第2話 2秒間の葛藤
24時間に一度だけ、2秒間だけ時間を止めることのできるストップウォッチ。
たった2秒。
だけどこれは、とてつもない力だ。
何に使えるだろうか――。
俺は昼休みの教室で、机の中に隠した2日前に拾ったストップウォッチを眺めながら、そんなことを延々と考えていた。
せめて20秒でも止められたら、もっと色々できそうなのに。
たった2秒じゃ、大したこともできやしない。
そんなことをぼんやり考えていたときだった。
カァン――!
金属を打ち抜くような音が校庭から響いた。
昼休み恒例の、野球部のバッティング練習の音。
だが次の瞬間、何かが異様な速さで俺たちの教室へと迫ってくるのが見えた。
白い球。
教室の窓ガラスに直撃するコースだった。
その先には、窓際で談笑している数人のクラスメイト。誰も気づいていない。
(まずい!!)
頭より先に、右手が動いた。
ポケットの中で赤いボタンを押し込む。
──カチリ。
世界が静止する。
ストップウォッチの表示はすでに「1.88」。
赤い数字がじりじりと減っていく。
空中に浮かんだ白球は、まるで時間ごと凍りついたように宙に止まっている。
俺は椅子を蹴って立ち上がり、窓の方へ走った。
(2秒しかない! 俺にできるのは……!)
窓の鍵を外す。ガラス戸を引き、直撃を防ぐために窓を開けた。
その瞬間、数字が「0.00」になったのだろう。
ドンッ!
時間が動き出し、球が俺のみぞおちを直撃した。
息が詰まり、視界が一瞬白くなる。
球は床にゆっくりと転がった。
「っぐ……!」
俺は痛みにうずくまりながらも、達成感を感じていた。
何故なら、窓ガラスも後ろの生徒たちも無事だったからだ。
同時に、教室中がざわついた。
「えっ、今の音なに!?」
「大丈夫か、立花!?」
俺は苦笑いで手を振り、息を整える。
「……なんとか、な」
その後すぐ、野球部の連中が先生を連れて平謝りに来た。
彼らの後ろで、クラス委員の女子が首をかしげている。
「……あそこの窓って、開いてたっけ?」
その一言に、背中がひやりとした。
けれど誰も気づかないまま、昼休みのざわめきは再び戻っていく。
俺は制服のポケットの中で、ストップウォッチをそっと握りしめた。
* * *
今日も俺は考えていた。
机の中のストップウォッチを取り出しては、指先でボタンの縁をなぞる。
ストップウォッチのボタンの赤い光は点灯しており、ボタンを押せばいつでも世界中の2秒間を独り占めにできるのだ。
だけど人間とは弱いものだ。
考えれば考えるほど、頭の片隅には、ろくでもない考えが浮かんでくる。
――もし、これをテスト中に使ったらどうなる?
明日は中間試験。
隣の席には、学年一位の男子・神谷が座る。いつも落ち着いていて、先生にも一目置かれている。
ストップウォッチで時間を2秒止めれば……1,2問程度なら答えをカンニングするのなんて簡単だ。
だれにも、絶対にバレない。
思い浮かべた瞬間、心臓がどくんと跳ねた。
俺は机の中のストップウォッチを握りしめた。
(だめだ……そんなことのために使うもんじゃない)
そう頭ではわかっている。
けれど、心は別だ。
“ちょっとだけ”、“一問だけ”。そんな甘い言葉が、何度も頭をよぎる。
翌日、教室の中は鉛のように重かった。
試験用紙が配られ、シャープペンの音だけが響く。
ページをめくると、世界史のとある問題で手が止まった。
(……わからない)
手が汗ばむ。
右隣の神谷は、すでにペンを滑らせていた。迷いのない速さ。
答案の上には、まるで俺の頭では到底覚えきれない答えが並んでいくのだろう。
(つ、使うか……)
ストップウォッチをポケットの中で握る。
“カチリ”という感触が、脳裏で鳴ったような錯覚。
このボタンを押せば、すべてが止まる。
2秒。
たった2秒で、俺は答えを盗める。
その瞬間、指が震えた。
神谷が、ふとため息をついた。
彼の筆箱には、かすかに「努力」の文字が見えるストラップがついていた。
それを見た瞬間、胸の奥に何かが刺さった。
(この人は努力してここにいる。 俺は、それを盗んで何になる)
息を呑み、手を離す。
ポケットの中のストップウォッチは、ただの重たい金属の塊に戻った。
シャープペンを握り直し、わからないまま問題に印をつけて次のページをめくる。
焦りの熱が引いていく。
代わりに、静かな罪悪感だけが残った。
テストが終わり、放課後に学校を出たあと。
帰り道を吹く風がやけに冷たかった。
(使わなかった。……でも、考えた時点で同じだな。反省しよう)
心の中でつぶやいて空を見上げる。
雲の切れ間から夕陽が差し込み、制服の袖口を照らした。
ポケットの中で、ストップウォッチの重みを感じる。
でも、ともかく押さなかった。
押さずにいられたことは、少しだけ誇らしかった。
オレンジ色の光が傾いた街並みを、俺はぼんやり歩いていた。
今日は使わなかったストップウォッチのボタンは赤色に点灯しており、いつでも使える状態だ。
(今日は使わなかったな。……でもそれでいい)
もし押していたら――この感情も、罪悪感も、きっと生まれなかった。
少なくとも、俺は今日、自分の“ずるさ”をちゃんと知った。
家へ向かう途中、角を曲がると、冷たい風が吹き抜けた。
ブロック塀に映る影が長く伸びる。
その少し先で、同じ制服の女子が歩いているのが見えた。
肩までの髪が、風に揺れて頬をかすめる。
夕陽を透かして、栗色の光がふっときらめいた。
(……きれいな髪だな)
そんなことを思った瞬間だった。
バァン!
乾いた破裂音。
* * *
こうして俺は、ストップウォッチをカンニングになんて使わなかったおかげであの日に、彼女を救うことができたのだ。
そして――俺はあの“2秒の間”に、彼女に一目惚れをしたのだ。
それから数日後。
いつもの移動教室の時間、廊下を歩いていた俺は、視界の端に見覚えのある顔を捉えた。
栗色の髪。肩にかかる光。
――時田陽菜。
あの時俺が2秒で助けた子だ。
あれ以来、俺たちはクラスは違えど見かけたら話しかけ合う仲になっていた。 一般的にはほんの短い会話かもしれないけど、俺にとってはその2秒よりも長いその時間に、心を躍らせていたのだ。
「あ、間野くん!」
彼女は弾むような声で手を振ってきた。
「時田さん、そっちも移動教室?」
「うん、これから理科の実験があって」
「そうなんだ。こっちは音楽室だよ」
「そうなんだ、お互い頑張ろうね!」
陽菜はにこっと笑った。
その笑顔は、あの時夕陽の中で見た光と同じ――いや、それ以上に眩しく感じた。
(……やばい。今、時間が止まればいいのに)
思わずポケットの中に手が伸びる。
そこには、あの日以来持ち歩いている黒いストップウォッチ。
指先が赤いボタンに触れた。
(押したら、彼女の笑顔をもう少し独り占めできる。……でも)
息を止めて、手を引っ込めた。
(だめじゃないんだろうけど、なんかだめだろそれは)
彼女はもう廊下の先に歩き出していた。
その後ろ姿を見送りながら、俺は小さく笑った。
たった2秒で、恋に落ちた。
だけど――今度こそ、時間を止めなくても見つめていられるようになりたい。