2、物語の記憶②
おはようございます、こんにちは、こんばんは
続きを読みたいと思ってくださりありがとうございます。
アイリスの理想は、バルザックが記憶喪失のままでいてくれること。そして接触を避ければ、みんなが幸せになれると信じている。そのためにはアイリスも行動を起こす必要がある。今まで避けていた社交やお茶会に参加することだ。計画を実行するには人脈を広げるに限る。その辺はマーリーに協力してもらうことにする。アイリスにとって、唯一の理解者なのだから。
「ねぇ……お兄様は今、どうしてるかしら」
「バルザック様は旦那様と今後についてのお話があるようで、執務室におられます」
「そう……」
どうしても忘れられない表情がある。バルザックがアイリスの亡骸を愛おしそうに見つめる姿だ。
「お嬢様は――バルザック様のことが、本当はお好きなんですね」
「そんなことない」
「でも、すごく寂しそうな表情をしておりますよ」
「えっ……」
アイリスは鏡を覗き込んだ。眉を八の字にした悲しげな表情が映る。自覚はなかった。そこに映る表情に戸惑い、マーリーを仰ぎ見る。
「わたくしこれでも人間観察が得意なんですよ。バルザック様も何か事情があってお嬢様にきつく当たっていたように思えるんです。ですから少し交流を持ってみてはいかがですか。記憶喪失の今こそ仲良くなれるチャンスです」
「まぁそうね……ところで外に出たいのだけれど、着替えを手伝ってもらえないかな」
交流を持つ気はないので、あからさまに話をそらす。気持ちはありがたいが、お互いが幸せになるためなのだ。隣にバルザックがいないのは残念ではある。しかしアイリスは、その感情の意味に気づいていない。
「駄目ですお嬢様! お目覚めになったばかりではないですか」
「安心して。ただ庭へ出るだけだから。ちょっと外の空気を吸いたくなっただけよ」
その位ならとマーリーを伴い池の近くまできた。みんなが幸せになる未来に向けて、新しい物語を始めるため。だから物語が動き出すきっかけとなった場所を、この目で見ておきたかったのだ。そして確信した。
「ここでバルザックお兄様に、池へ落とされたのよね……」
「なっ何をおっしゃっているのですか!?」
素っ頓狂な声を出すマーリーが何だか面白い。
「ふふっ事実だよね? だってさっき誤魔化そうとしたじゃない」
「なっ何故それを……」
マーリーの慌てる姿を横目で見ながら、言葉を続ける。
「私ね、前世の記憶があるの。信じてもらえるか分からないんだけど――ここは物語の世界なの」
「まっまさかそんな! おかしな冗談はおやめください」
「やっぱりそういう反応になるわよね。私でも同じこと言われたら、頭のおかしな人って思うし。でもね見てきたの――私が迎える未来と、お兄様がたどる未来を。だから冗談なんかじゃない」
人は想定外のことが起こると、否定したくなるもの。
「まぁ! 通りでバルザック様が記憶喪失だと伝えた時に、あまり驚かなかったのですね。いつものお嬢様なら「いい気味ね」位言いそうなものでしたのに」
マーリーの意外な反応に少し驚く。
「……そうね。物語のアイリスは、知らなかったの。お兄様が厳しい教育を受けて、頑張っていたこと。なのに私を見てほしくて、両親の気を引こうとしてた。だからわがままばかり言っていたの」
前世の記憶が戻る前、嫉妬心からバルザックを目の敵にしていた。アイリスの目には、親の愛を独り占めしているように見えていたのだ。その記憶もしっかり残っている。
(前世と似ている気がするわね。だからこの物語だったのかしら。まるでどう出るか試されてるみたいだわ)
「なるほど! そうでしたか。だからことあるごとに、あれが欲しいなどとねだってばかりいたのですね」
どうやらマーリーは順応力が高いようだ。素直に信じてくれている。
「そうね。本当にバカよね。小さい子じゃあるまいし……でも仕方なかったと思うのよ。お父様はお兄様につきっきりだし、お母様はお兄様のことばかり褒めるのよ! 少しは見習ったらどうなのって。そんなこと言われたら、性格も捻くれるわよ。こうなったのはお兄様が会ってくれなくなったせいもあるって思ってたたし」
羨ましいと悲しい気持ちが混在していたのだ。
「でっでも、奥様はお嬢様のこれからを心配して、おっしゃっていたのだと思います。お嬢様は確かにご両親に愛されていますよ」
「そうみたいね……私が死んだあと泣いてくれたの」
今なら分かる。時には厳しいことも言わなければならなかったことを。
「まさか――お嬢様は死ぬ運命なのですか!?」
「えぇその通りよ……私も物語の中では、記憶喪失になっていたの。それでね、お兄様に恋をしていたのよ。ある日お兄様に縁談話が持ち上がるの。その事実に耐えきれず密かに屋敷を出るのよ。それもあなたに手伝ってもらってね。だけどその先で不慮の事故に合うの――あれ? おかしいわね。物語の未来の話なのに、私の記憶のような気もするわ。不思議な感覚ね。まるですでに起こった出来事のようだわ」
アイリスはバルザックの幸せそうな顔を見たくなかった。逃げることでしか、心を保てなかった。周りがどう思うかなんて、考えている余裕はなかったのだ。
「そうでしたか。きっとお嬢様はまだ、意識が混乱しているのですよ。確かに叶わぬ恋は心が疲れますよね。例え距離を置いたとしても、一度でも姿を見てしまうと、気持ちが再燃して決心が鈍りますから」
「すごく具体的ね。もしかしてあなたの話なの?」
「いいえ! わたくしではございません。メイド仲間のお話です。なんでも以前勤めていたお屋敷で、身分違いの恋を経験した者がおりましたのですよ」
「ふーん。身分違いの恋も辛いわね。もし物語の中のアイリスがお兄様と義兄妹だと知っていたら、何か違ったのかしら」
前世を思い出したとき「どうしてお兄様と血がつながっているのかしら」というアイリスの嘆きと、「何故血のつながりがないと、すぐに教えてくださらなかったのですか」というバルザックの痛みが、じわじわと流れ込んできた。
「ちょっと待ってください。お嬢様はバルザック様と血のつながりがないのですか!? それでは、バルザック様と結ばれたらよいのではありませんか」
「それはちょっと遠慮したいの! お兄様の相手は、私よりも聡明で綺麗な人なのよ。何より子供は可愛かったわ。生まれるべき子供の未来は奪えないよ。それに物語のお兄様は、私の亡骸をそばに置くの。生きている時と同じように話しかけていたのよ。いくら好きだからって、そこまでする? 異常だと思わない? そんな場面を見たからかしら、私はそこまでの愛は求めてない」
ありえないと、首を大きく横に振りながらも、アイリスの胸は息苦しく、何かに刺されたような感覚になる。
「それだけ愛しておられたのですね。わたくしでしたら、大歓迎ですのに」
「はぁ……意見が合わないのね」
「だって狂おしいほど愛されるなんて、ステキじゃないですか! 幸せになることが決まったも同然ですよ。女は愛されてこそって言うじゃありませんか」
聞き覚えのある言葉に、アイリスはハッとし一瞬だけ過去へ意識が戻る。
「その辺は少し同意するわ。だけどね、限度があると思わない? とにかく私は、別の相手を探すわ。これはお兄様の為でもあるの。だから、その時は色々頼むわね」
「まぁお嬢様がそこまでおっしゃるなら、何なりとお申し付けください」
マーリーは少し不満そうにしているが、未来のためなのだ。話が一段落つき、ひとまず安心と言える。そろそろ部屋へ戻るかと思っていたところ、後ろから突き刺さるような気配を感じる。何ごとかと風を切るように振り返る。するとその先に何やら人影が見えた。
「どうかされましたか」
「誰かに見られているような気がしたの。ほらあそこ。うん? カーテンが揺れているだけかな」
屋敷の一角にある窓辺の方向へ指を差す。
「あぁ。あそこは旦那様の執務室ですね」
答えるのと同時だった。カーテンのすき間から、茶色い髪の毛がひらりと揺れる。
「まぁ! 噂をすれば影というやつですね」
アイリスは姿を見せたバルザックの黒い瞳と目が合った気がした。全く笑えない。その瞬間、腰が軟化する。姿勢を保てず、その場に座り込んでしまう。悲しみと絶望と恐怖心が蘇ったのだ。
(どうして? 本当に何なの……)
アイリスは自分の感情が分からない。
「お嬢様! 大丈夫ですか!?」
「えぇ大丈夫よ……お兄様が見えて少し驚いただけよ。でもね、前にもここで同じことがあった気がしてならないの」
何故だか分からない。とてもリアルに感じたのだ。
「うーん。そうですね――ここがお嬢様の言う物語の中なのでしたら、お嬢様はその場面を一度見ていることになります。それを脳が勘違いを起こし、事実だと誤認してしまうのではありませんか。それか前世で似たような経験がおありなのだと思うのです。わたくしが思うに、ご自身の記憶と物語の記憶が混同してしまっているのですよ」
「なるほどね。それも一理ありそうだわ。それじゃあそろそろ部屋に戻ろうかな。ここにずっといても仕方ないし。早速で悪いんだけど、作戦会議を開きたいの」
ひとつ深呼吸。少し落ち着きを取り戻す。だいぶ印象的な物語だったんだなと納得しつつ、ゆっくりと立ち上がる。スカートについた落ち葉を振り払い、一歩踏み出そうとした時だ。そこへ、ものすごい勢いで走ってくる人影がある。バルザックだ。
「大丈夫? 倒れたように見えたんだけど」
「うっうん大丈夫……」
バルザックは明らかにホッとした表情を見せた。
「……アイリスだよね? さっき父上から聞いたんだ。僕には妹がいるって」
アイリスはこれ以上話したくないと思う。今一番会いたくない人物だったから。それに今後の身の振り方が、何も決まっていない。一刻も早く立ち去るべき。目の前に現れたバルザックは、想像以上にかっこいい。関わらないと決めたのに、心が揺らぎそうなのだ。マーリーに目配せをした。早く戻りたいという意味を込めて。しかし意図が伝わらなかった。
「そうです! こちらはアイリスお嬢様でございます。失礼を承知で申し上げますが、どうかあまりお近づきにならないでくださいませ。お嬢様はお目覚めになられたばかりなのです。何よりもバルザック様に池へ落とされたことを思い出して、怯えております。いくらご兄妹とはいえ、わたくしは許すことが出来ません」
「そっそうなんだね……ごめん。覚えていないんだ」
バルザックが戸惑っているのが分かる。
「ですので、失礼します」
引きずられるように、アイリスは部屋へ戻った。取り残されたバルザックは、ほの暗い笑みを浮かべている。アイリスの後ろ姿を目で追いながら、何かをポツリとつぶやいた……。アイリスのあずかり知らぬところで、物語は進んでいこうとしているのだった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
動き出す物語……。この先どうなっていくのでしょうか。
また明日お会い出来れば嬉しです。




