話せば長くなる複雑な事情
『つーのとこのアイドル、こっちでライブを、するんですね! せっかくだから見に行っちゃおうかな ちょうど、いつもの帰省の時期だから、つーも来るのですか?』
先月「めいめいどんどん」でポルチーニクリームのハンバーグを食べながらガン無視していた着信の正体は、母からの電話であった。ああ折り返したくない折り返したくないと一晩中ウダウダしている間に送られてきたメッセージがこれである。そしてその十分後には『むずかしかったけど、チケット、買えました!』と来た。あの瞬間の絶望を思い起こすだけで、めまいがする。
つー、というのは母だけが使っている私のあだ名だ。娘の名前が鬱と罪のハイブリッドになっていることに気づかないまま母に断りなく出生届を出したポンコツ親父に恨みがあるんだかないんだか、母は私を決して「宇摘」とは呼ばない。なおその父は私への最後のプレゼントとして新品ぴかぴかで裏地がチェック柄になっている水色のランドセルを残して突如家を去り、その行方は杳として知れない。
母との仲はわりあい良好である。母を一人きりにするのは心配だし申し訳ないという理由で家を出ることをはなから諦めていた私を「一人暮らしくらいしてみせなさい」と放り出すかたちで自由にしてくれたことにも、その後母自身も問題なく健康的に一人暮らしを続けてくれていることにも、感謝している。
が、いかんせん母は、我が強いうえに人の話を聞かない。母が自分の感性でものごとを勝手に解釈したら、それがとんだ勘違いであっても、もう覆すことはできない。「話せば長くなる複雑な事情」というものとの相性が、すこぶる悪いのだ。
その昔。小学校には集団下校という文化があり、三年生の頃の私は、近隣に住む五、六人ほどと班を組んで下校していた。誰かの家に差し掛かるたびに一人減り、二人減り。私が当時住んでいたアパートの前に来る頃には、私と、二件隣に住んでいた一年生の男の子だけが残っていた。
早朝から昼過ぎまで働いていた母とは帰宅時間が重なることが多々あった。男の子は明るく愛想が良く、母にもいつも人懐っこく挨拶していた。
ある日、母は私たちの前でぽろっと言った。「毎日デートできて素敵やねえ」と、微笑ましいものを見守る顔で。私はぎょっとした。既に惚れたはれたに興味を持つマセガキだった私にはいっぱしに好きな男の子が居て、それは同じクラスのガキ大将であって、今まさに手を繋いで歩いているこの子ではない。
家の中へ入ってから、私は母に必死に弁明した。ちがう、ちがう、私が好きなんはクラスのナントカくんなんよ、お兄ちゃんやないんよ、と小学三年生なりに捻り出せる語彙で訴えた。しかし母は聞く耳を持たず、はいはい照れちゃって照れちゃって、と受け流し、それより今晩は手巻き寿司やけん大きいお皿出してきてくれんねなどと言って、私にとって大事なことを勘違いしたまま、あっさり興味をなくしていた。
この母に、「王子様」としてステージに立つ姿など見られたら、どうなる?
いくら世間一般(と言えるほどの知名度ではないが)にはまだバレていないとはいえ、実の母が見れば、さすがに気づかれてしまうだろう。
一体なにをどう曲解され、弁明の余地もないまま勝手に受容されるのか、分かったものではない。会場で周囲のファンに「あれうちの娘なのよ娘ウフフ」などと吹聴されるリスクもある。放っておけない(中略)アイドル・瀬斗の偶像にかけられた久道さん特製のヴェールが、暴かれてしまう。
その結果、久道さんの期待を裏切ってしまったら?
考えるだけでも恐ろしい。あってはならない。あってはならないのだ、そんなことは。
私はなんとしてでも久道さんに与えられた役割をまっとうする。そうして彼に見そめられて、久道さんの思うがままに尻に敷かれるハッピーライフを手に入れるのだ。
そのためには、迫り来る母問題を乗り越えねばならない。
あまよくば福岡でのライブ自体に気づかずにいてくれればと淡い期待を抱いていたが、母は時折フォーカンについての情報をチェックしているようで、既にライブの情報を嗅ぎつけてしまっている。
対策案として、選択肢は二つ。
こちらから事前に事情を明かしてしまうか。
あるいは、絶対にバレないようにするか。
前者の場合、なにからどう話すかが枢要となる。しかし、一を聞いたら十をZだと勘違いし、Aを見たらZを白だと思い込み、撤回の余地もない人間を相手に、一体どう立ち回ればよいというのだ。今までなにを勘違いされても諦めて受け流すことが良好な親子関係の秘訣であると目を瞑ってきたツケが、今ここで回ってきた。
後者の場合はどうだろう。第一案、母にライブに来させない。第二案、瀬斗の出演をやめる。第三案、どうしても母は来るし瀬斗も出なければならないとなったら、瀬斗が春日原宇摘であることが分からないよう、徹底的に対策をする。このいずれかを実行すれば、なんとかなる。
しばし熟考したが、母と話し合いで物事を解決できるビジョンなど一切浮かばない。取り急ぎ、「真っ向勝負で説明するより、隠し通してしらばっくれる方がまだ現実的」という結論に至った。
さて、どうするか。
こういうとき、むやみにゴチャゴチャ考えるのではなく、まずは問題を細かく切り崩してブロック分けするとよい。
一、そもそも、本当に母にバレたらマズいのか。こんなに必死になる必要があるのか。
二、母に感づかれないために、母にライブへ来させない手立てはあるか。
三、母がライブに来ても問題ないよう、瀬斗の出演をキャンセルするのはどうか。その場合、どうすればキャンセルできるのか、そしてどんなデメリットがあるのか。
四、もし感づかれた場合、どうするのか。
これをそれぞれ追及するとこうなる。
一、マズい。一体どうなるのか想像がつかない。私と久道さんのラブラブハッピーライフプランが邪魔されかねない以上、対策は必須である。
二、平和な手段では恐らく無理である。私が瀕死状態になるくらいのトラブルが起こらない限り、母は予定を覆さない。そのトラブルをでっちあげるという案は一考の余地ありだが、良心の呵責で胃が痛む。
三、キャンセルしていいわけがない。デメリットもへったくれもない。私は久道さんの理想を叶えるために奔走しているというのに、これでは本末転倒だ。出るったら出る。瀬斗が今回のライブに出演するというのは、久道さんが決めたこと。私は久道さんに決して逆らわない。奉仕の精神、トゥルーラブ、フォーリンラブ。
四、とにかく箝口令を敷かねばなるまい。しかし母はとかく、とかく、とかく人の話を聞かない。外野がやいやい言ったところで母の行動は変えられないのだ。そのため、母自身のルールで「瀬斗についてはなにも喋ってはならない」と納得がいくよう促す必要がある。プログラミングを誤ればエラーを吐き出す。実におぞましい。これは途方もない作業である。
結論。瀬斗はライブに出演する。母も来るだろうという前提で考える。私は瀬斗の正体がバレないよう動く。もし母にバレた場合の対策については、今は考えない。
最優先事項は、「母に見られても娘だとバレない瀬斗」を作ることである。ここにリソースを割かねばならない。