極めてスキャンダラス
半分ほどたこ焼きをいただいたところで、腹が満たされて心も落ち着いたのか、久道さんの顔色にはだいぶ血の気が戻っていた。佳狩さんとともに帰っていくのを見送ってから、私はパソコンを起動し、ざくざくと雑務を片づける。
問い合わせのメールをさばき終え、さて、と椅子から尻を上げ、腕を組む。考え事と考え事の合間の休憩には一発ヨガを入れて気分転換をすることが多いが、まさしく考え事をするというときは、歩くに限る。私は狭い事務所の中を、ぐるぐると歩き出した。
アイドルにだって恋人くらい居るかもしれない。今は居なくても昔は居たかもしれない、好きな人は居るかもしれない、いつか結婚してしまうかもしれない。そんな話はどんなアイドルのファンであっても抱えうる感情である。人それぞれ受け入れたり受け入れなかったりしながら、探りを入れたり見ないふりをしたりしながら、祝福したり呪ったりしながら、喜んだり悲しんだりしながら、大なり小なり折り合いをつけていくものである。
久道さんは、そんな悩みを一切抱えさせないグループとして、フォー・カントリーをプロデュースしていきたいらしい。
無茶である。無理である。無謀である。こちらがどう見せるかはいくらでもコントロールできるか、相手にどう思わせるかというコントロールは難しい。相手になにを感じさせないかというコントロールは、更に難しい。久道さんはフォーカンを「まんがタイムきらら」なグループとして売っていきたいのだろうというのは分かっていたつもりだったが、まさかそこまで考えていたとは。ちなみにここでの「まんがタイムきらら」は実物を示す固有名詞ではなく「いわゆるああいうゆるくてかわいい日常コメディ的なアレ」という漠然としたイメージの集合体を指す形容動詞である。
今回のボヤ騒ぎは、放置していてもまったく問題ない。私とフォーカンのメンバーは、そう判断している。盗撮は咎めたいところだが、簡単なエゴサでは辿り着けないような投稿の内容をなぜ知っているのだと突かれるのは避けるべきだ。触らぬ神に祟りなし。へたに触れる方が痛い目を見かねない。
なにか直接的なテコ入れをするのではなく、ただひたすら今まで以上に世界観をがっちりと固めていく。それが、唯一にして最善の手であるように思える。うん。そうだ。それしかない。久道さんは物事を複雑に深刻に考えて八方塞がりになっている様子だったけれど、明日、こう提案してみよう。
そう結論付けて足を止めると、私は冷蔵庫の前に立っていた。晃市さんのメモが目に入る。あっ、焼きそば。久道さんに食べさせそこねてしまった。晃市さんに謝罪とお礼を伝えて、私がいただいてしまおう。ちょうど自炊弁当を持ってこないようにしている曜日でよかった。
自炊弁当は料理ができる女アピールに使えるが、昼食のために外へ誘い出してもらう機会を失ってしまう。きっちり曜日を定めて「何曜日は持参弁当で何曜日は外へ食べに行くんだな」と久道さんに覚えてもらえれば、ランチデートに誘ってもらいやすくなるというもの。私はその機会をいつでも待っている。
時計を見ると、十一時半。誰の目もないのだから昼休憩なんていつ取っても構わないのだが、それでも一応十二時まで待つことにする。SNSのチェックでもしよう。昨晩は生配信で地方公演の詳細を発表したはずである。どのような反響があったのか気になるし、後で配信のアーカイブも見ておこう。そんなことを考えながらパソコンでSNSのページを開き、エゴサ用のアカウントにログインする。と、ある投稿が目に入った。
『最近ずっと瀬斗くんのこと考えてる 最前列で浴びた瀬斗くんお肌つやつやすぎ、おめめきらきらすぎ、女の子みたいでとってもかわいかった(特殊記号が使われた泣いているうさぎの顔文字)』
むむ?
ログイン直後、偶然、一番上に表示されていた投稿。投稿主は、こちらが一介のファンを装うことで相互フォロー状態にこぎ着けた鍵アカウントである。フォーカンに見せられないようなことを言うから、という理由での鍵ではなく、ただ単に日常的なことを雑多に投稿するからそうしているだけ、といった風情だが、このアカウント主は瀬斗を気に入ってくれているようで、いつもむず痒い思いで投稿を見ていた。
しかし、これは、なんというか。佳狩さんの炎上モドキ騒動よりもよほど重大なことを、私はずっと見落としてしまっていたような。
よく考えたら、成人女性が少年のふりをしてアイドルをしているなんて、スキャンダラスなのでは?
そのうえ若手男子アイドルグループと仲良くじゃれているなんて、極めてスキャンダラスなのでは?
……いや。この件については、考えるのをやめよう。難しいことを考えていたって仕方がない。焼きそばを食べよう。
デスクを離れ冷蔵庫の中を漁る。焼きそばをレンジにかけながら、戸棚から箸と、そしてスプーンを出し、また冷蔵庫を開け、手近なゼリーをひとつ、もりもり頬張る。あっという間になくなった。もうひとつ頬張る。レンジの中で焼きそばがぐうるりと回っている。レンジはむむむうと低く呻いている。オレンジの酸味が口の中いっぱいに弾け、つるんと喉の奥に消えていく。シロップの甘い後味だけが、舌の裏に溜まっている。
そっとデスクへ戻った。瀬斗について言及されている投稿だけを視線で拾う。器用にやっているというよりは、今はそれ以外の情報が目に入ってこないだけだ。
歌がうまい。王子様。ある意味シコプロ最大のコメディ要員。年齢不詳。自分はまだ瀬斗をフォーカンの弟分だとは認めていない。歌がうまい。メロい。秘より小さい。瀬斗宛のプレゼントボックスの設置を求める。衣装がフリル多めで素敵。正直言っていらない。歌がうまい。所作も立ち姿もきれいだけれど堂々としているのが男の子っぽくて良い。
今までも多く目にしてきた意見たちだが、改めて見ても、「バレているのでは?」と思わせるような投稿はない。秘より小さいというのには多少ドキッとしたが、投稿主の前後の投稿も遡って見てみると『プロフ見たらうちの弟と身長一緒だったから背比べして興奮してきた。こんにちは悪い姉です』と続いていた。その後も違和感なく少年アイドル・瀬斗のパフォーマンスを賞賛してくれている。
いや、なぜだ。冷静に考えたら、なぜバレていないんだ。成人女性だぞ。無理があるだろう。
脱力したままふらふらと応接スペースのソファへ倒れ込むのと、事務所の扉が開くのが同時だった。よもや久道さんが戻ってきたのかと慌てて起き上がる。しかし正体は特真さんであった。なんだ。改めてソファへ沈む。
「おはようございます……大丈夫ですか、デスクさん……」
「おはようございます、お気になさらず」うごうごと右肩を起こし、うつ伏せから横向きへと体勢を変える。「特真さんこそ、どうしたんですか」
「暑いので……ちょっと休憩させてもらおうかと」
対面のソファに腰を下ろしながら、首からカメラを下ろす。特真さんは時折カメラを持って街中をうろうろしては、雑草が絡むフェンスやビルの外壁、そのへんの石、アスファルトに咲く花などを撮っているらしい。
「昼飯、なんか食べました……? パン屋の前を通ったんで、色々買ったんですけど……」
「あっ」忘れていた。焼きそばを温めっぱなしのまま放置していた。「まだです。焼きそばがあるので、焼きそばパンにしましょう」
「もしかして、昨日の晃市の……?」
「せっかくのご厚意でしたけど、久道さんには食べさせそこねちゃいました」
「まあ、晃市はそういうの気にしませんよ……。デスクさんが食べてくれるんなら……それで」
レンジから焼きそばを出し、特真さんの分の取り皿や箸も握って戻ってくると、テーブルの上にはソーセージやたまごサラダがそれぞれ入ったコッペパン。袋の内側には少し水滴がついている。どうも焼きたてらしい。二つのコッペパンを手でちぎって半分にして、むいむいと焼きそばを入れていく。ハーフサイズのソーセージ焼きそばパンとたまごサラダ焼きそばパン。朝のたこ焼きがまだ胃の中にあるような感覚はしているけれど、むしろそれが呼び水となり、新たな小麦とソースを吸い込んでいく。
「特真さん。私、男の子に見えますかね」
コッペパンの甘さが残る口でぽんやりと呟く。特真さんはしばし無言ののち、二、三度大きく頷いた。
「ようやくそこを心配しはじめてくれましたか……。もう好きにすればいいと思って、黙ってましたけど」
「いやはや」
「でも、むしろそれがよかったんだと……思います。堂々と、というか、あっけらかんとしている人間を、ひとはそうそう疑えない」
「これからも、余計なことは考えずにいた方がよいだろうと?」
「少なくともデスクさんには、それが合っているんじゃないですかね……」
「なるほど」
確かにそうだと思いながら、たまごサラダ焼きそばパンを食べ進める。
晃市さんの焼きそばは豆板醬だの鷹の爪だのが入っているからピリ辛だ。それがふわふわのたまごサラダによく合う。ここで作ったのだとしたら一体事務所のどこにそんな調味料があるのかは気になるところだが。ゼリーの海をほじくりかえせば出土するだろうか。
「きっぱり『男の子です』って言ってなければ、もしバレても、言い逃れのしようはあったのに……。言っちゃってますからね、『シンデレラ・ボーイ』って。軽率でしたね……」
「ぐう」
特真さんはオブラートなどという回りくどい装飾を施さずにさくさくと喋るから、たまに痛いところを真っ直ぐ突かれる。しかしそれが彼の美徳である。
「そういえば、昨日の生配信はどうでしたか? 地方公演の行き先を発表したんですよね?」
「発表、というより……その場で決めたんですけど」
「へえ、そうなんですか」
「……久道さんから聞いてないんですか……? デスクさん、というか、瀬斗も出演するのに」
「へえ、そうなん……えっそうなんですか?」
受け流しかけたが、結構重大なことを聞かされたような。特真さんは奥歯で苦虫をぎちぎちと嚙み潰すような渋面で唸った。「久道さん、報連相……」
「まあまあ、私は構わないので。コメントをもらいながら会議でもしたんですか? ここに来てほしいとか、ここに行きたいとか」
「いえ……日本地図のパズルって、あるじゃないですか。都道府県ごとに、ばらばらのピースになっているやつ……。あれの裏にマグネットをつけて、ぐちゃぐちゃにホワイトボードに貼って……吹き矢で決めました」
「吹き矢で」
「とりあえず、四人全員がどれかしらのピースに当てられるまで続けて……当たった四つのうち、誰かしらが一番最初に当てられた場所に決定……というルールで」
口ぶりからして、全員なかなかピースに当てられない泥仕合だったに違いない。手の込んだバカだ。しかしそれがフォーカンの売りだと思い直しながら、ソーセージの方のパンを手に口をあける。
「デスクさんって、九州出身でしたよね……。どこなんですか?」
「福岡です」
「じゃあ、凱旋ですね……」
前歯がソーセージに触れ、ぷちんと割れ目を作った。そこで一瞬動きを止めてしまったが、むうっと噛み締めて、一口もぐもぐと咀嚼する。同じようにもぐもぐしている特真さんと、しばしソーセージの先っぽを突き合わせながら食べ進める。
凱旋。凱旋とは。
「いつですか」
「一月の最後の土曜って言ってたんで、あー……二十五日です」
スマホを見ながら特真さんが言った。
一月末。
私は、世間の長期休暇からズラして休暇を取るようにしている。会社としても年中無休で誰かしらは事務所に居てほしいとのことで、世間の休暇日に働きたがる私の希望は、毎回喜んで受け入れられてきた。お盆休みは毎年七月の内に取得して、実家へ帰省する。年末年始の休暇は、一月末にずらす。
もりもりと、パンを食らい続ける。人間、驚きや動揺に見舞われても、分かりやすく椅子から転げ落ちたりという反応は、意外とできない。