ありますよ、佃煮
麦茶を飲み干して頭を冷やそうと手を伸ばしたところで、がちゃんと鉄の音。「おはようございまーす」の声に振り返ると、開いたドアの向こうから、なぜか佳狩さんが顔を出していた。
「あれっ、おはようございます……どうしたんですか、今日はオフのはずですよ」
「久道さんが気になって来ちゃいました」そう言って佳狩さんは丸眼鏡の上の眉をハの字にした。「たこ焼き持ってきましたよ」
冷蔵庫の中にも小麦とソースの塊が入っているが、まあ、それよりも目の前で今まさに湯気を立てているものから食べるべきだろう。
「ありがとうございます。領収書いただけますか」
「あ、ないです、ないです。おれが食べたくて持ってきたおやつなので」
なんて言いながら八個入りが二パックもあるし、割り箸はきっちり三膳入っている。ここにまだ久道さんが居ることと私が出社してきていることを見越したうえでのことだろう。
佳狩さんは無法連合国フォー・カントリー随一の良心だ。いつもぼんやりしているし、頓珍漢なことを言いだすことも多々あるし、本人は時折「おれは多分脳みそがちょっとちっちゃい」などと切ないことを言うけれど、仮にそうだとしても、そのおかげで悪意や打算が入り込む余地のない真っ直ぐな思考を働かせているのだとしたら、それは間違いなく美しいことだと思う。
「こんな朝からたこ焼きが買えるお店があるんだね」
「高校の時にバイトしてたカフェがモーニングで出してるんです」
モーニングたこ焼き。都会には実に色々ある。
パックを開けると、真っ直ぐ食欲をそそる抗いようのないソースの猛撃を食らう。それとなく久道さんの方へ寄せ、割り箸もきれいに割って彼の前へ添えてみると、ちろりと机上に視線が向いた。落ち込みモードの牙城を崩すには十分な破壊力だったらしい。
勧める前に、まずは自分たちで食べる。相手になにか食べさせたいときは、まず自分が食べてみせるのが鉄則だ。
箸で軽く持ち上げると、とろんと潰れていく。少々お行儀は悪いが、ちょいちょいと穴を開けると、そこから一気にもわんと湯気が広がった。まだあつあつだ。しばし湯気を逃がしてから慎重に頬張る。むむ? ほんのりとした酸味と。タコのほかに、タコよりもやわらかい食感。
「イタリアン?」
「中にラタトゥイユ入れてみました。イタリアンというかフランス料理らしいんですけど」
「おいしいですね。もしかして佳狩さんが焼いてきたんですか?」
「へへ」とはにかんで頷く。「夏はいいですね。こういうの食べても、あんまり眼鏡が曇りませんから」
と、こんな風に目の前であつあつのものを美味しそうに食べながらのんびりお喋りをしてみせれば、頑なに反省の殻に閉じこもっていた人もなんとなく心がほぐれて「ちょっと食べてもいいかな」なんて気分になる。それが人情である。
「こっちのは、中はふつうのたこ焼きなんですけど、上にピザソースとチーズで、しっかり焼き目をつけてみました」
「おいしそうですが、珍しいですね」
「そうですか? チーズってかなり王道のトッピングですよ」
「いや、そうではなく、佳狩さんが佃煮を持ち出してこないのが珍しいなと」
佳狩さんといえば衣装のポケットにまで小さな佃煮の小瓶を忍ばせている佃煮ジャンキーである。冷蔵庫の中も、ゼリーの海をまさぐっていけば、佳狩さんの佃煮がころころ出てくるにちがいない。
とはいえ今回は久道さんを想って、洒落たものや、間違いなく美味しいということが一目で分かるようなものだけを作ってきてくれたのだろう。やはり佳狩さんは心根が優しい。
「え。ありますよ、佃煮。食べますか?」
うん?
佳狩さんはリュックをまさぐると、別のビニール袋を出してきた。そちらにもパックが二つ。
「こっちが海苔、こっちが昆布です。おれのお昼ご飯にしようと思ってたんですけど、へへ、嬉しいですね、佃煮食べてくれるの。いつもみんなうっすらスルーするから、興味ないのかなあって思ってました」
興味がないというか、白米のない場で「ちょっとちょうだい」と言うのは少々躊躇われるというだけである。
佳狩さんは小さな魚のかたちをした調味料入れの赤い蓋をくるくる開け、佃煮たこ焼きの上にちょいちょいとかけていった。更に別の小袋を開けたかと思うと、そちらは鰹節である。
「だし醤油でいただくのが美味しいんですよ。さ、久道さんもどうぞ」
久道さんの目の前にパック容器がひしめいている。ふうふう揺れる鰹節。久道さんはそろそろと割り箸に手を伸ばし、しかしそのまま両膝の間に頭を挟んで重低音で唸りだした。
「わ、わ、ごめんなさい! やっぱり嫌でしたか、佃煮!」
「そうじゃない! そうじゃないんだあ!」
膝に挟まれた声はソファに吸われてしまい「ほうぢゃやい! ほうやらいんまあ!」くらいの発音に聞こえるが、久道さんがなにを言っているのかは文脈から判断できる。
「佳狩、僕を許してくれとは言わない。でも、どうか、僕に優しくしないでくれ。情けなくてたまらなくなる」
「そんなこと言わないでください、昨日の件はなんとも思ってませんから」
「それは分かっているんだ。佳狩は強くて優しい子だ。それは信じているんだ。そこは心配していないんだ。そこじゃないんだ」
久道さんは箸を握り締めたまま、ぬるぬると上体を起こしはじめた。しゃっきりと背筋を伸ばした姿勢になると、思わずこちらも居住まいを正す。
「佳狩はお姉さんと買い物をしていただけ。気に病む必要はないし、実際、気にしないでいてくれている。でも、あの投稿を見たファンの心の中には、『結局あれは誰だったんだろう』とか『佳狩には彼女が居るのかも』とか『他のメンバーにだって居てもおかしくないんだよな』とか、そういう気持ちが少なからず残り続ける。フォーカンを応援する気持ちへのノイズになりかねない気持ちだ。そんなのはどうでもいいと言って完全に無視できるほど強いメンタルの人ばかりではない。この状況はフォーカンにとって得か損かで言えば、もちろん損だ。僕はこれを見過ごすわけにはいかない。なんらかの手を打たなければならない」
ぎらついた瞳は静かに机上を見据えている。
「フォーカンは、全員が二十歳を迎えるまで、今のプロデュースプランを大きく崩すことはしない。教育テレビでも流せそうな当たり障りのない全年齢ラブソングや幼児教育にも使えそうな自己啓発曲ばかりを歌い、毒にも薬にもならない雑談でわちゃわちゃ遊んでいる。小学生男児のような下ネタも、大学生男児のような下ネタも言わない。これは聖域だ。往年の女性アイドルがトイレに行かないのと同じように、フォーカンの日常には、どんな女の影も出てきてはならない。それを意識させる時間は、一瞬たりともあってはならない」
すべての異論を跳ね返す冷たいオーラを纏い、揺るぎない意志で、一音一音、刺すように言葉を落としていく。久道さんの周りだけ重力がひときわ強くなっているかのような、その重みが彼の凄みを一層色濃いものにしているような、そんな迫力。「えっ、瀬斗の二回目のライブのMCで付き合うのなんのというのをネタにして大ウケしちゃってましたけど、あれはよかったんですか」とか、「じゃあ前座で瀬斗がお姫様探し営業をするのもマズいんじゃないんですか」とか、そんなつまらないツッコミを入れさせない、この気迫。
これ。これだ。そうだ。これだ。私が小さな小さな合同企業説明会の片隅でめぐり合い恋に落ちたのは、このずしんと腰を据えた久道さんの、燃えるような瞳なのだ。私はこの人に好き勝手されたいのだ。この人の尻に敷かれたいのだ。
性癖のオリジンに立ち返り、私の胸は打ち震えていた。
「それで、手を打つ、っていうのは……?」
佳狩さんも久道さんの迫力に押されたらしい。いつになく神妙な面持ちで息を呑んでいる。
久道さんは静かに瞼を伏せ、天を仰ぎ、また俯き、息をつく。そして、鷲掴みにしている割り箸で、たこ焼きを突き刺した。頬張る。突き刺す。頬張る。さながらベビーフォークでミートボールを貪る幼児のようである。そんな調子で三個四個と食らったところで、久道さんは深い深いため息をついた。薄い唇から白い湯気がくゆる。咳払いをし、成人男性らしく箸を持ち換え、改めていそいそとひとつ口に運ぶ。
「うまい!」
「えっ、はい、ありがとうございます!」
「分からん!」
「えっ、ええと、そっちに入ってるのはラタトゥイユで、今さっき食べてた一個は海苔の佃煮です」
「どうしたらいいんだ僕はぁ……」
久道さんはそのまましくしくと渋い顔になってしまった。そしてまた佃煮たこ焼きをもりもり食い、「すんげぇうまい」とごちる。「分からん」というのは、一部のファンの間に望ましくない後味が残ってしまっているだろう、という憂慮への対策の話だったらしい。
佳狩さんはまた眉をハの字にしたが、少し明るい声色で「困りましたねえ」と言い、自分ももりもりたこ焼きを食べはじめる。
私も噂の佃煮たこ焼きを食べてみることにした。どちらが海苔でどちらが昆布だったかは忘れたが、どちらでも構わない。ああ、うん、うん。美味しい。とろんとした生地に佃煮の塩味が混ざり、タコと昆布のどちらも固さはあるが、厚みや弾力の違う食感が楽しい。だし醤油とかつお節で和の風味が一層強くなっており、うん、うん、いや、ちょっと本当に、かなり美味しい。
「なんとかなりますよ。どんなことでも、だいたいは」
二つのたこ焼きの上でくっついているチーズを切り離しながら、佳狩さんはにこやかに言った。
久道さんはじんわり涙目になりながら「うん」とか「ありがとう」とか「うまい」とか呟いて、たこ焼きを口に入れ続けている。うーん、どうしてかしら、やっぱり弱っててもステキ。