我々は最善を選んだはずだった。だが、勇者と聖女を駒としか見なかった結果、国は滅びかけている
余はアークライト王国国王、ゲオルグ・フォン・アークライト。玉座に座し、この国を治める者である。隣には、余の腹心であり、神殿を統べる大神官アウグストゥスが、いつもと同じように無表情で控えている。
だが、玉座の間を満たす空気は、いつものような厳かなものではなく、焦燥と絶望が入り混じった、淀んだものだった。
「陛下! 北方方面軍より緊急の報告です! 魔王軍の新たな軍団長『氷嵐のヴァルガ』の猛攻により、防衛線が突破されました! このままでは、王都まで一週間もたないやもしれません!」
伝令兵の悲痛な叫びが、がらんとした玉座の間に虚しく響く。またか、と余は嘆息した。ここ数ヶ月、このような凶報を聞かない日はない。
かつて鉄壁を誇った我が国の防衛網は、まるで砂の城のように、魔王軍の攻勢の前に次々と崩れ去っている。
「大神官、何か手はないのか」
余の問いに、アウグストゥスは静かに首を振った。
「陛下。もはや、我々に打てる手はございません。すべては、我らの計画が、あの勇者パーティの失敗によって頓挫したことに起因します」
その言葉に、余は苦々しく顔を歪めた。
勇者と聖女。
それは、我が国が何世代にもわたって維持してきた、魔王に対抗するための「システム」の根幹だった。
勇者の家系であるアークライト公爵家から、聖剣に選ばれし者を輩出する。聖女の家系であるリリエール公爵家から、神殿がその時代で最も強い聖力を持つ娘を選び出す。そして、その二人を結びつけ、民の希望の象徴とし、魔王討伐の任に当たらせる。
今回も、その計画は完璧に進むはずだった。
勇者カイエンは、余の甥であり、歴代でも屈指の才能を持つとされた。聖女セラフィナもまた、その美貌と聖力は過去最高と謳われた。この二人を組み合わせれば、今度こそ長きにわたる魔王との戦いに終止符が打てる。余も、大神官も、そう確信していた。
「聖女は勇者に尽くし、その心を繋ぎ止め、魔王討伐の悲願を達成するための道具たれ」
我々は、幼い頃からセラフィナ嬢にそう言い聞かせてきた。彼女個人の感情など、国の安寧の前には些細なこと。彼女には、カイエンを支え、その力を最大限に引き出すための「装置」としての役割を全うしてもらう必要があった。彼女がカイエンに好意を抱いていないことなど、我々はとうに気づいていた。だが、それは問題ではなかった。国のためだ。個人の感情は殺して当然。それが、高貴なる者の務めである。
途中、戦力増強のために一人の戦士をパーティに加えた。辺境の傭兵上がりで、出自は卑しいが、その戦闘能力は凄まじいと報告を受けていた。一個人で竜鬼の部隊を殲滅したという噂は、にわかには信じがたいものだったが、背に腹は代えられぬ。カイエンの「盾」として利用価値はあるだろうと、我々は判断した。
事実、その戦士――ライナス・フォルカーとか言ったか――が加入してからの勇者パーティの進軍速度は目覚ましかった。余りにも順調に進む戦況に、我々は勝利を確信し、祝杯の準備を始めていたほどだ。
だというのに。
「まさか、あの土壇場で聖女が勇者を見捨てるとはな……」
余の呟きに、大神官が静かに続けた。
「そして、その元凶となったのが、我々がただの『盾』としか見ていなかったあの戦士だったとは。皮肉な話でございます」
報告によれば、あの戦士は魔王城を目前にしてパーティを脱退した。そして、その直後からパーティは崩壊を始めたという。魔王に惨敗し、逃げ帰ってきたカイエンは、もはや勇者の面影もないただの廃人となった。そしてセラフィナ嬢は、聖女の地位を返上し、姿をくらました。
我々の計画は、完全に破綻したのだ。
玉座の間に、新たな伝令が駆け込んできた。先ほどよりも、さらに血相を変えている。
「申し上げます! 王都近郊のグリューネワルトの森に、魔王軍幹部『百腕の巨人』が出現! 騎士団だけでは抑えきれません!」
「なんだと!?」
グリューネワルトの森は、王都の喉元だ。そこを突破されれば、王都は直接攻撃に晒される。
もはや、万事休すか。余が玉座の肘掛けを強く握りしめた、その時だった。
伝令兵が、信じられない、といった様子で言葉を続けた。
「それが……森に、所属不明の二名の男女が現れ、交戦を開始した、と!」
「二名だと? 狂気の沙汰だ! すぐに騎士団を撤退させよ!」
百腕の巨人は、かつて勇者パーティがライナスという戦士の力を借りて、ようやく撃退したほどの強敵だ。たった二人で立ち向かうなど、自殺行為に他ならない。
しかし、伝令兵は興奮した様子で首を振った。
「いえ、それが……! その二名が、百腕の巨人を圧倒している、と! 一人は、女神のような美しい女性の癒しの光に守られ、もう一人の黒髪の剣士が、鬼神のごとき剣技で巨人の腕を次々と斬り落としている、と!」
黒髪の剣士。女神のような女性。
その言葉に、余と大神官は顔を見合わせた。まさか。
「その者たちの名を、誰か知る者はいないのか!」
大神官が鋭く問う。伝令兵は、ゴクリと唾を飲み込み、震える声で答えた。
「は……はい。辺境の村から来た避難民が、その二人を知っていると……。彼らは、その二人をこう呼んでおりました」
「『伝説の剣鬼』ライナスと、『慈愛の聖女』セラフィナ、と……!」
ライナス。セラフィナ。
我々が見捨て、駒として扱った二人の名前。
彼らが、今、この王都を救っているというのか。
呆然とする我々の元に、さらなる報告が舞い込む。
先ほど凶報が伝えられたばかりの北方戦線。突破されたはずの防衛線で、魔王軍が謎の壊滅を遂げたという。生き残った兵士たちの証言は、どれも同じだった。
「どこからともなく現れた黒髪の剣士が、たった一人で、氷嵐のヴァルガを一刀両断にした」
―――我々は、とんでもない間違いを犯していたのかもしれない。
我々が「盾」としてしか見ていなかった男は、勇者カイエンを遥かに凌ぐ、真の英雄だったのではないか。
我々が「道具」として縛り付けようとした女は、その英雄の隣に立つことで、真の聖女としての力を発揮する存在だったのではないか。
我々は、数字と家柄しか見ていなかった。人の心という、最も重要で、最も強大な力となりうるものを見ようとしなかった。勇者と聖女という「役割」に固執するあまり、ライナスとセラフィナという二人の「個人」が持つ、無限の可能性を見過ごしたのだ。
我々が築き上げた歪んだシステムが、彼らを引き裂き、そして結果として、この国を滅亡の淵に追いやった。
「陛下……」
大神官が、かすれた声で呟く。
「彼らに……我々は、何をすることができるでしょうか」
何ができる? 何もできない。
我々は彼らを裏切ったのだ。今さらどの面を下げて、助けを乞えるというのか。
余は、ゆっくりと立ち上がると、玉座の間の窓から、グリューネワルトの森の方角を眺めた。遠くで、巨大な何かが倒れる地響きが、微かに伝わってきた。
「……ただ、祈るだけだ」
余は、生まれて初めて、神にではなく、二人の人間に祈りを捧げた。
我々が捨てた英雄と聖女が、我々の愚かさを許し、この国を見捨てないでくれることを。
だが、心のどこかで分かっていた。
たとえ彼らが国を救ったとしても、彼らがこの玉座の間に戻ってくることは、二度とないだろう。
我々は最善を選んだはずだった。だが、その選択は、国を救う真の宝を、自らの手でドブに捨てるという、史上最悪の愚行に他ならなかったのだ。
崩壊していく自国を前に、王である余と大神官は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。




