08
待ち伏せ疑惑のあった元カレは、結局やっぱり待ち伏せというか私の行動圏内の飲み屋を片っ端から回っていたらしい。遭遇して顔が分からず、の衝撃から二ヶ月。季節は冬になり、もうさすがに出会わないだろう―――と思っていたところ、いつものバーに飛んで火に入る夏の虫。
茅夏という客は来ないか、彼女は恋人で喧嘩中で探している。そんなことを朗々と述べる元カレに、マスターと居合わせたコウタさんが全部一刀両断してくれたらしい。いつも通りの金曜日。私が何も知らず店に入った時には、意気消沈しきった元カレがいた。
「え、何してんの?」
「茅夏…! ねえ、」
「ナンパするならこの店向かないよ? 彼女募集中なんでしょ、ほかの店行きなよ」
元カレが何かを言う前に。心底不思議だという顔で小首を傾げれば、とりあえず私が奴の今カノでないことだけは店内に周知できたらしい。ザワザワと、元カレに対しなんだあいつという空気が流れ始める。
「チナツちゃんお疲れ」
「コウタさん! お疲れ様です。今日早いですね?」
「外回りから直帰できたから早いのよ」
「直帰で飲みにって。ブレませんねえ」
するりと元カレの横をすり抜けて、コウタさんの傍へ。退路から離れはするものの、丸腰の一人でいるより、誰かの傍の方が安心出来る。さりげなくコウタさんに庇われるように、いつもより奥まったカウンター席に座らせられた。わざとらしく背中に触れてエスコートするコウタさんの意図は何となく察知したので、それを当たり前のものとして受け入れる。
「チナツちゃん、何飲む?」
「あーどうしよう。この間コウタさんに勧められたの、美味しかったんですよねえ」
「どれ?」
「ダイキリ」
「マスター、俺からチナツちゃんに」
「え、今日も良いんですか?」
「勿論」
スツールに腰を下ろすと、そのままくるりとカウンター側を向くように誘導される。だからそれに便乗して、わざとコウタさんとの話題を絡めながらオーダーをする。そんなふうに話を進めていれば、かたん、と不意に、割と近くで音がした。意識してコウタさんとマスターだけに向けていた顔を上げれば、少しだけ離れたところで、カウンターに手をついた元カレがこちらを見ていた。
「……やっぱり、無理?」
「前も言った通り。復縁は絶対ないし、正直迷惑」
「……分かった。ごめん、しつこくして」
何とは言わない元カレにはっきり告げる。
鬼電の時も、遭遇した時も。このくらいあっさり引いてくれれば良かったのになあ、と思った。そのくらいあっさりと帰っていく元カレのとぼとぼとした歩みから、そっと目線を外す。一応退店する時に、お騒がせしましたと頭を下げて行ったから、最低限もうこの店には来ないんじゃないかと―――それどころか、もう彼とは二度と会わないんじゃないかと、ぼんやりと思った。
「……あれ、鬼電の奴だよな?」
「そうです」
「良かったな、とりあえず」
「……はい。コウタさんも、マスターも、ありがとうございました」
多分元カレの復縁したがっていた心はポッキリ折れた。それを私と同じく察したコウタさんは、深く息を吐いて、しみじみと良かったと言ってくれる。マスターはカウンター越しに、多くは語らず頷いて同意してくれた。そんな二人にスツールの上で精一杯姿勢を正して、頭を下げる。
「えっ、良いってそんな!」
「そうだぞ、チナツはもっと周りを頼れ。変な男捕まえないためにも」
「マスターのその言葉は刺さりますねえ。……でも本当、ありがとうございます。お二人はじめ、色んな方のおかげで私は安心して、変わらず飲み歩けたので」
「……大事な常連だからな」
こういう時は年の功か。コウタさんよりも年上だというマスターの含蓄のある言葉にしっかりと頷く。照れくさくなったのかちょっと茶化すようなマスターの言葉に思わず笑みがこぼれた。
「コウタさん、私からも奢るんで何か、どうぞ」
「え、良いの?」
「お礼です。まあ、私も一杯目奢ってもらっちゃってますけど」
じゃあ折角だからお言葉に甘えて、とビールを頼むコウタさん。二人分の酒が揃ったところで乾杯する。
「今宵は祝杯ですねえ」
「何だかんだ振り回されたもんな、チナツちゃん」
「まあ…そうですね。振り回されたというか逃げてたというかですけど」
「戦略的撤退ってやつだろ」
「それはそう」
ペールブルーのカクテルは、口当たり柔らかに喉に吸い込まれていく。美味しい。好きな酒リストにダイキリは堂々のリストイン決定だ。味わいながら飲む私の横で、一口にほぼ半分を飲むコウタさんの飲みっぷりが気持ちいい。
「気に入った?」
「気に入りました。そうそう、だいぶ前ですけどこの間結局アイス食べ行ったの、話しましたっけ?」
「お、行ったの?」
「ダイキリっぽいやつは季節ものでなかったんですけど、チョコミントは食べました!」
「良いな。俺も久しぶりに行こうかな」
「ぜひぜひ。やっぱりたまに食べたくなりますよねえ」
「分かる」
つまんでおけ、とマスターがドンとカウンターに置いたナッツをつまみつつ、コウタさんとアイス談義をする。新しいフレーバーが増えすぎていて、何を食べるか悩んだ話やらなんやら。中身なんてない会話が、元カレを見た瞬間、無意識に強ばっていたらしい身体をゆっくり解してくれるようだった。
「この辺て店あったっけ?」
「あー三駅先ですね。多分、一番近いのは」
「…あ、これ?」
「そうですそれです。この間行ったのもここですよ」
「へー。結局一人で行ったの?」
「はい」
「ふうん……」
ふむ、とコウタさんは顎先に指をかけて何かを思案している。骨ばった長い指、手が綺麗な人だなあとぼんやり眺める。もう少しで空きそうなグラスに、次は何を頼むかと意識を遠くにやりながらコウタさんのリアクションを待った。
「チナツちゃん、土日どっちか、暇?」
「今週です?」
「そう。明日か明後日」
「んー…明日なら空いてますけど、どうしました?」
眉を少し下げてこちらを見遣るコウタさんの表情は珍しい。困ったような笑い顔に何事かと思いつつ予定を思い出す。日曜日はネイルとマツパの予約と、それから夜は友達と会う予定がある。土曜日は溜まった家事を片そうかとは思っていたものの、取り立てて急ぎという訳でもない。
明日なら、と伝えれば、目に見えて分かりやすくコウタさんの笑みが深くなる。チナツちゃんさえ良ければ、と声を落として、コウタさんはカウンターに片肘をついてこちらを覗き込んできた。
「土曜日、俺に頂戴?」
断られるとは微塵も思ってなさそうな表情。表情と声音はわざとらしく色めいていて、これで何人落としたんだろうかとすら思ってしまう。にっこりと優しげに笑っているけれど、瞳はニヤニヤと愉快犯っぽい色を乗せている。からかわれている。その眼差しに、分かりやすい人だなあ、とわざと嘆息して見せた。
「アイス、食べに行きたいんですね?」
「ご明察! いやあ、なんか男一人でアイス買い行くの、なんかさあ……」
「恥ずかしい?」
「そう。なんでもないのになんかちょっとね。って事で付き合ってくれない? チナツちゃん」
「……まあアイスの話したのは私ですからね。良いでしょう」
今日はまだアヤネとユナが来ていなくて、本当に良かった。アヤネは確か珍しく遅番出勤で、ユナは合コンと言っていた。ユナはともかくアヤネは早ければあと三十分もすれば来るだろうか。
私とコウタさんが飲むのには何も言わなくなったけれど、コウタさんの絡みが合わないのか、割とアヤネはコウタさんに反発している率が高い。ユナはジェネレーションギャップに空気を凍らせまくっているだけだからいいものの、アヤネはコウタさんが苦手らしい。まあ軽快に話がポンポン弾むので私みたいに相手マターで会話したいタイプにはいいものの、 そうでないタイプからするとノリに上手く乗っかれない限り難しいのだろう。アヤネが来る前にぱぱっと待ち合わせについて予定をまとめてしまう。
「……さて」
「次何飲むの?」
「悩んでるんですよねえ。オススメあります?」
「……酒で甘ったるいの苦手なんだっけ?」
「なんか苦手なんですよね。甘いものも好きだし、日本酒はむしろ甘口が好きなんですけど」
「うーん…あ、じゃああれいいんじゃん?」
「あれとは…?」
空になったグラスを前に腕組みしていれば、コウタさんがマスターに何事かを伝えている。私のオーダーなんだけどなあ、とも思うものの、今のところコウタさんが私の好みを外してきたことがないのでお任せしてしまう。味覚を把握されている相手と飲むのはとにかく楽だ。マスターがあまり触らないリキュールの棚の方にのっそりと歩き出すのを見て、コウタさんに視線を戻す。
「どんなのが出てくるんですか?」
「俺、ベースのリキュールしか言ってないから俺も分かんない」
「テキトーだ…」
「まあマスターなら間違いないでしょ」
「それはそうですけども」
マスターがシェイカーを振るのを眺めながら、最近は割と見るようになったなあ、と思う。私が新たに選ぶ選択肢が増えたことが主な要因ではあるのだけれども。
「ほぼスイーツなやつ」
「スイーツ…?」
ちょっといかつい風貌のマスターから差し出されたとは思えない。ふわふわのミルク? が乗っていてオシャレなカフェメニューみたいなグラスがサーブされて、目を瞬かせる。
「飲んでみたら分かる」
「はあ…」
コウタさんはベースのリキュールを指定したと言っていたからある程度の予想はついてるんだろう。はて、と思いながら口にする。
チョコのような甘さとミルクのまろやかさ、鼻を抜けるウィスキーの香り。甘いけれど甘ったるくない。あっさりしているという表現が合うか分からないけれど、そんな甘さ。とにかくふわっと鼻に抜けるウィスキーの香りが美味しくて楽しい。甘いカクテルは胃もたれしたり悪酔いする…なんて印象のあった私には衝撃の味だった。
「……え、めっちゃ美味しい」
「お、当たり?」
「めっちゃ好きですこれ! マスター美味しい!」
「おう。良かった」
上がるテンションのままもう一口。スイーツと言われたのがわかる。鼻に抜けるウィスキーの香りがなかったらカパカパ飲んでそのまま潰れても仕方ないと思うくらい美味しい。あとミルク系の甘いカクテルへの概念が崩された。こんなにすっきりした甘さのカクテルがあるなんて!
「これ、なんてリキュールがベースなんですか?」
「ベイリーズ。アイリッシュウィスキーがベースのやつ」
「これの香りが嫌じゃないなら、ウィスキーベースのカクテルもいけるんじゃないか?」
私の食いつきが予想より良かったのか、目をきらきらさせているであろう私に負けず劣らずのキラキラ具合で、コウタさんがリキュールの名前を教えてくれる。急いでスマホを取りだして調べておいた。家に常備したいくらい美味しい。もっとも、このカクテルだから美味しいというのも有り得る話なので後でマスターに、常備して飲み切れるリキュールかは聞くことにする。
私がきゃあきゃあとカクテルに感動しているのを傍目に、これが飲めるなら…とマスターは何やらウィスキーの瓶を何本か物色していた。ウィスキーの香りがこんなに美味しいと、いい香りだと思うなんて初めてだ。ウィスキーは多分酒の飲み始めの頃、とりあえず手当り次第に全部飲んで、何が好きか探った時以来飲んでいないと思う。そう思うと、多少なり味覚が変わったのかもしれない。
「チナツちゃん、楽しそうだな」
「ふふ…知らない味を知れるのって楽しいですからね」
ありがとうございます、満面の笑顔で伝えれば、コウタさんは目をまん丸く見開く。それから、ふっと視線を和らげて微笑んでくれた。どういたしまして、と軽く打ち付けられたグラスを掲げて、もう一口。
酒クズへの道真っ只中だなあなんてぼんやりと思う私の隣に、残業帰りのアヤネが瀕死状態で滑り込んでくるまであと五分。




