最終話 2秒間の努力
休日の午後。
俺の部屋には、教室の前の席の吉田と隣の席の神谷が来ていた。
テレビの前には三人分のコントローラー。
ゲームの効果音と笑い声が、狭い六畳間に響いている。
「お前さ、最近、時田さんとよく一緒にいるよな?」
唐突に吉田が言った。
画面の中では、俺のキャラが吹っ飛ばされてKOされる。
「……げっ、今の反則だろ」
「いやいや、それよりさ~、マジで仲いいじゃん。もしかしてさぁ」
にやにやしながら吉田が肘で突いてくる。
「そ、そんなことないって」
「ふむ……」
神谷が眼鏡を指で押し上げ、レンズに光を反射させた。
そのポーズだけで妙に説得力があるのがずるい。
「もしや間野くん――これは恋、では?」
「お前まで何言ってんだよ!」
思わず声が裏返った。
吉田は「ほら見ろ!」と爆笑しながら畳を叩く。
仕方ない。観念した。
「……まあ、好きなんだと思う。うん」
二人が一瞬だけ静かになった。
次の瞬間、吉田が真顔でうなずいた。
「いいじゃん。認めたならあとはいくだけだろ」
「そうです!」と神谷も熱く言う。
「好きな気持ちは、伝えなければ届かないものです!」
「……いや、そんな簡単に言うけどさ」
俺は天井を見上げながらため息をつく。
「今のままでも十分楽しいし、この関係を壊したくないっていうか……
でも、このまま何もしなかったら何も変わらない気もして」
自分でも驚くくらい、素直に言葉が出ていた。
吉田はリモコンを置き、真面目な顔で言った。
「悩むのはわかるぞ。俺も告る時そんなんだったしよ。でも、たぶんそういうときって“言ったほうがいい”ってサインだぜ。
結局、黙ってても何も起きねぇし」
神谷も静かにうなずく。
「僕も賛成です。
間野くん、あなたのそういう真面目さは尊敬に値しますが――
勇気を出すのもまた“努力”ですよ」
そう言って、彼はペンケースから小さなストラップを取り出した。
黒い革のタグに、金色の文字で「努力」と刻まれている。
以前、彼が筆箱につけていたあのストラップだ。
「……これ、いいのか?」
「ええ。次はあなたの番ですから。それに僕は同じものをたくさん持っています」
その真っ直ぐな笑顔に、胸が熱くなった。
吉田も「ほら、応援してるからさ」と肩を叩いてくる。
「ありがとな、お前ら」
窓の外では、夕方の光が少しずつ傾き始めていた。
俺はストラップをポケットに入れ、そっと握りしめる。
(今度こそ、言おう)
そう心の中でつぶやいて、三人でまたゲームを再開した。
笑い声が重なり、少しだけ心が軽くなる。
* * *
翌日。
放課後の体育館裏。
部活の掛け声が遠くに響いていた。
夕陽がゆっくりと沈み、金色の光が校舎の壁を染めていく。
俺は、その場所で、彼女――時田陽菜を待っていた。
ポケットの中には、あの黒いストップウォッチ。
何度も握りしめて、汗で手のひらが湿っていた。
「……間野くん?」
声をかけられた瞬間、胸が跳ねた。
振り返ると、陽菜が不安そうに立っていた。
制服のリボンが少しだけ傾いていて、夕方の風に髪が揺れている。
どうしてだろう。
ただ、それだけで息が詰まるほど綺麗だと思った。
けれど、言葉が出ない。
(怖い……振られたらどうしよう。この関係が壊れたら……もう、あの笑顔を見られなくなるかもしれない)
心臓の鼓動がうるさい。
鼓膜の内側で、自分の心音だけが響いていた。
――もう、押すしかなかった。
右のポケットに手を入れ、ストップウォッチの赤いボタンを押す。
カチリ。
空気が、一瞬で変わった。
風が止み、校庭の声も消えた。
世界が息を潜めたような静寂。
彼女の揺れる髪が宙で止まっている。
(……落ち着け、俺。落ち着け)
深呼吸をする。
だけど、喉が乾いてうまく息が吸えない。
視線を落とすと、ストップウォッチの赤い数字がゆっくりと減っていく。
「1.78」「1.52」「1.13」……。
二秒なんて、あまりにも短い。
(まだだ、まだ心の準備が……)
「0.04」「0.03」「0.02」――。
「……くそ、足りねぇよ……」
数字が「0.00」を示した瞬間、俺は恐る恐る視線を上げた。
――あれ?
もうとっくに二秒を超えたのに、世界は止まったままだった。
風も音も、何もかもが静止している。
「どういうことだ……?」
俺がつぶやいたその時。
灰色の世界の奥から、コツ、コツ、と靴音が響いた。
振り向くと、白いコートを羽織った男が、灰色の校庭をこちらに向かって歩いてくる。
年齢はよくわからない。これは俺の勘だけど、どこか時間を旅してきた人間の匂いがした。
「やれやれ、やっと見つけた」
軽くため息をつきながら、その男は俺の前に立った。
「な、なんだあんたは……?」
灰色の世界で、彼は笑って肩をすくめた。
「僕? そうだな……ま、そいつを落としたんで取り戻しに来た者とだけ言っとこう」
「これの持ち主……?」
無論、このストップウォッチのことだろう。
「そりゃそうだ。この時代にこんなもんあるわけないだろ?」
彼は俺の傍まで、すっと近づいてきた。
伸ばされた手。
俺は訳もわからないまま、その黒いストップウォッチを差し出した。
「やっと戻ってきた……あやうく大目玉を食らうところだったよ」
男は安心したようにストップウォッチを手の中で転がし、そして俺を見た。
「む。どうやら君はこいつで生まれる2秒を、良いことに使ったようだね。珍しい善人もいたもんだ」
「え?」
「これなら記憶を消さなくてもいいか。それにどうやら、いいところで僕が邪魔しちゃったみたいだし……ちょっとしたお礼だ。最後に僕から、もう2秒間だけ君にプレゼントしよう」
男は黒いストップウォッチを俺の目の前に掲げた。
「え!? ちょ、ちょっと待って!」
彼は赤いボタンを押す前に、にやりと笑った。
「いいかい。君が今まで“たった2秒”だと悩んでいた時間があっただろう? でもね、人生ってのは、その2秒間の積み重ねでできているんだよ」
その言葉に、俺ははっとした。
胸の奥で何かが弾けたように、すべてが腑に落ちた。
――たった2秒じゃ足りないんじゃない。
――2秒もあれば十分だったんだ。
俺は時田陽菜の方へ向き直った。
未来人が静かにうなずく。
「さぁ。君だけの、最後の2秒間のスタートだ」
カチリ。
「2.00」――。
俺は目を閉じ、深く息を吸った。
肺の奥に冷たい空気が流れ込み、鼓動がゆっくりと落ち着いていく。
「1.56」――。
(落ち着け、間野。これで終わりじゃない。これが始まりなんだ)
右手が震える。
けれど、心の奥の何かが、不思議と静かだった。
「1.12」――。
止まった風が頬を撫でるような錯覚。
陽菜の髪が宙に浮いたまま、柔らかく揺れている。
その表情を見ているだけで、胸の奥が熱くなった。
(ああ、やっと言える)
「0.68」――。
もう、逃げない。
もう、2秒を言い訳にはしない。
「0.24」――。
俺は息を整え、彼女をまっすぐ見つめた。
心臓が、ゆっくりと一度だけ鳴った。
「0.07」――。
言葉が空気を震わせた瞬間、数字が「0.00」を示したのだろう。世界に色が戻っていく。
「……時田陽菜さん、俺は君が好きだ」
そして、風が吹いた。
止まっていた世界が再び動き出し、陽菜の髪がやわらかく揺れる。
驚いたように瞳を大きく見開いたあと――彼女は、ゆっくりと笑った。
「……私も間野くんが好きだよ」
その声は、夕陽の光よりも温かく響いた。
――たった2秒。
けれど、その2秒たちが、俺の世界を変えたのだ。
そしてこれからも、その2秒を積み重ねていく。
* * *
春の風が、校庭の桜を揺らしていた。
あの日から、季節は少しだけ進んだ。
「間野くん、これ――落としたよ」
背後から聞き慣れた声。
振り向くと、陽菜が小さなストラップを掲げていた。
「あっ、それ……」
神谷にもらった“努力”のストラップ。
いつの間にかカバンの金具が外れて、落ちていたらしい。
「ありがと、陽菜。あの日から、これずっと持ってるんだ」
受け取りながら、指先で金色の文字をなぞる。
“努力”――今なら、その言葉の意味が少しだけわかる気がした。
「さ、いこ?」
陽菜が笑って言う。
その笑顔に、またいつものように俺の心臓が跳ねた。
俺は右のポケットの中の努力に触れた。
「うん、行こう」
俺は立ち上がり、彼女と並んで歩き出す。
その一瞬――彼女の髪が光を受けて揺れる。空には桜の花びらが舞っている。
(これからも、2秒ずつ積み重ねていけばいい)
俺たちは、止まらない時間の中へ歩いていった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
本作は「30分で読み切れる短編シリーズ」の一つとして執筆しました。忙しい毎日の合間や、ちょっとした休憩時間にでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
また、アキラ・ナルセのページ内「シリーズ」として、同じく【30分読破シリーズ】をまとめていますので、ぜひ他の作品もお楽しみください。
今後も、同じく30分程度で読める短編を投稿していく予定ですので、また気軽に覗きに来ていただけると幸いです。