前にカルシオが書いたメモだ。「封印術最高位・完成の条件:術者が記憶の全量を対価として差し出すこと。術の規模が大きければ大きいほど、払われる記憶の量も増える」

 フェルナはペンを置いた。

(あの人は今夜、何を覚えているだろう)

 ランプがぱちぱちと鳴った。ノートを閉じた。閉じながら、小さく言った。「申し訳ない」

 誰にも届かない声だった。


 出発前夜、オルフェは城壁の上に立っていた。

 夜の王都が眼下に広がる。無数の灯り。ひゅう、と風が吹き抜けた。

 足音が近づいた。

 リアだった。鎧を脱いで外套だけを羽織っている。固さの抜けた、ただ疲れた顔。手に、何かを持っていた。

「眠れないんですか」

「あなたこそ」

 リアは城壁の端に立ち、王都の灯りを見た。それから、持っていたものをオルフェに差し出した。

 薄い革表紙の手帳だった。

「姉の日記です」

 オルフェは受け取った。使い込まれていた。表紙の角が擦れ、革が柔らかくなっている。

「あなたのことが書いてある」

 オルフェは手帳を見た。開かなかった。

「読まないんですか」

「今読むと」オルフェはゆっくりと言った。「俺はこれを、自分の記憶だと錯覚する。日記に書いてあったことを、実際に体験したことのように感じてしまう。それは違う。あなたの姉が持っていた記録だ。俺の記憶じゃない」

 リアは少し黙った。

「……賢いですね。本当に」

「賢さじゃない。怖いんだと思います」オルフェは言った。「嘘の記憶に、なりたくない」

 リアはオルフェから手帳を受け取り、外套の内側に仕舞った。静かだった。乱暴でも、怒りでもない。

「ひとつだけ」リアは言った。「頼んでもいいですか」

「何でしょう」

「姉の名前を。今のうちに覚えておいてください。エルザ・ヴェン・ハルセル。私の姉の名前。あなたの妻だった人の名前」

「エルザ・ヴェン・ハルセル」

「声に出して」

「エルザ・ヴェン・ハルセル」

「もう一度」

「エルザ・ヴェン・ハルセル」

 リアは少し目を閉じた。「忘れてもいい」と言った。低く。「でも呼んだ回数だけは残る。どこかに、残る」

「エルザ・ヴェン・ハルセル」

 四度目だった。

 リアの目から、涙が一滴、ぽたりと落ちた。

「ありがとう。それだけでいい」

 リアは城壁を離れた。足音が遠ざかる。


 一人になった。

 無数の灯り。誰かが眠れずにいる光。誰かが笑っている光。誰かが泣いている光。

 オルフェはその灯りをしばらく見ていた。

(行かなければ、誰かが死ぬ)

 そう思った。

 でも、そう思った瞬間、何かが違う、と感じた。

 それは正しい理由だ。正確な理由だ。でも、自分の理由じゃない。

 目を閉じた。

 テオの声が聞こえた気がした。

 ゾエの手の感触が、掌に残っていた。

 朝の畑の匂い。冷えた空気。鍬の音。ロッセの家の石垣。アルトが挨拶をするときの少し照れた顔。イーニが偏頭痛の日に見せる困り眉。

 全部、消える。明日を越えれば全部、消える。

 それでも。

「……俺は、あれを守りたかった」

 ぽつりと言った。誰にも聞かせるためじゃない。

「だから行く」

 城壁の石が冷たかった。風がもう一度吹いた。ひゅう、と。

 オルフェはそのままそこに立っていた。長い間。

 誰かに選ばれたのではなかった。義務でも、仕方なさでもなかった。ただ自分が、あの朝の光と、あの手の温かさと、テオのあほ面を、守りたかった。それだけだった。それだけで、十分だった。

(エルザ・ヴェン・ハルセル)

 その名前だけが、頭の中に残った。


 北の山岳地帯は寒かった。

 ガウン山脈の中腹。岩が剥き出しの斜面を、オルフェとリア、騎士団精鋭十二名が登る。吐く息が白い。ザク、ザク、と岩混じりの土を踏む音が続く。パラパラと石礫が転がる。

 先頭を行くのはリアだった。黙々と、確実に。背中が真っすぐだ。

「もうすぐです」後方から斥候のニック伍長、二十二歳、そばかすが多い、が言った。「岩の上に煙が見えました」

「前方五十メートルで散開」エレノアが低く指示を飛ばした。「オルフェ殿は後方に。術の準備が整い次第、私たちは下がります」

「弟子の数は」

「五名です」リアが言った。「昨夜、私が単独で確認しました」

 エレノアの眉が上がった。「いつ」

「深夜に単独で」

「報告が」

「遅れました。詫びます。ただし数の精度は保証します」

 クルスが小声で「隊長代理は行動が速いな」と言った。

「命がかかってる。速い方がいい」とリアは答えた。

 クルスはほんの少し口の端を上げた。「違いない」


 岩陰から覗くと、平らな岩盤の上に魔術陣が展開されていた。五芒星を基調とした複雑な構造。中央に老人が立ち、周囲に五名が配置されている。

 ラグノス。百歳を超えているはずだが、その身体から漏れる魔力は尋常でない。ぐうぐうと空気が歪む。純粋な魔力の圧力だ。

 遠く、山の麓で何かが光った。

「……なんですか、あれ」ニック伍長が目を細めた。

「王都の魔術師団です」クルスが答えた。「フェルナたちが遠隔結界の補助を行っている。術の安定に寄与するはずです」

 山の麓でフェルナたちが動いていた。薄い光の筋が、山の斜面を伝って上ってくる。頼りない。でも確かに届いている。

「……想定より進んでいる」とオルフェは言った。

「やるしかない」リアが頷いた。剣を抜く。カシャリ、という澄んだ音が岩の間に響いた。

 それから岩の向こうへ跳び出した。


 ドン、という衝撃音が連続した。

 弟子の五名が即座に反応し、騎士団に向かう。エレノアが「散開!」と叫んだ。ドン、ドン、ドン、と術の炸裂音が続く。爆発が一つ、二つ。岩が砕ける音。ニック伍長が鋭い声で方位を叫ぶ。クルスが素早い足取りで弟子の一名を切り捨てた。騎士レイン、二十六歳、が右腕に被弾して呻いた。それでも剣を持ち替えて止まらない。

 岩の陰でオルフェは術の準備を始めた。

 右手に魔術陣を描く。さらさらと、薄青い光が指先から流れ出す。複雑な術式。封印魔術の最高位。三年前と同じ構造を、記憶ではなく体が再現していく。

 山の麓からの光が届いてきた。フェルナたちの魔力補助だ。細い。しかし確かに届いている。

 七割。

(今の俺に残っているのは、この数日の記憶だ)

 リアの声が聞こえる。鋭い命令を飛ばしている。

 八割。

(この数日を失う。テオも、ゾエさんも、村の朝も。全部)

 九割。

(リアも)

 ラグノスが振り返った。白濁した目がオルフェを捉える。その口がゆっくりと笑った。

「封印術師か」老人の声はかすれていた。でも底に何かが揺れていた。哀れみとも、羨望とも取れる何かが。「また消すのか、自分を」

 オルフェは答えなかった。

(守りたかった)

 それだけが、頭の中にあった。

 弟子の一名がリアから離れてオルフェに向かってくる。速い。

 間に合わない、と判断した次の瞬間。

「させない」

 リアが間に入った。一閃。弟子が吹き飛ぶ。ドスン、という鈍い音で岩に叩きつけられる。着地。振り返りもせずに叫ぶ。

「今!」

 オルフェは右手を突き出した。

「封ずる」

 ゴウ、という轟音。

 光が炸裂した。

 白い。

 ひどく白い。


 気がついたとき、オルフェは岩の上に仰向けになっていた。

 空が見える。薄い雲。秋の空の色。

 体が重い。頭の中が空っぽだ。

 ぼんやりと体を起こす。膝が震えた。手をついて、岩の冷たさを感じた。

 周囲を見渡す。

 魔術陣は消えていた。ラグノスは地面に倒れ、封印の光が蜘蛛の巣状に走っている。ニック伍長がどこかで「やった!」と叫んでいる。クルスが黙々と状況を確認している。エレノアが部下に指示を飛ばしている。

 一人の女が、少し離れた場所に立っていた。

 赤茶の髪。鎧に血。でも致命傷ではなさそうだ。目がこちらを向いている。

 何か複雑なものを宿した目だ。

 オルフェはその女を見た。

 誰だろう、と思った。

「……大丈夫ですか」とオルフェは言った。

「ええ」女はゆっくりと頷いた。「大丈夫です」

「あなたは」

「リア・ヴェン・ハルセル。騎士団第三隊です」

「俺を連れてきてくれた方ですね」

 リアの目が、わずかに揺れた。「……はい」

「封印は成功したようです。ありがとうございました、ハルセル騎士さん」

「……リアで構いません」

「では、リアさん」

 リアは答えなかった。

 少しだけ顔を俯けた。そのまま、しばらく何も言わなかった。

 それから外套の内側から何かを取り出した。

 小さな指輪だった。細い銀の輪。石は赤みがかった橙色。

 リアの手が、震えていた。

 差し出そうとして、止まった。また差し出した。止まった。

「……覚えてないんですよね」

 笑おうとした。笑えなかった。

「全部、全部……」

 声が詰まった。

「全部忘れて、それでも……」

 一歩、前に踏み出した。指輪を持つ手がかすかに揺れている。

「それでも、あなたを連れてきてよかったって、思いたいんです」

 崩れた。

 刃のような横顔が、音もなく崩れた。涙が出たのか出なかったのか、オルフェには分からなかった。ただ、その声に何かが詰まっていた。長い時間をかけて積み上げたものが、初めて形を失った瞬間だった。

 オルフェは指輪を受け取った。指先が触れる。冷たい金属の感触。

 なくしてはいけない。

 理由はない。根拠もない。でもそう感じた。強く感じた。

「……これ、なくしちゃいけない気がします」

 リアはしばらくそのまま、下を向いていた。

 それからゆっくりと顔を上げた。泣いていた。でも声は落ち着いていた。一度崩れて、また自分を組み直した顔だった。

「そうですか」とだけ言った。

 低く、静かに。

 視線を少し上へ向けた。空の方へ。

 肩が、かすかに震えていた。


 エレノアが近づいてきた。「見事でした、オルフェ殿。ラグノスは二度と術を使えません」

「お役に立てて良かった」

 ニック伍長が少し離れた場所でじっとオルフェを見ていた。若い目で、複雑な顔で。クルスに小声で「ほんとに覚えてないんですね」と言うのが聞こえた。クルスが頷く。

「ほんとにな」

 クルスはそれ以上何も言わなかった。視線を空に向けた。山の向こう、王都の方角へ。


 王都への帰路、オルフェはリアの隣を歩いた。

 記憶がない。自分の名前以外、ほとんど空白だ。でも不思議なことがあった。

 リアの隣にいると、なぜか落ち着いた。

 理由が分からない。ただこの距離感が、ずっと昔から当然のものだったような気がする。

「ひとつ聞いていいですか」とオルフェは言った。

「どうぞ」

「あなたは俺のことをよく知っているようだ。俺は、誰かを忘れましたか。大切な人を」

 リアの足が一瞬だけ止まった。

「……ええ」

「誰ですか」

「エルザ・ヴェン・ハルセル」リアは言った。「私の姉です。あなたの……妻でした」

「妻」

「ええ」

 オルフェはその名前を頭の中で繰り返した。

 エルザ・ヴェン・ハルセル。

 覚えていない。そこには何もない。でも。

「教えてもらえますか。その人のことを。俺が忘れてしまった人のことを、あなたが覚えていることを、話してもらえませんか」

 リアは少しの間、何も言わなかった。

 それから、ゆっくり言った。「……うるさい人でしたよ。朝から声が大きい。思ったことを全部口に出す。意地っ張りで、負けず嫌いで」

「でも?」

 リアが小さく息をついた。

「でも、誰かが困っていると、絶対に放っておけない人でした」

 オルフェはそれを聞いた。

 何かが、空白の中を通っていった。

 形もなく、音もなく。でも確かに、何かが通った。

 手の中の指輪が、冷たかった。


終章 ヴァルドルン、冬

 三ヶ月後、初雪の朝。

 石畳に薄く白いものが積もっている。コン、コン、と扉を叩く音がした。

 開けると、テオが立っていた。

「……先生?」

「ただいま、テオ」

 テオの目が大きくなった。それから一気に涙があふれて「おかえり!!」と叫んで飛びついてきた。ぶるぶると震える小さな体。

 オルフェはテオの頭に手を置いた。

「泣いてるじゃないか」

「泣いてない! 目に雪が!」

「外に出てないだろう今さっきまで」

「……うるさい!」

 後ろから足音がした。

 リアが立っていた。外套を羽織って、手に荷物を持って。

「こんなところに来てよかったのか」とオルフェは言った。

「騎士団の休暇は三ヶ月あります。有効に使わないと」

「そうか」

 テオがリアを見た。「だれ?」

「リアさん。知り合いだ」

「きれいな人!」

 リアの頬が、わずかに赤くなった。「……ありがとう」

「先生に用事?」

「教えてもらいたいことがあって」リアは静かに言った。「この村のことを。先生がここで暮らしていた三年間のことを」

 テオはきょとんとした。「え、なんで? 先生が覚えてるじゃん」

「先生は覚えていないから。だから私が聞いて、先生に教えようと思って」

 テオはうんうんと頷いた。「そっか。だったらぼくに聞いて。先生のことなら全部知ってるよ。ロッセおばさんの腰を治したこととか、ゾエおばあちゃんと喧嘩したこととか!」

「喧嘩はしていない」

「してたってば! ゾエおばあちゃんが言ってた!」

 ゾエが外から声をかけてきた。「したよ! しっかりした口喧嘩を! ほら先生、お客さんを中に入れなさい! 雪が積もるよ!」

 デルファとエルミラが笑う声がした。ハンスが「おう」と応える声がした。アルトが「先生が帰ったぞ」と誰かに知らせていく声がした。

 リアが笑った。

 初めて見る顔だった。

 あの重たいものが薄くなった目で、ちゃんと笑っていた。


 その夜、オルフェは小屋の机に向かった。

 ランプが揺れている。外で雪が降り続けている。さらさらと、かすかな音を立てて。

 黒革の手帳を開く。びっしりと書き込まれた他人の症状。自分の欄だけが白いままの手帳。

 ペンを取った。

 書いた。

「リア・ヴェン・ハルセル。騎士。エルザという姉を持つ。俺がかつて忘れた人の、妹だと言う。山の上で、崩れた。それからまた立った。大事な人らしい。たぶんこれからも、大事な人だ」

 ペンを置いた。乾くのを待った。

 それから次のページを開いた。

「エルザ・ヴェン・ハルセル。俺の妻だったらしい。声が大きかったと聞いた。誰かが困っていると放っておけない人だったと聞いた。それだけしか知らない。でも、それだけで十分な気がしている」

 ランプの炎が揺れた。影が動いた。


 翌朝、リアが小屋を訪ねてきた。テオに聞いた話を持ってきた。ゾエにも、ハンスにも、アルトにも聞いたという。

「あなたは三年前にここに来たとき、薬草師だと言って村に入ったそうです。医者は十年前に死んでいたから、みんな最初は信用しなかった。でも一週間で全員が認めた。ロッセさんの腰が三回の施術で楽になったから」

 オルフェは聞いた。

「テオが生まれて初めて骨を折ったとき、夜中に駆けつけたそうです。夜明けまでずっと添え木を当てながら傍にいた。テオは今でも右腕がちゃんと使えています」

「……そうですか」

「ゾエさんが言っていました。あなたは一度も自分のことを話さなかったって。聞かれても『覚えていない』か『大したことじゃない』のどちらかしか言わなかったって」

「それはたぶん本当のことです」

 リアはテーブルの上に手帳を置いた。姉の手帳だ。

「読みますか。今なら」

 オルフェは手帳を見た。

「今も、やっぱり読みません」

「なぜ」

「俺が今持っている記憶は、俺が実際に積み上げたものだけにしたい」オルフェは言った。「あなたが話してくれたことは、俺の記録になった。でも手帳の中身は、俺が体験していない記憶だ。それは、別のものだと思う」

 リアは長い間、手帳を見ていた。

 それから仕舞った。「分かりました」

 二人は少し黙った。外でテオが何かを叫んでいる。ゾエが怒鳴り返す。デルファとエルミラが笑っている。

「リアさん」

「何ですか」

「また来てくれますか。休暇が終わっても」

 リアの目が動いた。わずかに。それから、落ち着いた。

「……来ます」

「また話を聞かせてください。あなたが知っていることを」

 リアは頷いた。

 窓の外で雪がはらりと舞った。


 その日の昼、リアは一人で丘に上がった。

 ポケットの中の手帳を取り出す。姉の手帳。使い込まれた革。柔らかい表紙。

 開いた。

 最後のページ。

 エルザの文字で書いてあった。

「あの人はきっとまた誰かを好きになる。記憶がなくても、骨の中まで染み込んでいるから。誰かが困っていたら必ず動いて、放っておけなくて、それで気づいたら隣にいる。そういう人だ。だから大丈夫。どこにいても、どんな状態でも、あの人はあの人のまま誰かを愛せる」

 リアは手帳を閉じた。

 目を閉じた。

 風が来た。ひゅう、と。頬に当たって、消えた。

「……そうだな、姉ちゃん」

 声にならなかった。でもきっと届いた。

 雪が、はらり、と降ってきた。

 村から、オルフェがテオに何かを言っている声が聞こえた。テオが笑っている声がした。ゾエが何か言った。ハンスが「おう」と応える声がした。

 リアは目を開けた。

 この人は、何度でも同じ人を好きになる。

 坂を下りた。


■ END

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