ポルチーニポルチーニポルチーニ
「よろしくお願いしまぁす」
エスカレーター待ちの列を無視して隣の階段を上がり、狭苦しい三十五番出口から池袋駅を出た直後。ヘッドセットをつけた十代後半ほどの女の子が、こちらへポケットティッシュを差し出していた。中に入れこまれているのはネットカフェの広告である。受け取ると、彼女はにこりと微笑んで踵を返し、また別の人へと向かっていった。喉を傷めない小さな声で繰り返し繰り返し「よろしくお願いしまぁす」「ネットカフェ・エピナールでぇす」と呟いているが、ほどよく拡声されている。雇い主のはからいなのか、彼女自身の持ち込みガジェットなのか。横髪を両サイドにきっちり一束ずつだけ残して結い上げられたポニーテールを揺らしながら時折ヘッドセットに指を添える姿は、さながらアイドルのようである。
スーツを着て、誰に振り返られることも指差されることもなくのんびり歩いている私も、一応アイドルなんだよなあ、と考える。
十月も半ばを過ぎた東京。きっちり上着を着るとまだ汗ばんでしまうから、長袖のシャツと八分丈のスラックス、鞄の奥底には折り畳んだストール。とはいえ十八時を過ぎて既に日は暮れており、風が吹くと少しだけ冷える。目的地まで十分ほど歩くことを考え、迷った末、面倒さが勝ってストールは出さずに歩き出した。
雑居ビルの三階、本日只今の「めいめいどんどん」の客入りは九割。
「姉さん」
レジで帳簿を開いていた人影に向かって、腹の底からしっかりと、しかし口の中で囁くような風情にチューニングした声音でそう言った。
人影が顔を上げる。切れ長の一重瞼に鋭く引かれたアイライナー。真っ黒なワンピースの上で脈打つ白いエプロンのフリル。
「凛子姉さん、私よ、宇摘よ」
声をしっとりと震わせながら、一歩、一歩、確かめるようにレジへ近づいていく。
と、凛子さんはぐりんと目を見開いて、勢いよく後ずさった。絵画のパチモンがかけられた壁に背をつけ、かたかたと奥歯を鳴らす。
「どうして生きてるのッ!」張り上げるような、それでいて耳をつんざくでもない絶妙なボリューム調整。「ありえない、ありえない、そんなはずないわ!」
私はのっぺりとした笑顔を顔いっぱいに浮かべた。唇を笑顔のかたちに歪めると、声色も自然と不気味な明るさをはらむ。
「どうしてだと思う?」
「来ないで、来ないでよ!」
「そんな悲しいことを言わないで。全部、全部、教えてあげるから。ねえ、久しぶりに姉さんが淹れたホットミルクが飲みたいの。いいでしょう?」
かわいらしく小首をかしげてみせる。凛子さんは小さく洗い呼吸を繰り返しながら、震える瞳でぐらぐらと視線を迷わせ続ける。じっとりとした沈黙。やがて大きくふうっと息を吐いて、凛子さんは私の目を見ないまま厨房へと歩き出す。
「いいわ。待ってなさい」
今にもほろほろと崩れ落ちそうな声で言い残し、スイングドアの向こうへ。
わっ、と空気が崩れ、拍手とともに店内はざわめきを取り戻した。
カウンターの両端は埋まっていたので、左に先客、右は空席、という席を選んで腰を下ろす。左の先客が小さく会釈してくれたので、会釈を返す。
ほどなくして凛子さんが戻ってきた。オレンジジュースとサラダを差し出される。
「本当にホットミルク飲みたいわけじゃなかったでしょう?」
「お察しの通りで。あそこでオレンジジュースって言うのはちょっと、流れにそぐわないかなあと」
「最近エチュードが上達してない? どこかでお芝居でもやっているの?」
「いやあ、まさかあ」
心当たりはあるが素直に言うわけにはいかないので、笑ってごまかす。
「というか、なんでホラーにしちゃうんですか。ハートウォーミングな感動の再会がやりたかったのに」
「さっきバイトちゃんたちがホラー系でやってたから、寄せようと思っただけよ」
「よっぽどハロウィンが楽しみなんですねえ」
「そうみたい。注文は?」
凛子さんがわざわざメニュー表を見せてこない場合、私が知らない限定なり新作なりのメニューは今は特にないということだ。
「先週いただいた、なんでしたっけ、クリームきのこのハンバーグ? あれ、まだありますか」
「ポルチーニクリームね。ちょうど今日でおしまいなの」
ひらりと手を振って、凛子さんはまた厨房へ戻っていった。
頬杖をついて、ぼんやりとカウンターの奥の食器棚を見つめる。先代店長の趣味で作られたプラモデルだけで埋められている一段が異彩を放っているようでいて、いずれもクラシカルな色合いに丁寧に塗装されているため、不思議とこのメイド喫茶に馴染んでいる。じいっと眺めていると、ストライクフリーダムガンダムがアンティーク雑貨としてやっていけるのなら、この世界ってなんでもありでいいんだよな、としみじみ思える。むしろガンプラがメイド喫茶にあることくらい、不思議でもなんでもない。
この世にはもっと素っ頓狂なものが溢れているはず。それは紛れもなく希望である。私も素っ頓狂な存在になったからこそ、そう思うのかもしれない。
ひとり黄昏れている間に、左隣の客が帰っていった。去り際に「ありがとうございました」と言われたので笑顔を返す。あの入店時のエチュードを、礼を言うに値するほど良いものだったと思ってくれたということだろう。その後、いくつかのテーブル席の客も一斉に帰っていった。団体客だったらしい。何人かが「よかったよぉ」と声をかけてくれたので、どうもどうもと手を振る。
片付けがさっさと済まされ、カウンターに居た先客達は春ちゃんに「坊ちゃまもお嬢様もこちらへいらして、ボトルシップをご覧になりませんか(二名様よろしければ広いテーブル席へどうぞの意)」と言われ移動していき、あれよあれよという間にカウンターは私一人きりになった。
「お疲れ様です。波が引きましたね」
ハンバーグを持ってきた凛子さんにそう言うと、「やっと座れるわあ」と笑われた。お冷のグラスを手に、左隣に座ってくる。
「最近仕事はどう?」
「うーん」とうっかり渋い反応をしてしまい、取り繕う間もなく凛子さんが目を輝かせた。
「あら脈あり? いつうちに戻ってくる?」
「戻りませんよ。山あり谷ありでこその人生です。ひとつ難所が見えたとて、安易に引き返してはいけません」
「ふうん。まあ、万が一なにかあっても戻ってこられる場所があると思えば、なんでもできるものね。そういう存在でいてあげるわ」
「それは……ありがとうございます」
退路を断たなければできないこと、というのは世の中にままあるのであろうが、退路があるからこそできること、というのも恐らくある。けれど私は、退路があろうとなかろうと、迷わずこの道を進んでいただろう。
姓は春日原、名は宇摘。九州出身、関東在住。二十代、女性、独身。「お仕事はなんですか?」と聞かれたら、「普通のOLです」と答える。
夢は、ステキな旦那様の尻に敷かれること。
そのためならばアイドル活動だろうとなんだろうとやり遂げてみせるのが、私の生き様である。
しかし、と考える。
はじまりのあの日、ここで言うしかあるまいと思い交際の申し出をしたが、あれは忘れ去られたままだ。
久道さんのプロデュース通りに活動をするのは楽しい。彼が思い描く姿に私を染めてくれるのは、たまらなく胸が躍る。それに、このまま立派にアイドルを務めあげれば(勤めあげれば?)(いや、努めあげれば?)今度こそただの春日原宇摘としての私にも魅力を感じてくれるのではなかろうかと、そういう期待もある。いや、期待というより、そういう予定のつもりで動いている。
それくらい確固たる思いで日々を過ごしているのだが、ここ最近は、いやに心がぐらつく。
その理由は分かっている。
「宇摘ちゃん、スマホ鳴ってるわよ」
「気のせいじゃないですか」
「いや鳴ってるじゃない、ずっと」
「気のせいじゃないですか」
足元の籠に入れている鞄からちらりと覗くスマホがぶるぶる震えていることには、凛子さんに指摘される前から気がついている。着信名を見た瞬間、ああとうとう来たか、と暗澹たる思いが押し寄せた。応答する気になれない。
サラダを食べ終えていそいそとハンバーグへ取りかかると、凛子さんはそれ以上突っ込まずにいてくれた。
「めいめいどんどん」のハンバーグは、西巣鴨の洋食屋から特別に仕入れさせてもらっているものだ。凛子さんお手製のガトーショコラと交換している。しっかりとした食感でスパイシーなのが特徴で、今日はその上に乳白色のソースがとろんとかけられている。通常メニューのトマトソースとデミグラスソースは出来合いのものを軽くアレンジして使っているが、こういった特別メニューのときは凛子さんのオリジナルだ。
「んおいしっ。なんでしたっけこれ、ボルケーノ?」
「ポルチーニ」
「ポルチーニポルチーニポルチーニ。もう忘れないぞ」
「宇摘ちゃん、あんたは強いねえ」
「なんですか急に。否定はしませんけど」
「ありのままの強かな君が好きだよって言われるのと、僕には弱さを見せていいんだよって言われるの、どっちがときめく?」
「好きな人が『そういうところが好きだよ』ってきっぱり言ってくれるなら、どっちでもいいです」
付け合わせのポテトをもぐもぐやりながら素直にそう答えると、「あっはっは」と気持ちよく笑われながら、ちょこんと肩を小突かれた。凛子さんは豪快なようでいて、こういう仕草がちょっぴり楚々としているのがなんとも愛らしいのである。
ほっこりしているうちに、スマホは静かになっていた。