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妹に婚約者を寝取られましたが、どうぞ差し上げます。私は「呪われた悪魔公爵」と噂される辺境伯様に嫁ぎますので。〜実は彼が呪われてなどおらず、ただの愛妻家な超絶美形だと知っているのは私だけ〜

作者: 文月ナオ

 

「聞こえなかったのか、コーデリア。君との婚約は破棄する、と言ったんだ」


 王宮の豪奢な応接間。


 私の目の前でティーカップが、ソーサーの上でカシャン、と音を立てて震えた。


 その震えは、テーブルを叩いた彼の手の振動によるものだった。


 向かい側に座る美しい青年、私の婚約者である第二王子フレデリックが、これ以上ないほどの侮蔑を込めた瞳で私を見下ろしていた。


 そして、その彼の腕には、小動物のように震える可愛らしい少女がしがみついている。


 私の2歳下の妹、メリナだ。


「お、お姉様……ごめんなさい……! でも、私たち、もう嘘はつけなくて……!」


 メリナは涙で潤んだ瞳を私に向けながら、フレデリックの腕をさらに強く抱きしめた。


 その角度、涙の量、震える肩の演出。


 男性の庇護欲を掻き立てるには十分すぎるほど計算された、完璧な「悲劇のヒロイン」の演技だ。


 本来なら、ここで私は泣き叫ぶか、あるいは妹を罵倒して、泥沼の修羅場を演じるべきなのだろうか。


 けれど。


 私の心は、凍りついた湖面のように静まり返っていた。


 こめかみの奥で、パチンと小さな泡が弾けるような音がした。


 その瞬間、視界にかかっていた霧が晴れ、世界が鮮明な色彩を取り戻していく。


 目の前で繰り広げられている三文芝居のような断罪劇。


 涙を流す妹と、それを庇う王子。


 そして、「悪役」として断罪される私、公爵令嬢コーデリア。


 この光景に、私は既視感を覚えていた。


 いや、既視感どころではない。私はこの場面を『知っている』。


 かつて私が生きた別の人生。


 残業続きの深夜のオフィス。


 栄養ドリンク片手に、唯一の癒やしとしてスマホの画面をタップしていた記憶。


 ――ここ、あの乙女ゲームの「共通ルート」の婚約破棄イベントだわ。


 唐突に蘇った前世の記憶は、驚くほど滑らかに今の私へと溶け込んだ。


 混乱はない。


 むしろ、これまで自分が抱えてきた「生きづらさ」や「周囲との不和」の正体が判明し、深く腑に落ちていく感覚だった。


 私は愛されないのではない。


 主人公であるメリナを引き立てるための「冷徹な悪役令嬢」という役割を、世界から強制されていただけなのだ、と。


「……黙り込んで、反省しているふりか? 君のような感情のない女は、僕の妃には相応しくない」


 フレデリックが冷たく言い放つ。


 感情がない、か。


 ええ、よく存じております。


 貴方が押し付けてくる山のような公務を処理し、貴方の計算ミスを裏でこっそり修正し、貴方の代わりに根回しを行う日々に忙殺され、笑顔を作るカロリーすら惜しかっただけなのですが。


 でも、今の私にとって、その言葉はもう傷にはならなかった。


 だって、このイベントが発生したということは――。


「君には、新たな縁談を用意してある」


 フレデリックが、勝ち誇ったように一枚の書類をテーブルに投げ出した。


「北の最果て、ハルフォード辺境伯への輿入れだ。……あの『悪魔公爵』となら、君のような冷たい女でもお似合いだろう?」


 その名前を聞いた瞬間、私は必死で口角が上がりそうになるのを噛み殺さなければならなかった。


 ハルフォード辺境伯、ギルバート様。


 常に不気味な仮面をつけ、血を好む残虐非道な「悪魔」と恐れられる男。


 この国中の令嬢が名前を聞いただけで震え上がる、恐怖の対象。


 彼らは、私をそこへ「()()()()()()」なのだ。


 厄介払いのついでに、不幸のどん底へ突き落としてやろうという、浅ましい悪意。


 ――ありがとう、愚かな元婚約者様。そして可愛い妹よ。


 貴方たちは知らない。


 その「悪魔公爵」こそが、全ルートの中で唯一、主人公を一途に、それこそ狂気的なまでに愛し抜いてくれる、最高の「隠し攻略対象」だということを。


 仮面の下の素顔が、見る者の理性を吹き飛ばすほどの国宝級の美貌であることも。


 その冷徹な振る舞いが、ただ不器用すぎて誤解されているだけだということも。


 その全てを知っているのは、この世界で「プレイヤー」だった私だけだ。


 それに、もう一つ感謝しなければならないことがある。


 婚約破棄ということは、これまで私が肩代わりしていた王子の膨大な執務……あの徹夜続きのブラック労働からも解放されるということだ。


 もしかして、今日は私の祝日なのだろうか。


「……分かりました」


 私はゆっくりと立ち上がり、王族に対する完璧なカーテシーを披露した。


「今までお世話になりました、フレデリック殿下。そしてメリナ」


 顔を上げた私の表情を見て、二人が息を呑んだのが分かった。


 今の私は、きっと今までで一番、晴れやかな顔をしているはずだから。


 さあ、喜んで捨てられよう。


 あなた達がゴミ箱だと思って投げ捨てた先が、宝石箱だとも知らずに、その薄ら笑いを浮かべ続けていればいい。


 私は私で、たった今、幸せへの道を掴み取ったので!


 私は心の中で舌を出し、愛すべき「悪魔」の待つ北の地へと想いを馳せた。




 ◇◆◇




 実家である公爵家を出るのは、あまりにも呆気なかった。


 父も母も、昔から愛想の良いメリナばかりを可愛がっていたし、無愛想で「何を考えているか分からない」と言われてきた長女の私は、腫れ物扱いだった。


「まさか、王家から厄介払いをされるなんて。……お前には失望したよ、コーデリア」


 父の言葉にも、私は無言で頭を下げた。


 弁明する気も起きない。むしろ好都合だ。


 彼らは「呪われた辺境伯」への輿入れを、事実上の追放刑だと思っている。


 だから、持参金こそ最低限は持たせてくれたものの、侍女の一人もつけずに私を馬車へ押し込んだ。


 ドレス数着と、わずかな宝石。それが公爵令嬢だった私の全財産となった。


 けれど、馬車が王都の門をくぐり抜けた瞬間、私は窓を開けて大きく息を吸い込んだ。


「あー! せいせいした……!」


 初めて、声に出して本音を言えた気がする。


 冷たい風が頬を撫でるが、それは自由の味がした。


 これから向かうのは、北の果て。


 一年中雪に閉ざされた、極寒の地。


 ハルフォード辺境伯領は、魔物の住処である「北の森」に隣接する、国防の要だ。


 当主であるギルバート様は、幼い頃に魔物の呪いを受け、その顔が醜く爛れてしまったと噂されている。


 だから常に銀の仮面をつけ、人前に姿を現さないのだ、と。


(……ま、全部、嘘なんだけどね)


 馬車に揺られながら、私は前世の記憶を反芻する。


 ゲームの中の彼は、確かに恐ろしい存在として描かれていた。


 けれど、特定の条件を満たして彼のルートに入ると、真実が明かされる。


 呪いなんて受けていないこと。仮面は、ある事情から素顔を隠すためのものであること。


 そして何より、彼が誰よりも深く、激しい愛情を秘めた人物であること。


 本来のゲームでは、主人公メリナが彼を攻略するはずだった。


 でも、メリナは愚かにもフレデリックを選んだ。


 なら、ギルバート様は私のものだ。誰にも渡さない。


 私が全力で彼を愛し、愛され、彼を幸せにして、そして私も幸せになる。


 それが、私を捨てた人たちへの、最大の復讐になるのだから。




 ◇◆◇




 王都を出てから十日。


 馬車は徐々に高度を上げ、景色は鮮やかな緑から、白銀の世界へと変わっていった。


 吐く息が白い。窓ガラスが凍りついている。


 さすがにドレスの上にコートを羽織っても寒い。


 ようやく、見えてきた。


 切り立った崖の上にそびえ立つ、黒い石造りの城。


 吹雪の中に浮かび上がるその姿は、まさに魔王城といった風情だ。


「到着いたしました、コーデリア様」


 御者が震える声で告げた。


 彼は荷物を下ろすと、「で、では私はこれで!」と逃げるように馬車を走らせて去っていった。


 残されたのは、私とトランク二つだけ。


 出迎えすらない。


 まあ、当然だろう。


 いきなり「王都から婚約破棄された傷物の令嬢が送られてくる」と言われて、歓迎するはずがない。


 私は深呼吸をして、冷え切った手で重たいドアノッカーを叩いた。


 重厚な音が響く。


 しばしの沈黙の後。


 ギギギ、と軋んだ音を立てて、巨大な扉がゆっくりと開いた。


「……王都からの使いか?」


 現れたのは、初老の執事だった。


 黒い燕尾服を着ているが、その眼光は鋭く、腰には剣を帯びている。


 さすが辺境、執事も武闘派らしい。


「はい。ハルフォード辺境伯に嫁いで参りました、コーデリアと申します」


 私が名乗ると、執事は眉をひそめた。


「嫁いで……? ああ、そういえばそんな書状が届いていたような……」


 彼は私を頭の先からつま先まで値踏みするように見つめ、鼻を鳴らした。


「お帰りください。ここは貴女のようなか弱い令嬢が『おままごと』をしに来る場所ではありません。凍えて死ぬ前に、回れ右をして帰られた方が身のためです」


 追い返す気満々だ。


 執事のセバスティアン。


 彼もまた、主人であるギルバート様を過保護なまでに守ろうとする忠臣の一人だ。


 王都の女など、どうせ主人の財産目当てか、あるいはスパイだろうと警戒しているのだ。


「帰る家などございません。私は、ここで骨を埋める覚悟で参りました」


 私が真っ直ぐに彼を見返して言うと、セバスティアンはわずかに目を見開いた。


 公爵令嬢らしからぬ気迫に、少し驚いたようだ。


「……ふん。口だけなら何とでも言えますな」


 彼は扉を大きく開けた。


「どうぞ。ただし、何が起きても命の保証はいたしませんよ」


 城の中は、外観の恐ろしさに反して、清潔に保たれていた。


 ただ、異様なほど静かで、そして暗い。


 廊下の照明は間引きされ、薄暗がりが広がっている。


 暖炉の火も小さく、廊下を歩くだけで足元から冷気が這い上がってきた。


(……これは、思ったよりも財政状況が深刻なのかしら?)


 前世の社畜センサーがピクリと反応する。


 贅沢をしていない「清貧」というよりは、必要な経費すら削っているような「逼迫」の気配がする。


 すれ違う使用人たちの顔色も悪い。


 目の下にクマを作り、何かに怯えるように足音を殺して歩いている。


 過重労働か、あるいは栄養不足か。


 これは「悪魔公爵」というより「ブラック企業経営者」の気配がする。


「旦那様は、謁見の間におられます」


 案内されたのは、広大な広間の前だった。


 扉が開かれる。


 その最奥、一段高い玉座のような椅子に、その人は座っていた。


 黒い軍服に身を包み、長い足を組んで座る男。


 漆黒のマントが、玉座から流れるように広がっている。


 そして、顔の半分を覆う、銀色の仮面。


 仮面の隙間から覗く左目は、凍てつくようなアイスブルーだった。


 ギルバート・フォン・ハルフォード辺境伯。


 本物だ。


 ゲーム画面で見ていたよりも、何倍も迫力がある。


 全身から放たれる威圧感が、肌を刺すようだ。


「……ほう」


 ギルバート様が、私を見下ろして鼻を鳴らした。


「王都から生贄が送られてきたかと思えば……随分と肝の座った娘だな」


 彼はゆっくりと立ち上がり、階段を降りてきた。


 一歩、また一歩と近づくにつれて、その長身に圧倒される。


 彼は私の目の前で立ち止まり、値踏みするように顔を近づけた。


「俺の噂を聞いていないのか? 俺はこの手で何百もの敵を屠り、その血で喉を潤す悪魔だぞ」


 彼はわざとらしく、恐ろしげな声を作って脅してくる。


「俺の仮面の下には、呪われた醜い顔がある。見た者は恐怖で発狂すると言われている。……それでも、ここで暮らせるというのか?」


 近い。


 顔が近い。


 普通なら悲鳴を上げて失神する距離だ。


 だが、私は冷静に観察していた。


 ……血で喉を潤す?


 いいえ、その指先のささくれ。そして、仮面の下から僅かに覗く、隠しきれない目の下の隈。


 血を欲しているのではなく、単に「栄養」と「睡眠」が足りていないだけだ。


 それに、威圧的に振る舞っているけれど、彼の視線は私の目ではなく、私の首元のあたりを泳いでいる。


 女性と目を合わせるのが怖いんだ。


(なんて……愛おしい不器用さなんだろう)


 私は静かに一礼をした。


「初めまして、旦那様。これから妻として、そしてこの城を預かる者としてお仕えいたします」


「……は?」


 ギルバート様の動きが止まった。


 悲鳴を期待していたのだろう。


 拍子抜けしたように瞬きをする仮面の奥の瞳に、私は畳み掛けた。


「ところで旦那様。この城の暖房効率の悪さは早急に改善すべきです。隙間風の対処と、魔石ボイラーの定期点検はいつ行いましたか? それと、使用人たちのシフト表を見せていただけますか? すれ違ったメイドたちの顔色、あれは明らかな鉄分不足と過重労働の証拠です」


「な……っ!?」


 彼はたじろぎ、一歩後ずさった。


「き、貴様……何を言っている? 俺は悪魔だぞ? 怖くないのか?」


「悪魔であろうと人間であろうと、組織のトップが過労で倒れては示しがつきません。……まずは食事にしましょう。話はそれからです」


 私は呆気にとられる「悪魔公爵」を置き去りにして、セバスティアンの方を向いた。


「執事長、厨房をお借りします。王都から持参した茶葉とドライフルーツがありますので、まずは温かいお茶と軽食を。旦那様のその顔色を見るに、まともな食事を摂られていないようですから」


 こうして、私の「悪魔公爵夫人」としての生活は、色気もへったくれもない業務改善から幕を開けた。




 ◇◆◇




 それからの日々は、まさに戦場だった。


 私はギルバート様の「妻」というよりは、「敏腕コンサルタント」として城内を駆け回った。


 まず着手したのは、帳簿の見直しだ。


 ハルフォード家は貧しいわけではなかった。


 ただ、ギルバート様が「自分は呪われているから」と、自分のための予算を極限まで削り、全てを軍備と領民への補償に回していたのだ。


 そのせいで城の設備は老朽化し、自分自身の食事すら「黒パンとスープ」という、囚人のようなメニューにしていた。


「非効率です」


 私は執務室で、ギルバート様に新しい予算案を突きつけた。


「貴方が健康でなければ、誰が領民を魔物から守るのですか? 城の環境改善は、立派な国防費です」


「……だが、俺のような化け物に金を使うなど、無駄だ」


 ギルバート様は頑なに首を振る。


 私はため息をつき、彼の手元にある書類を指差した。


「ご覧ください。この『北の森』の討伐計画書。兵士の配置コスト計算が間違っています。ここをこう修正すれば、予算を浮かせつつ、貴方の食事に肉を追加できます」


 私は羽ペンを取り、さらさらと数式を書き加えた。


 前世で培った「エクセル脳」とも言うべき計算スキルだ。


 ギルバート様は目を丸くして、私の修正案を凝視した。


「……計算が、早いな。それに、この配置案……盲点だった」


「王都では、元婚約者の代わりにこれくらいの計算を毎日やらされておりましたので」


 私が事もなげに言うと、彼は複雑そうな顔をした。


「……王族は何をさせているんだ」


「さあ。おかげで実務能力が鍛えられましたわ」


 私の能力を目の当たりにして、彼も少しずつ話を聞いてくれるようになった。


 食事メニューの改善。使用人のシフト制導入。


 私が提案を実行するたびに、城の中は見違えるように明るくなり、使用人たちの私を見る目も「王都のスパイ」から「頼れる奥方様」へと変わっていった。


 セバスティアンに至っては、今では私の好みの茶葉を先回りして用意してくれるほどだ。


 ただ一つ、攻略できていないのが、ギルバート様との物理的な距離だ。


 彼は私の能力を認めつつも、頑なに私を寝室に入れようとはしなかった。


 それどころか、二人きりになることすら避けている。


「……俺に近づくな」


 夜、廊下ですれ違うたびに、彼はそう言って距離を取る。


「俺の呪いは、親しい者ほど深く蝕む。……お前が有能なのは分かった。だからこそ、俺に関わって破滅してほしくないんだ」


 その声は、拒絶というよりは懇願に近かった。


 彼は本気で怯えているのだ。


 自分が私を不幸にすることを。


 その頑なな態度は、もどかしくもあったけれど、同時に彼の優しさの証明でもあった。


(……この人は、本当に優しい。でも、そろそろ限界ね)


 彼の心の壁を壊すには、相応の衝撃が必要だ。




 ◇◆◇




 その夜は、城壁さえ揺らぐほどの猛吹雪だった。


 私は温かいミルクを入れたトレイを持ち、ギルバート様の寝室へ向かった。


 セバスティアンには止められたが、「重要な報告がある」と言って押し切った。


 ノックをするが、返事がない。


 風の音にかき消されたのかもしれない。


 私は構わず扉を開けた。


「旦那様、夜分に失礼いたします。温かいお飲み物を……」


 言葉が、喉の奥で止まった。


 部屋の中は薄暗く、暖炉の炎だけが揺らめいている。


 その暖炉の前、椅子に座っていたギルバート様が、仮面を外していたのだ。


 無防備な背中。


 彼は弾かれたように振り返り、私を見て凍りついた。


「み……見たな……?」


 露わになったその素顔。


 私は息を呑んだ。


 知ってはいた。


 ゲーム画面越しに何度も見ていたし、スチルもコンプリートした。


 けれど、本物の破壊力は次元が違った。


 月の光を吸い込んだような白い肌。


 神が心血を注いで彫り上げたような、完璧な鼻梁、唇のライン。


 長い睫毛に縁取られた瞳は、宝石よりも澄んでいて、深い憂いを帯びている。


 それは、暴力的なまでの「美」だった。


 人の理性を消し飛ばし、ただひれ伏させるような、魔性の美貌。


「……はは、見たな。見てしまったな」


 ギルバート様が、虚ろな瞳で笑った。


 彼はガタガタと震え出し、自分の顔を手で覆った。


「これで、お前も狂う。俺の母がそうだったように。かつての婚約者たちがそうだったように。……この顔を見れば、誰もが理性を失い、俺を『人間』としてではなく、『所有物』として見るようになるんだ!」


 彼の悲痛な叫びが部屋に響く。


 過去のトラウマ。


 実の親にすら監禁され、愛されるのではなく「崇拝」あるいは「独占」の対象とされた記憶。


「逃げろ、コーデリア。今すぐ逃げろ。……俺を、顔だけの化け物として消費する前に!」


 彼は私を拒絶しようと、必死に声を荒らげる。


 私は、トレイをサイドテーブルに置くと、ゆっくりと彼に近づいた。


 そして、震える彼の手を、そっと取った。


「……確かに、驚きました」


「そうだろう。怖いだろう。気味が悪いだろう!」


「いいえ。……ずいぶんと、顔色が悪いなと思いまして」


 私は彼の手を両手で包み込み、真っ直ぐにその瞳を見つめた。


「ギルバート様。貴方のお顔は、確かに美術品のように美しいです。……ですが、それが何だというのです?」


「な……?」


「私がここに来て見てきたのは、貴方の顔ではありません」


 私は言葉を紡ぐ。一つ一つ、心を込めて。


「領民のために寝る間を惜しんで働く姿です。不器用ながらも使用人たちを気遣う優しさです。私の提案した改善案を、最初は渋りながらも認めてくれた度量の広さです。そして……私の淹れたお茶を、美味しいと笑ってくれる、その人間らしい温かさです」


 私は、彼の手のひらを自分の頬に当てた。


「顔が良いだけで、私が仕事を放り出して貴方に夢中になるとでも? ……私は貴方の『中身』に惚れ込んで、ここにいるのです。外見ごときで、私の評価は変わりません」


「……中身……俺の……?」


「ええ。それに、貴方はまだ私の提出した『来季の農地開拓予算案』に承認印を押していません。顔が仕事をサボる理由はなりませんよ?」


 私がわざとらしく悪戯っぽく微笑むと、彼はぽかんと口を開け――。


 そして、力が抜けたように膝から崩れ落ちた。


 私は慌てて彼を抱き止める。


 彼は私の腰に腕を回し、子供のように声を上げて泣き出した。


「……怖かった……ずっと、怖かったんだ……」


「ええ、知っています」


「誰も……俺を見てくれなかった……」


「私は見ていますよ。貴方の頑張りも、弱さも、全部」


 その夜、彼は初めて、私の腕の中で安らかな眠りについた。


 仮面という重たい鎧を脱ぎ捨てて。




 ◇◆◇




 それからの変化は劇的だった。


 ギルバート様は城内では仮面を外して過ごすようになった。


 最初は驚いていた使用人たちも、私が「旦那様のお顔に見とれて仕事の手を止めた者は減給です」と厳命したおかげか、あるいは慣れとは恐ろしいもので、次第に「うちの旦那様は世界一美形だ」と誇らしげにしていた。


 ギルバート様自身も、私に対して隠し事をしなくなった。


 というより、甘えん坊な本性が露呈した。


 執務中、ふと気づくと視線を感じる。


 顔を上げると、彼がとろけるような笑顔で私を見つめているのだ。


「……もう、旦那様。仕事が手につかなくなってしまいます」


「すまない。君が可愛くて、つい」


 息をするように愛を囁くようになった。このギャップである。


 すべてが順風満帆に見えた。


 そう、あの「招かれざる客」たちが現れるまでは。




 ◇◆◇




 雪解けが始まり、街道が開通した頃。


 王都からの一団が、騒々しい音と共にやってきた。


「開門! 開門せよ! フレデリック王子の命令である!」


 城門を叩く激しい音。


 現れたのは、廃嫡寸前まで追い詰められたフレデリックと、妹のメリナ、そして数十名の騎士たちだった。


 謁見の間に通された彼らは、見るも無残な姿だった。


 フレデリックは目の下にどす黒い隈を作り、髪は整えられておらずボサボサ。


 メリナもかつての「守ってあげたい可憐な少女」の面影は消え失せ、爪を噛みながらヒステリックな表情で周囲を睨みつけている。


「コーデリア! 戻れ! 今すぐ王都に戻るんだ!」


 フレデリックが開口一番、私に向かって叫んだ。


 挨拶もなしに、いきなりの命令。相変わらずだ。


「君がいなくなってから、何もかもが回らないんだ! 書類の場所も分からない、予算の組み方も分からない、他国との交渉の手順も分からない! メリナは何一つできない役立たずだ!」


「ひどい! フレデリック様だって、計算ひとつできないじゃない! 夜会でドレスの手配ミスをして恥をかかせたのは誰!?」


 メリナが金切り声を上げる。


 どうやら、私の抜けた穴は予想以上に大きかったらしい。


 私が肩代わりしていた膨大な実務が雪崩のように押し寄せ、二人の無能さを白日の下に晒したのだ。


 国王陛下からは「コーデリアを連れ戻せなければ廃嫡だ」と最後通告を突きつけられたのだろう。


 彼らの目は血走り、必死そのものだった。


「これは『査察』だ! 辺境伯に反逆の疑いありとして、この場で処断することもできるんだぞ! 嫌ならコーデリアを返せ! 彼女は国の財産だ!」


 フレデリックが剣に手をかけ、玉座のギルバート様を睨みつけた。


 ギルバート様は今日、仮面をつけていない。


 ただ、深くフードを被り、顔を隠していた。


「……私の妻を、返す?」


 ギルバート様が静かに立ち上がった。


 低く、地を這うような声。


「自分たちの無能さを棚に上げ、彼女を道具のように扱い、ゴミのように捨てたのは貴様らだ。……今更、どの面を下げて、彼女を必要だなどとほざく」


「うるさい! 化け物が偉そうに喋るな! 顔を隠してコソコソしやがって!」


 フレデリックが合図を送ると、騎士たちが剣を抜いた。


 一触即発の空気。


 その瞬間。


 ギルバート様が、ゆっくりとフードを外した。


 バサリ、と布が落ちる音。


 露わになったその素顔が、薄暗い謁見の間で白く輝いた。


「――ひっ」


 最前列にいた騎士の一人が、剣を取り落とした。


 フレデリックも、口をパクパクとさせて硬直している。


 あまりの美しさに、脳の処理が追いつかないのだ。


 人間が、あまりに高次元の存在を目にした時に抱く、根源的な畏怖。


 だが、誰よりも劇的な、そしておぞましい反応を示したのは、妹のメリナだった。


「あ……あぁ……っ!」


 メリナの瞳孔が開き、焦点が定まらなくなる。


 彼女の口の端から、ツーっと涎が垂れた。


 彼女はふらふらと、操り人形のようにギルバート様の方へ歩き出した。


「なに……これ……綺麗……嘘、こんなの……」


 彼女の顔から「可憐な妹」の仮面が剥がれ落ち、どす黒い、粘着質な欲望が剥き出しになる。


「欲しい……これ、欲しい! フレデリックなんか要らない! これを頂戴! ねえ、私のお人形になりなさいよぉぉぉッ!」


 メリナが金切り声を上げ、獣のようにギルバート様に飛びかかろうとした。


 その目は完全に狂っている人間のソレだ。


 理性など欠片もない。ただ「美しいモノ」を自分の手で壊し、所有したいという狂気だけがある。


 これが、ギルバート様の言っていた「呪い」。


 心の弱い人間は、彼の美貌を見た瞬間に理性を焼き切られ、独占欲の虜になってしまうのだ。


 ギルバート様が、怯えたように体を強張らせる。


 また、繰り返されるのか。その絶望が彼の顔によぎった時。


 パンッ!


 乾いた音が広間に響いた。


 私が、メリナの頬を思い切り引っ叩いた。


「……私の夫に、薄汚い欲望を向けないで」


 私はギルバート様を背に庇い、仁王立ちになった。


 叩かれたメリナが、呆然と私を見上げる。


「彼は人形でも、道具でもありません。心を持った、一人の人間です。貴女のような、外見しか愛せない浅ましい人間に、触れる資格など欠片もないわ!」


 私の剣幕に、メリナが悲鳴を上げて後ずさる。


 正気に戻ったフレデリックが、「お、お前たち、やれ! そいつらを捕らえろ!」と叫ぶが、騎士たちは動かない。


 いや、動けないのだ。


 ギルバート様が放つ、本物の「強者」のオーラとその美に圧倒されて。


「……コーデリア」


 背後から、ギルバート様が私を抱きしめた。


 震えていた彼の体から、恐怖が消えていくのが分かる。


 私の体温が、彼の呪いを解いたのだ。


「ありがとう。……もう、大丈夫だ」


 彼は私を優しく下がらせると、冷徹な為政者の顔でフレデリックたちを見下ろした。


「国境警備を担う辺境伯への侮辱、および妻への暴力未遂。……これ以上の狼藉は、王子といえど許さない。我が領軍をもって全力で排除する。生きて王都へ帰りたければ、今すぐ消え失せろ」


 その声には、有無を言わせぬ王者の風格があった。


 もはや、ただの美しい人形ではない。


 愛する者を守る覚悟を決めた、一人の男の姿がそこにあった。




 ◇◆◇




 その後、王都へ逃げ帰ったフレデリックとメリナを待っていたのは、完全なる破滅だった。


 彼らがこの城を去った直後、私が事前に王へ送っていた「業務引継書を無視した横領の証拠」と「公務怠慢の記録」が公になったのだ。


 フレデリックは廃嫡され、北の塔へ幽閉。


 メリナは教会へ送られたが、そこで「美しいものを見ると発狂する」という奇病を患い、誰にも会えなくなったと聞く。



 そして、ハルフォード領には、遅い春が訪れていた。


 私は執務室で、山積みの書類と格闘している。


 隣には、同じく書類仕事をするギルバート様。


 彼はもう、仮面をつけていない。


「……コーデリア」


「はい、何でしょう?」


 私が顔を上げずに答えると、不意にペンを取り上げられた。


 顔を上げると、至近距離にあの国宝級の美貌がある。


 慣れたとはいえ、やはり心臓に悪い。


「休憩にしよう。……君の顔が見たい」


 彼は甘えるように私の肩に頭を乗せてくる。


 かつての「悪魔公爵」の面影はどこへやら。


 今の彼は、私にだけその甘えん坊な素顔を見せてくれる、ただの愛妻家だ。


「ふふ。仕方ありませんね。少しだけですよ?」


「一時間頼む」


「三十分で手を打ちましょう」


 私たちは笑い合い、口づけを交わした。


 妹に婚約者を寝取られたあの日、私は確かに不幸だったかもしれない。


 けれど、ゴミだと捨てられた先で、私は世界一の宝石を見つけた。


 そして何より、それを磨き上げ、守り抜く力を、私は持っていたのだ。


 窓の外では、雪解け水が輝き、春の花が咲き誇っている。


 私はギルバート様の美しい瞳を見つめ返し、心から微笑んだ。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました!


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本日1/17より新連載が開始いたしました。

【連載版】無能王子に婚約破棄された瞬間、王国のトップ3に拉致されました。「私の書類を恋人のように撫で回すのはやめてください」逃げ場がないので、国ごと支配することにします。

https://ncode.syosetu.com/n0440lq/


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★毎日短編投稿してます!ゲリラ的に2本投稿する日もございますので、興味のある方は作者マイページよりお気に入り登録していただくか、チラチラと確認していただけると、見逃さずにお読みいただけるかなと思います!

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【こちらもどうぞ!】

無能王子に婚約破棄されたので実家に帰ろうとしたら、王国のトップ3(全員仕事中毒の変態)に拉致されました。「私の書類を恋人のように撫で回すのはやめてください」今さら復縁?私の承認印がないと予算出ませんよ

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【スカッとしたい方へ】

『その聖水、ただの麻薬ですよね?』

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【笑ってキュンとしたい方へ】

『冷徹公爵様の心の声 (テロップ)がピンク色で大暴走している件について』

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【とろとろに甘やかされたい方へ】

『触れるもの全てを殺す『死神公爵』様、なぜか私だけ触れても平気なようです』

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他にも投稿済みの短編がございますので、作者マイページからお好みのものを見つけてご覧いただけると幸いです。

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― 新着の感想 ―
初見で人の依っては狂いだしてしまう程の美貌でも屋敷の人たちは規律で抑えられるの 慣れれたことが凄いのか、これまでの領主の身を削った領地運営を見ていたからなのか それにしても元ゲーの第二王子ルートは地雷…
性格最悪でも美少女をぼろぼろにする王子の無能っプリよ。
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