私が仕えた勇者様は、最強の盾を嫉妬で追い出し、聖女様の心を弄んだ愚か者でした
私の名前はリディア。王宮に仕える魔法使いであり、かつて勇者カイエン様のパーティに所属していた者です。
今、私は故郷の街へ帰るための馬車に揺られています。惨めに敗走した魔王討伐の旅から解放され、安堵している自分がいる一方で、心の大部分は、後悔と無力感、そして、今もどこかで戦い続けているであろう二人の仲間への想いで占められていました。
勇者パーティへの参加を命じられた時、私は心から誇りに思いました。国で最高の栄誉。歴史に名を残す偉業に携われるのだと。
パーティのリーダーである勇者カイエン様は、物語から抜け出てきたような方でした。輝く金髪に自信に満ちた碧眼。彼が聖剣を振るえば、どんな魔物も光の中に消えていく。聖女セラフィナ様は、天上の女神が地上に降り立ったかのような、息をのむほどの美しさと慈愛に満ちた方でした。
完璧なパーティ。私たちは必ずや魔王を討ち滅ぼし、世界に平和をもたらすだろうと、誰もが信じて疑いませんでした。
しかし、旅を進めるうちに、私たちは壁にぶつかりました。魔王軍の幹部クラスが相手になると、カイエン様の力だけでは押しきれず、後衛にいる私や僧侶のギデオンが危険に晒される場面が増えてきたのです。カイエン様はプライドが高い方なので、口には出しませんでしたが、彼の焦りは手に取るように分かりました。
そんな折、パーティに一人の男が加わりました。
戦士、ライナス・フォルカー。
それが、私たちの運命を大きく変える出会いでした。
彼の第一印象は、お世辞にも良いものとは言えませんでした。無口で、無愛想。何を考えているか分からない灰色の瞳は、どこか近寄りがたい雰囲気をまとっていました。辺境の傭兵上がりという経歴も、貴族出身者が多い私たちの中では異質でした。
ですが、彼の実力は本物でした。いえ、本物という言葉すら生ぬるい、規格外のものでした。
彼が巨大な塔盾を構えて前線に立つだけで、戦場は一変しました。それまで私たちを苦しめていた魔物の群れの猛攻が、まるで嘘のようにぴたりと止むのです。荒れ狂う嵐の海に、突如として巨大な防波堤が現れたかのようでした。
彼は決して派手な技を使うわけではありません。ただ、敵の攻撃を読み、的確な位置に盾を滑り込ませ、受け流し、弾き、そして最小限の動きで敵の急所を的確に貫く。その一連の動きは、もはや武術というより芸術の域に達していました。
彼がいるだけで、私とギデオンは詠唱や祈りに完全に集中することができました。カイエン様も、雑魚の相手をすることなく、大物だけを狙うという「勇者らしい」戦い方ができるようになったのです。
私たちは、ライナスという絶対的な「盾」を得て、再び快進撃を始めました。誰もが口には出しませんでしたが、分かっていました。このパーティの要は、勇者カイエン様ではなく、戦士ライナスなのだと。
同時に、私はもう一つの変化にも気づいていました。
それは、聖女セラフィナ様の、ライナスさんを見る目です。
セラフィナ様は、いつもカイエン様に付きまとわれていました。カイエン様はセラフィナ様を自分の所有物か何かのように扱い、人前でも平気で体に触れたり、軽薄な言葉をかけたりしていました。セラフィナ様は聖女というお立場から、それを無下にできず、いつも困ったように微笑んでいましたが、その笑顔の裏に深い憂いと疲労が滲んでいることに、女性である私は気づいていました。
そんなセラフィナ様が、唯一、安らぎの表情を見せるのが、ライナスさんといる時でした。と言っても、二人が親密に話すわけではありません。戦闘後、傷だらけになったライナスさんをセラフィナ様が治癒する。ただそれだけの時間です。
「また、無茶をしましたね、ライナス」
「……問題ない」
会話はいつもそれだけ。でも、ライナスさんの傷に触れるセラフィナ様の指先はひどく優しく、心配そうな彼女の声に、ライナスさんの強張った表情がほんの少しだけ和らぐのです。そして、ライナスさんもまた、セラフィナ様が他の誰かに見せることのない、熱のこもった、それでいてどこか切なげな視線を向けていることにも、私は気づいていました。
(ああ、この二人は……)
きっとお互いに惹かれ合っているのだと、すぐに分かりました。けれど、あまりにも不器用で、立場に縛られた二人。そのもどかしい関係を、私はただ見守ることしかできませんでした。
しかし、この微妙な空気の変化に、最も敏感に、そして最も醜い形で反応したのがカイエン様でした。
彼は、ライナスさんのセラフィナ様への想いに気づいたのです。そして、おそらくは、ライナスさんの実力への嫉妬も相まって、幼稚な嫌がらせを始めました。
わざとライナスさんに見せつけるように、セラフィナ様の肩を抱く。髪に触れる。腰に手を回す。そのたびに、ライナスさんは黙って拳を握りしめ、セラフィナ様は胸を痛めているのが、私にも伝わってきました。パーティの空気は、日に日に悪くなっていきました。
そして、運命の夜。魔王城を前にした野営地で、カイエン様は決定的な一言を放ちました。
「なあ、セラフィナ。魔王を倒したら、俺と結婚してくれるよな?」
それは、ライナスさんの心を折るには十分すぎる、残酷な言葉でした。
衝撃で声も出せずに俯いてしまったセラフィナ様の沈黙を、ライナスさんが肯定と受け取ってしまったのが、痛いほど分かりました。彼の瞳から、すうっと光が消えていく瞬間を、私は見てしまったのです。
あの時、私が何か言えばよかったのでしょうか。「セラフィナ様はそんなこと望んでいません!」と。でも、勇者であるカイエン様に逆らうことなど、王宮仕えの私にはできませんでした。その臆病さが、取り返しのつかない結果を招いたのです。
翌朝、ライナスさんはいなくなっていました。
彼が去った後の旅は、地獄そのものでした。鉄壁の盾を失った私たちは、ただの烏合の衆でした。魔王との戦いは、戦いですらありませんでした。カイエン様は赤子のようにあしらわれ、恐怖のあまり、あろうことかセラフィナ様を盾にしようとしたのです。
「お前が前に出ろ! 時間を稼げ!」
あの時のカイエン様の醜い形相と、それを見たセラフィナ様の、すべてを諦めたような、氷のように冷たい瞳を、私は一生忘れないでしょう。
結局、私たちは惨敗しました。勇者は再起不能の重傷を負い、聖女は自らの地位を捨て、どこかへ去って行きました。そして私は今、こうして故郷に帰る馬車の中にいます。
数日前、旅立つ前に、私はカイエン様の療養施設を訪ねました。彼はすべてを失い、抜け殻のようになっていました。私は、彼にすべての真実を告げました。セラフィナ様が本当に想っていたのはライナスさんだったこと。彼の嫉妬が、すべてを壊したのだということ。彼は私の言葉を信じられないようでしたが、それでよかったのです。彼には、自分が犯した罪の重さを、一生背負って生きていってもらわなければなりません。
馬車の窓から、流れる景色を眺めます。
そういえば、最近、奇妙な噂を耳にしました。北の辺境で、たった二人で魔王軍を退けている「女神を連れた剣鬼」がいる、と。
その噂を聞いた時、なぜか私の胸は温かくなりました。
きっと、あの二人なのだと、確信にも似た予感があったからです。
不器用で、すれ違ってばかりだった二人。彼らがようやく手を取り合えたのなら、それ以上の喜びはありません。
私は、もう彼らの旅に同行することはできません。でも、心から祈っています。
どうか、あなたたちの行く先に、幸多からんことを。
かつて私の仲間だった、最強の戦士と、心優しき聖女へ。
あなたたちが紡いでいく新しい伝説を、私は片田舎の魔法使いとして、静かに見守り続けようと思います。
それが、あの時何もできなかった私にできる、唯一の償いなのですから。




