社会人のプライドと乙女のプライド
迎えた日曜の朝。夏空はすっきりと晴れ渡っていた。
止めたばかりの目覚ましアラームよりよほど大きな蝉の声は、閉め切った窓の外側を激しく撫で、今にもガタガタ揺らさんばかりの勢いである。
あの子達は、そろそろ勉強会が始まる頃合いだろうか。
今日は事務所を社長に任せ、私もフォーカンが出演する対バンの現場に同行する予定になっている。ゆくゆくは私もプロデューサーにしたいのか、社長の意向で時折こういった見学を指示される。
フォーカンの出演は十八時からだが、ライブ自体は十六時に始まる。開演前の顔合わせにはアイドル本人が不在になってしまう分、きちんと挨拶しておきたい。
──久道さんとふたりで。
「むふふ……」
ステキな一日を夢想しながら、毎朝のお供であるワカメの酢の物を頬張る。
◇
そんな乙女ちっくな朝から数時間後。東京都豊島区、池袋某所のライブハウス、バックステージ。
対バンライブの主催アイドルグループ『窮鼠は僕の靴紐を噛む』通称『きゅーひも』が所属している事務所・東京中央セントラルプロダクション(本社所在地・埼玉県川口市)の社長が、目の前で土下座していた。
「あの、どうか、どうか頭を上げてください……!」
「この通りこの通りこの通り!」
「床に頭突きしないで! 配線に物理的な負荷を与えないで!」
たじたじになりながらもどうにか東中セン社長の頭を上げさせようと、めげずに声をかけ続ける久道さん。うーん、ステキ。
しかし東中セン社長も折れない。心は折れないが膝と腰は折ったまま伸ばそうとしない。大きな音響機器からにょろにょろと広がるコード類をすり潰さんばかりの、極めて激しい土下座である。
「ドタキャンなんて困るよぅ、おしまいだよぅ」
五十路過ぎの殿方による雄々しい男泣きには涙を禁じ得ないところだが、クールビューティ・モードの私は表情を変えず楚々として久道さんの斜め後ろで控えるに留める。
土下座の合間に語られたところによると、なんでも出演予定であったグループが二組もドタキャンしてきたという。それにより公演時間に生まれる空白は、実に四十分にも及ぶ。
「他のところはね、『この芸術的なセトリに変更は許されない』とか『仏滅の日は四曲までしか歌うなと顧問占い師に言われている』とかで、もう、もう、すげなく断られてぇ」
アクの強い理由である。
「それ以外のグループで、なんとか二十分は埋めたんだよぉ。あと二十分なんだ。この二十分の空白をうっかり休憩時間なんかにして、お客さんが帰っちゃったらたいへんだよ、わかるでしょ、ね、ね?」
フェス形式のイベントで空白の時間がもたらす損失は、確かに計り知れない。
「差し出がましいようですが、きゅーひもさんの出演時間を増やされては?」
「それだけは絶対ダメ!」聡明な久道さんによる非の打ち所のない提案に対し、東中セン社長は頑なであった。「ダメなのぅ! ひぃん!」
あられもない悲鳴が狭いバックステージにこだまする。それでも粛々と準備を進めるスタッフ達には頭が上がらない。いや、今実際に頭を上げてくれていないのは、目の前のおじさんの方なのだが。
「うちの太客さんたち、告知しておいたきゅーひもの出演予定時間の直前にしか来ないんだ。彼女達が来ていない時間にパフォーマンスをしたらどうなるか……担降り、お気持ち表明、大炎上、学級会、解散、倒産、大誤算……!」
随分な怯えようである。気の毒に。
しかし久道さんは折れない。
「ご協力したいのは山々ですが、うちもそうはいかないんです」
斜め後ろからはいまいち表情こそ窺えないが、その声色だけで、分かる。彼の瞳に確固たる強い光が宿っていることは、疑いようもない。その強かさたるや。うーん、たまらなくステキ。
「フォーカンの四人は今日、大学の必修単位を取るための勉強会に出ています。無事に単位を取得して、それからここで歌う。それが、大学生とアイドルの二足の草鞋を履くものの務めであり、それを完遂させるのが、俺の務めです」
「んぼゅ」
え、今の声なに? と言わんばかりの久道さんの眼差しが、一瞬私に向けられた。負けじとこちらは、え、なんです? 音なんかしてました? という顔で首を傾げてみせる。
危ない。久道さんのあまりの凛々しさに、女の本能がきゅるるんと打ち震えて啼いてしまった。
だというのに、東中セン社長には、この至誠を尽くした姿勢も響いていないらしい。床に向かってごにゃごにゃむにむにと未練がましく懇願の旨を呻いている。
このままでは埒が明かない。久道さんの謹厳ぶりが通用しないのなら、手段を変えるほかないだろう。私は久道さんの未来の伴侶として加勢するべく、つるつるのお肌とは裏腹に数多のしわが刻まれた脳を回転させ始めた。
動かせないものであると仮定する事象は、東中セン社長側に、空白の二十分を埋める手立てがないということ。その二十分は埋めなければならないということ。フォーカンの出番を前倒しで増やすことはできないということ。
この三つを実際に動かさないまま、別の手段で解決する。あるいは、この三つのうちのいずれかを動かすことで、解決を試みる。
東中セン社長に、もう一度別のグループに掛け合ってくれと頼むか? それとも、空白の二十分が生まれることを受け入れ、諦めさせるか?
違う。
フォーカンの出番を前倒しで増やすことはできない──なんてことはない。これは覆せる。最後まで勉強会に参加させたうえで、だ。
「私に考えがあります」
厳かに呟くと、久道さんは──ふっと笑った。
「僕もです。きっと同じことを閃いてくれたんですね」
「ひょんっ」
きゅんと揺れたトキメキハートを慌てて抑え込む。
いけない。クールビューティ・モードを崩してなるものか。ここは強かに、仕事ができる女らしく。私は咳払いをし、ものものしく伏せた瞼をもったいぶりながら上げてみせた。
「フォー・カントリーのメンバーには、逆境を切り抜けるパワーも、アドリブ力も……チャンスをガムシャラに掴み取りにいく貪欲さも、あります」
久道さんはそう信じている。
私も、なんだかんだで彼らは何事も成し遂げてしまうのだろうと、そう思っている。
「勉強会には最後まで参加させます。本題はその後です」
解決策はごくシンプルだ。
最終リハをやらない。
ただ、それだけ。
彼らは勉強会を終えた足でまっすぐここへ来て、それからすぐに──
「ステージに立ちます!」
私はまず、最も大事な結論から断言した。久道さんも深く頷く。
「ええ、ステージに立ちます! あなたが!」
「そう、あなたが! ……あなたが?」
「あなたが!」
久道さんの視線が、まっすぐ私を射抜いた。
「まさか、あなたからそう言ってくださるなんて! 僕はこの好機を待っていた! 癖のあるハスキーボイス、迷いのない凛々しい仕草、そして何より、だいぶ大きめの鼻歌で何度も聞いた、あの歌の表現力! 僕はずっと、あなたをプロデュースしてみたかったんです!」
「ほひょんっ」
手のひらに、やさしいぬくもり。
いつかを夢見て丹念にハンドクリームを塗り続けてきた両手に、その「いつか」の体温が、今、触れている。
あまりの衝撃に足元がぐらつく。あまりの混乱に視界が明滅する。しかしそれは不快な症状というよりは、高速で回り続けるきらびやかなメリーゴーランドの中でロデオボーイに激しく振り回されているような、わけのわからない高揚感に満ちていた。ともすれば悪夢の様相をも呈しているが、私のアドレナリンにかかればどうということはない。
これは幸運の兆しである。私は今、人生最大の分岐点に立たされている。
目の前にぶら下がった運命の赤い糸。足元で崩れかけている崖の淵など構うものか。
ここで掴まねば女が廃る。
「やりましゅ」
やや噛んだ。しかし、とにかくそれ以外の返答はありえなかった。
「フォーカンの曲なら、歌もダンスも覚えてますよね。いつも昼休みにレンチンが終わるのを待ちながら踊っているでしょう?」
「はい!」
「そ、それ、人前でやれるレベル?」
おじさんが足元でなにか言っているようだが、よく聞こえない。
「衣装は前々から作ってあります。我ながら力作です!」
「はい!」
「前々から? 自作?」
「よし。フォーカンの為に抑えていたスタジオ、予約のスタート時間を早めました。十五分後から使えます。今から移動して、ギリギリまでリハしましょう。僕は衣装を取ってくるので、先にスタジオへ行っててください。ウォーミングアップがてら走って!」
「はい!」
「手際が良過ぎるよ! 本当に大丈夫なの!?」
「ご安心ください。この対バンライブ、必ず成功させてみせます。僕のアイドルたちの力で!」
どっきゅん! 甘美な響きに、脳に一発ガツンと喰らわされた。
僕の、アイドル。
支配欲ならぬ、被支配欲とでも言えばよいのだろうか。肌の下でむずむずと痺れるような興奮が、全身を巡る。
姓は春日原、名は宇摘。九州出身、関東在住。二十代、女性、独身。「お仕事はなんですか?」と聞かれたら、「普通のOLです」と答える。
夢は、ステキな旦那様の尻に敷かれること。
今、その第一歩を踏み出したと言ってよいだろう。
アイドルとしてプロデュースされる。それはつまり、私は彼好みの味付けで料理されるということ。まさか、こんなに素晴らしい手があったとは。自分で思いつけなかったことが心底悔やまれるが、今見るべきは過去ではなく未来である。
煮るなり焼くなりお好きにどうぞと五体投地の心境であるが、文字通り寝転がっていてはことが進まない。
私は久道さんと甘やかにアイコンタクトを交わし、ともにスタジオの出口へと駆け出した。
◇
それからの時間は、嵐のように過ぎていった。
久道さんが組んだセットリストに合わせ、歌う、踊る。
久道さんが練ったプロデュース方針に合わせ、喋る、動く。
久道さんから、今まで私には一度も向けられたことのなかった厳しい指導が、何度も何度も入った。指先の角度、声のわずかな揺らぎ、エトセトラ。「落ちサビでの決めポーズ前のまばたきのタイミングが遅い」だとか「体幹が良過ぎる、ターンの後にふらつかないよう踏ん張るような僅かな不安定感を見せろ」だとか。そんな微に入り細を穿つ指摘の数々は、彼の真意を汲めない人間からすれば理不尽とも取れるだろう。
しかし、一歩後ろからずっと彼を見てきた私には分かる。
これは期待。信頼。
そして、愛。
期待と信頼に応えるのが社会人のプライド。
そして、愛に応えるのが、乙女のプライドである。