キミのためだけのシンデレラ・ボーイ
すべての準備を整えてステージ袖へ向かうと、東中セン社長はあんぐりと口を開けた。
ライブは既に開演し、既にいくつかのグループがパフォーマンスを終えている。客席の熱量は可もなく不可もない。お目当てのグループを見られて盛り上がっている者も、お目当て待ちでまだ冷めている者も、お目当て以外のグループも心底楽しんでいる者も、お目当て以外ではさして高揚はしないが礼儀として笑顔で声をあげている者も居る。それが対バンライブというものだ。さっきまでステージに立っていたグループのメンバー名が書かれた法被を着ている二人組が、晴れやかな笑顔でさっと最前列から抜けていくのが、舞台袖から見えた。お目当て以外も楽しんでみせるのがひとつの美学であると同時に、お目当てが済んだら身を引いて場所を譲るのもまた美学である。
ここは自由な場所だ。誰を好むも好まざるも、好むふりをするもしないも、好んだつもりになろうと努力するもしないも、自由だ。しかし、客席にその自由があると同時に、ステージの上にも自由がある。私は、どう振る舞ってもいいのだ。全員の心を奪ってやると燃えてもいい。謙虚に時間稼ぎに徹してもいい。あるいは──。
とん、と肩を叩かれた。見上げると、久道さんが目を細めていた。柔らかな目尻に、まばゆいほどの眼光が宿る。
「行っておいで、『瀬斗』。君の役目を果たすんだ」
瀬斗。
今夜だけここに立つアイドルの名前。
◇
一歩。一歩。
まだ薄暗いステージに踏み出す度に、周囲がざわついていくのが分かる。
──……誰? 暗くて見えない。なんか今日のタイテ急に変わるしぐちゃぐちゃだよね。
ざわざわ、と言えるほど喧騒ではない。さわさわ、くらいの、薄っぺらいざわめき。
それを一太刀で切り裂く。
「兄さん」
お腹の底から響くように。
一瞬、会場が静まり返った。
ゆっくりと、中央へ向かって歩き続ける。
「晃市兄さん。秘兄さん。佳狩兄さん。特真兄さん。兄さん達は毎晩、輝くステージへと走ってゆく」
──……何? フォーカンの話? あれ誰?
「ねえ」
スポットライトがステージを照らした。その瞬間、客席へ身体を向ける。ロングコートを翻す。
「みんな、兄さん達に会いにきたの?」
しばしのどよめき。
──……そうだよ。私も私も。これ何?
「そっか」
短い横髪に指を通しながら、視線を足元に落とす。会場の後ろにまで届くギリギリの小ささまで、声を絞る。
「羨ましいな。僕も、キミに求められたい」
二人称を単数に。けれど視線は会場中に巡らせる。
「フォー・カントリーとの夢の時間まであと少し。僅かな時間でいいんだ。どうか僕に、エスコートさせてくれませんか」
ペンライトの色が変わっていく。衣装の色と同じ、透き通るような水色へ。
「今宵、僕はキミのためだけのシンデレラ・ボーイだ。踊ろう、奇跡が終わる、その瞬間まで」
◇
喝采を背に、舞台袖へと足を踏み入れる。未だ浮遊感で脚がうわつき、視界はちかちかとして、しかし頭だけは冴え冴えとしていた。
「おかえり、瀬斗」
「ただいま、プロデューサー」
久道さんのぎらついていた瞳が、今は少しまろやかな達成感をはらんでいる。満ち足りた心地でしばし見つめ合っていると、目の前でがくんがくんと久道さんの腕が揺さぶられはじめた。視線を移すと、犯人は特真兄さんであった。青ざめているのか、イメージカラーである青い衣装と薄暗い環境のせいで顔色が悪く見えるだけなのかは定かではない。
「久道さん、あの、こ、この人、誰……?」
「瀬斗」
「いや本当に誰……」
「デスクさんだよ」
「は!? でっちー!?」
横から声を荒らげたのは秘兄さんであった。彼が視線をさ迷わせるたびに、黄色いエクステが揺れる。
「うーん? どう見ても男の子ですよ?」
一方佳狩兄さんはステージ用の真っ赤な眼鏡を指で撫でながらのんびりしている。
「男の子にした」と久道さん。
「なんで……!?」
とうとう特真兄さんは頭を抱えて壁に頭突きしはじめてしまった。なにをそんなに騒ぐことがあろうか? 僕はステージに立って歌って踊ってきた。ただそれだけだ。そしてそれは、今目の前に居るこの四人組も、いつもやっているはずのことだ。
「次は兄さん達の出番だよ」
「にっ……」特真兄さんの頭突きが止まった。こぼれ落ちそうなほど見開かれた瞳がこちらを見据えている。「にいさん……?」
「ええと、どういうことです? おれの親に隠し子が居て、それがデスクさんで、しかも実はデスクさんはおれより年下で男の子だったって、そういうことですか?」
「佳狩はどうしてそう複雑でアホなトンチキ推理をぺらぺらと……」と秘兄さん。
「まあまあまあまあ」
うごうごと停滞していた空気を切ったのは、それまで黙って見ていたはずの晃市兄さんのすっきりとした声だった。彼がぱんぱんと手を叩くと、紫色のネイルチップに乗せられたラインストーンがちらちら光る。
「時間かかりそうだし、後にしよーぜ。とりあえず今はステージに出ないと!」
そう言って手近にいた佳狩兄さんと特真兄さんの肩を掴むと、ずいずいとステージへ向かっていく。
「はいどーもー!」
「あっコラ、芸人みたいな出方するな! でっちー、後で話があるからね!」
その背を秘兄さんも追っていく。
どっと上がる歓声。つい先ほどまでは全身で浴びていたそれが、薄皮一枚を隔てたように、今はすっかり他人事となっている。
でっちー……デスクをもじった謎の語彙、デスク、オフィスの机……。
じわじわと進む連想ゲームで、私はようやく意識を取り戻した。そうだ。私は普通のOLのはずだ。私は今まで一体何をしていた?
「夢のようなステージだったよ、瀬斗」
私自身にまっすぐ向けられたことのなかった「対・アイドル」のときの久道さんのハングリーな表情が、目の前に迫ってきている。思わず乙女心が喉の奥からせり上がってきそうだったが、いけないいけないクールビューティ、と言い聞かせ静かな表情を貫く。
私は、今日限りの「少年アイドル」として、ステージに立った。久道さんのプロデュースに導かれるまま、忠実に。
久道さんの期待に応えることは、できただろうか。どきどきと彼を見上げる。
しかし、そこに彼のお顔がない。
下だ。久道さんの鼻筋の通ったお顔は、私のお腹の高さにあった。
「本当に、本当に素晴らしかった」
久道さんは跪いたまま、そっと私の手を取る。
「ずっと、君のような存在を探し求めていた」
どきん。心臓が跳ね上がる。一度は押し込めたはずのトキメキがまた胃の底から上がってきて、今にもあふれ出そうだ。
久道さんのプロデュースでステージに立ったのは、純然たる下心に突き動かされたからに他ならない。
私を、彼の思い通りの姿に染め上げてほしかった。そしてあわよくば、期待に応えきった末に、ひとりの女性としても見初めてもらえるのではなかろうかと、そんな期待も色濃く抱いていた。
燃えるような瞳が私を射抜く。
「一夜限りの関係で終わらせたくない。僕は君と、もっと先へ進みたい」
喉からまろび出そうになった乙女の悲鳴をぐっと堪える。雌になるのはまだ早い。クール美女としての私を貫いて貫いて貫いて、ここぞというところで、とろとろの乙女の顔を覗かせる。そうして彼のハートをガッチリ掴むのが、私の計画なのだから。
まだ待て。まずは今まさに行われているこの灼熱の愛の告白を、味わおうではないか。
背筋を伸ばし、涼やかに細めた瞳で久道さんを見下ろす。獣のような瞳が、私の視線を絡め取る。
「これからも君をプロデュースさせてください、『放っておけない魔性の弟系王子様アイドル』として!」
──爆音で流れるフォー・カントリーの新曲「四万と十年の夢の中」。ボルテージが最高に達し、天井を突き破らんばかりの歓声。
私は冷静であった。というよりは、今まさに冷静になった。ならざるを得なかった。
ひんやりとした心地が広がっていく胸の内に、落胆がなかったと言えば嘘になる。本音としては、「僕のプロデュースを完璧に理解して余すことなく実現させてくれたあなたを、生涯の伴侶にしたい」と、そう言われることを期待していた。これから役所に行って婚姻届けを貰ってきましょうと言ってほしかった。うふふ今日は日曜ですよそそっかしい方ですね、ああでも結婚情報誌のふろくに婚姻届けがついておりますから書店へそちらを買い求めにゆきましょうと、そう返したかった。
しかし。
落胆しかしていない、ということはない。まったくもって、ない。
姓は春日原、名は宇摘。九州出身、関東在住。二十代、女性、独身。「お仕事はなんですか?」と聞かれたら、「普通のOLです」と答える。
夢は、ステキな旦那様の尻に敷かれること。
特技は、絶えず強い意志を持って行動し続けること。
ここでめげる私ではない。ここで足を止めては、私が廃る。
努めて、穏やかに。私を見上げる久道さんに微笑みかける。
「分かりました」
久道さんの表情が、喜ぶというよりは、覚悟によって引き締まった。彼にとってここはゴールではないのだ。あくまでもスタート地点。
それは、私にとっても同じだ。
「ただし、条件があります」
瞳が一瞬見開かれたが、すぐ悠揚に細められた。
「なんでも言ってください」
とろけるような笑顔に思わず腰が砕けかけたが、グッと力を込める。
ここが女の勝負所。畳み掛けるなら、今しかない。
「私と付き合ってください」
背後から、どっと笑い声。ステージはMC中のようで、大盛り上がりだ。恒例の「一発勝負だから誰かが上着を一枚脱ぐだけで、それ以上は誰もなにも脱がずに終わるプチサービス野球拳」を繰り広げているのが聞こえる。四人がかりで一試合ごとに「グオー俺の右腕がー!」などと小芝居を挟みながらじゃんけんをやるせいで、それなりに時間がかかる。
三戦ほどが成される間、久道さんは瞬きの頻度がやや上がった以外、まったく動かなかった。
「あなたが好きです」
追撃。客席にまた笑いが溢れる。四人中一人だけが負けとなる二十七分の四の確率を待つせいで長期戦を強いられる彼らは、しばしば途中で小芝居を放棄し、連続かつ高速でただひたすらじゃんけんをし始める。このやけっぱちになる瞬間がファンにとってはすこぶる面白いらしい。負けは三人でも二人でもいけない。一人だけでなければならない。あいこ、あいこ、あいこ。久道さんは、やはり微動だにしない。
ならば、こちらから動くのみ。
跪いた彼の前に私も片膝をつき、左手で肩を掴んだ。そして右手で、そっと彼の顎を掬う。
「私をあなたのお姫様にしてくれるなら、僕は、みんなの王子様になってみせます」
彼が褒めてくれたハスキーボイスで囁いてみせる。
客席がまた湧いた。とうとう勝敗がついたのだろう。
それから今度は敗者が上着を放り捨てたであろう歓声。
そのまま、最後の一曲のイントロが始まる。
小さな小さなライブハウス。舞台袖からほんの五メートルあるかないかの距離で歌い踊る彼らの声は、意識の分厚い膜の外にある。
久道さんは「ひゃおぬ」みたいな活字化し難い声を出しながら、ズデンと後ろ向きに倒れた。先ほどまで跪いていたせいで下半身が所謂女の子座りの状態になっている。男性はその座り方がなかなかできないという話だが、それに加えて、そのまま仰向けに倒れ込めるとは。なんて柔軟な身体。うーん、ステキ。




