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聖女様に恋した俺は死ぬ気で最強の戦士になった。でも彼女は勇者の恋人だったから、俺は静かにパーティを抜けることにした。  作者: ledled


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第一話 寡黙な戦士の絶望と、すれ違う聖女の祈り

地響きとともに、千年を生きた古代樹竜エンシェント・トレントドラゴンの剛腕が振り下ろされる。その一撃は城壁すら容易く砕くと言われ、土と腐臭を撒き散らしながら、勇者パーティの頭上に死の影を落とした。


「詠唱が間に合わない!」


魔法使いのリディアが悲鳴のような声を上げる。


「くそっ、俺の聖剣でも怯みもしない!」


勇者カイエンが悪態をつきながら後方へ跳んだ。彼の放った光の斬撃は、分厚い樹皮に弾かれ、ほとんどダメージを与えられていない。後衛に控える僧侶と魔法使いに、巨木の腕が迫る。誰もが死を覚悟した、その瞬間。


轟音。


鋼と岩がぶつかり合うような、耳をつんざく音が響き渡った。土煙が晴れると、そこには微動だにしない一つの影があった。黒曜石の髪を揺らし、灰色の瞳で静かに前を見据える戦士、ライナス・フォルカー。彼が構える巨大な塔盾タワーシールドが、古代樹竜の渾身の一撃を、その身一つで完全に受け止めていた。


「ライナス!」


聖女セラフィナの悲鳴にも似た声が森に響く。しかし、ライナスは答えない。盾を構えた彼の腕は震えるどころか、むしろ大地に根を張ったかのように安定している。彼はただ、仲間たちを背にかばい、目の前の脅威を睨みつけるだけ。まるで、喋る機能と思考する能力のすべてを、ただ敵を滅ぼし、仲間を守るという一点にのみ注ぎ込んでいるかのようだった。


「……前衛は、俺一人でいい」


低く、地を這うような声が初めて彼の口から漏れた。古代樹竜が次なる攻撃に移るよりも早く、ライナスは地面を蹴る。常人なら持ち上げることすら困難な大剣を、まるで枝を振るうかのように軽々と薙ぎ払った。その一閃は、竜の硬い脚を断ち割り、巨大な体躯をぐらつかせる。


その隙をパーティは見逃さない。魔法使いの最大火力呪文が炸裂し、勇者の聖剣がようやく光を取り戻す。だが、誰もが理解していた。この戦線の維持は、たった一人の戦士、ライナス・フォルカーという男の、常軌を逸した頑強さと膂力によってのみ成り立っているということを。


数時間に及ぶ死闘の末、古代樹竜はついにその巨体を大地に横たえた。生き残った魔物たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていく。


「はーっ、マジで死ぬかと思ったぜ! さすが俺たちだな!」


カイエンが息を切らしながらも、わざとらしい笑顔で剣を掲げる。だが、彼の鎧はほとんど傷一つついていない。対照的に、ライナスの全身鎧は至る所が砕け、ひしゃげ、彼の体からはおびただしい量の血が流れていた。それでも彼は、地に膝をつくことなく、静かに佇んでいた。


「ライナス! 大丈夫ですか!?」


一番に駆け寄ってきたのは、聖女セラフィナだった。光を編んだような白銀の髪を揺らし、その美しい顔を心配に歪ませている。彼女がライナスの傷だらけの腕にそっと触れると、温かく柔らかな光が溢れ出し、裂けた傷口がみるみるうちに塞がっていく。


「……問題ない」


ライナスは、彼女の顔を見ることなく、短くそう答えた。彼の心臓は、憧れの女性に触れられているというだけで、今にも破裂しそうなほど激しく脈打っている。顔が熱い。この感情を悟られてはならない。彼はただ、目の前の地面を見つめることで、表情筋のすべてを固定していた。


「問題ないわけがありません! こんなに深い傷を……あなたはいつも無茶ばかりする」


セラフィナの蒼い瞳が悲しげに揺れる。その声色に含まれた純粋な心配が、ライナスの胸を締め付けた。彼はこの温かさに触れる資格などないのだと、自分に言い聞かせる。


「俺の役目だ」


それだけ言うと、彼は治癒が終わるのを待たずに彼女から距離を取った。これ以上近くにいると、隠し続けてきた醜い感情が溢れ出してしまいそうだったからだ。背後でセラフィナが何かを言いたげに立ち尽くしている気配を感じながらも、ライナスは一度も振り返らなかった。


その夜、一行が宿を取った街は、勝利の報に沸き立っていた。勇者パーティの武勇伝は酒の肴となり、吟遊詩人によって大げさに歌われる。カイエンは上機嫌で酒場の中心に座り、人々の賞賛を浴びていた。


ライナスは、そんな喧騒を避けるように一人、割り当てられた簡素な部屋で、血と泥に汚れた大剣を手入れしていた。月明りが、研ぎ澄まされた刃を鈍く照らす。彼は静かに目を閉じ、三年前の光景を思い出していた。


辺境の村で生まれ育った、ただの青年だった。徴兵で王都に赴き、その雑踏の中で見た光景が、彼の人生のすべてを変えた。

貧民街の片隅。病と貧困に喘ぐ人々の中に、彼女はいた。聖女セラフィナ・リリエール。その身にまとった純白の法衣は一点の汚れもなく、まるで泥の中から咲いた一輪の聖なる花だった。彼女は身分の貴賤も、種族の違いも問わず、傷ついた者すべてに等しくその手を差し伸べ、慈愛に満ちた光で彼らを癒していた。


その姿は、ライナスの目には神そのものに映った。

天上の存在。手の届かぬ光。

その瞬間、彼の魂に一つの灼けつくような願いが刻まれたのだ。


――あの人の隣に立ちたい。あの人を守れる、ふさわしい男になりたい。


その日を境に、ライナスは人間であることをやめた。眠る時間も食事の時間も惜しみ、すべてを鍛錬に注ぎ込んだ。限界を超え、血反吐を吐き、意識を失うまで剣を振るい続けた。実戦を求め、最も危険な戦場に傭兵として身を投じた。味方からは「狂戦士」と畏れられ、敵からは「歩く災厄」と恐れられた。死の淵を何度も歩き、いつしか彼の武勇は王国中に轟くことになる。


そしてついに、念願は叶った。魔王軍の攻勢に苦しんでいた勇者パーティの戦力増強のため、白羽の矢が立ったのだ。王国最強と噂された彼に。

パーティへの参加を許された日、彼は生まれて初めて嬉し涙を流した。これでやっと、あの人の盾になれるのだと。


だが、現実は残酷だった。


「セラフィナ、今日の戦闘で少し髪が乱れてるぞ。俺が直してやろう」


宿の共有スペースから、カイエンの明るい声が聞こえてくる。ライナスの動きが、ぴたりと止まった。


「いえ、勇者様、そのようなことは……自分で行いますから」


セラフィナの困惑した声が続く。


「いいから。聖女様がいつも完璧でいてくれないと、俺のモチベーションが下がっちゃうからな。これも魔王討伐のためだ」


カイエンはそう言って、軽薄に笑いながら彼女の白銀の髪に指を絡める。セラフィナはそれ以上抵抗することなく、ただ困ったように微笑むだけだった。その光景を、部屋の扉の隙間から見てしまったライナスの胸を、冷たい刃が貫いた。


二人は、恋仲なのだ。


誰もがそう噂していた。勇者と聖女。物語の主役として、これ以上なくお似合いの二人。ライナスも心のどこかで分かってはいた。だが、認めたくなかった。彼の三年間は、この光景を目にするためにあったのか。最強の戦士になった結果が、これなのか。

彼の努力は、初めから意味などなかった。たどり着いた場所は、彼女の隣ではなく、彼女と彼女の恋人を見守る、ただの護衛の立ち位置だった。


絶望が、彼の全身を支配する。だが、彼は奥歯を強く噛みしめた。

違う。意味がなかったわけではない。

俺の想いなど、どうでもいい。この力が、彼女が悲願を達成するまでの助けになるのなら。彼女が愛する男と共に、笑顔でいられる未来を守れるのなら。

それでいい。俺は、彼女の幸せのための剣であり、盾となろう。この想いは墓場まで持っていく。


ライナスは静かに瞳を閉じ、込み上げるすべての感情を心の奥底に沈めた。灰色の瞳が、再び何の感情も映さない無機質な色に戻る。


それからの日々、ライナスはより一層寡黙になった。彼は戦場で誰よりも多くの傷を負い、誰よりも多くの敵を屠った。仲間が危険に晒されれば、その身を投げ出して盾となり、カイエンが仕留め損なった敵がいれば、背後から音もなくその首を刎ねた。彼の働きによって、パーティの進軍速度は飛躍的に上がった。


だが、彼の心は日に日にすり減っていく。カイエンは、ライナスがセラフィナに向ける密かな視線に気づいていた。そして、その視線を嘲笑うかのように、わざと人前でセラフィナに馴れ馴れしく接するようになった。


「セラフィナ、疲れただろう? 俺の隣に来て休めよ」

「ほら、口元にソースがついてる。子供だなあ」


そのたびに、セラフィナは困惑しながらも、勇者であるカイエンを無下にはできず、曖昧な笑みを浮かべるしかない。そしてライナスは、その光景から目を逸らし、ただ黙って拳を握りしめる。


セラフィナは、そんなライナスの変化に気づいていた。当初は、ただ口数の少ない強い戦士としか思っていなかった。だが、共に旅を続けるうち、彼の本当の姿が見えてきた。彼は決して冷酷なのではない。誰よりも優しく、不器用なだけなのだ。どんな激戦でも、必ず後衛である自分たちを守るように立ち、自分に向けられる攻撃をすべてその身に受け止める。その広い背中が、どれほど頼もしく、安心できたことか。


いつしか、彼女の心はカイエンではなく、寡黙な戦士ライナスに惹かれていた。彼が時折向ける、熱のこもった視線。それに気づくたびに、彼女の胸は甘く痛んだ。しかし、カイエンとの一件のあと、その視線が悲しげに逸らされるようになったことにも気づいていた。

(違うのです、ライナス。私が心惹かれているのは……)

聖女という立場、そして「勇者に尽くせ」という国王と神殿からの無言の圧力が、彼女から本心を語る自由を奪っていた。カイエンに馴れ馴れしくされるたび、ライナスが傷ついた瞳をしているのが分かり、彼女の心は罪悪感で張り裂けそうだった。すれ違う想いが、二人を静かに苦しめていた。


そして、運命の夜が訪れる。

魔王城を目前にした最後の野営地。揺らめく焚火を、パーティの全員が囲んでいた。決戦を前に、誰もが口数少なく、緊張した面持ちでいる。そんな静寂を破ったのは、やはりカイエンだった。


「なあ、みんな聞いてくれ」


彼は立ち上がると、隣に座っていたセラフィナの肩をぐっと引き寄せ、その細い腰に腕を回した。セラフィナが驚いて身を強張らせる。


「明日、俺たちが魔王を倒したら……」


カイエンは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、ライナスを一瞥した。その目は、明確な侮辱と挑発の色を宿していた。


「セラフィナ、俺と結婚してくれるよな? 国王陛下もそれを望んでいる。勇者と聖女の結婚は、この国に永遠の平和をもたらす象徴になるんだ」


その言葉は、雷鳴のようにライナスの頭上で轟いた。

時間が、止まる。

世界の音が、消える。

ライナスの灰色の瞳が、ゆっくりとセラフィナに向けられた。彼女はカイエンの腕の中で、衝撃と嫌悪に顔を青ざめさせ、何も言えずに俯いていた。声が出ないのだ。あまりに突然の、そしてあまりに横暴な宣言に、彼女は思考を停止させられていた。


だが、その沈黙を、ライナスは肯定と受け取ってしまった。

ああ、そうか。やはり、そうだったのか。国王陛下も望んでいる。国が決めたことなのだ。俺のような辺境の村人が、入り込む余地など、初めから万に一つもなかったのだ。


ぷつり、と。

彼の心の中で、かろうじて繋ぎ止められていた最後の糸が、音を立てて切れた。

彼の瞳から、最後の光が消え失せた。もう、何も感じない。痛みも、悲しみも、絶望すらも。ただ、底なしの虚無が広がっているだけだった。


その夜。

パーティの全員が寝静まった頃、ライナスは一人、静かに身支度を整えた。そして、小さな羊皮紙に、震える手で短い言葉を書き記す。


『一身上の都合により、パーティを抜ける。これまでの働きに相応しい報酬は、すでにいただいた』


書かれた文字は、彼の心情とは裏腹に、驚くほど冷静で、綺麗だった。彼はそれをカイエンのテントの入り口にそっと置くと、誰にも告げることなく、闇の中へと姿を消した。


彼の役目は、終わった。これ以上、二人の幸せな未来をすぐ側で祝福し続けるなど、彼には到底できそうになかったから。

白銀の髪の聖女への、報われることのなかった恋心。それを雪の下に埋めるように、彼はただひたすらに、北へ、北へと歩き続けた。

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