閻魔裁判より時間かかるじゃないですか!
翌朝の街は、深夜に降っていた雨のせいでサウナの如き蒸し暑さであった。脳みそを温泉卵にされながら、固ゆでになる前になんとか事務所へ辿り着く。
昨夜のヘアサロンでは、結局「長さは変えずに軽く整えるくらいにしてください」と注文した。カラーにはマットというらしいグリーンを濃い目に入れてもらっている。透明感がうんぬん、と美容師さんは言っていて、実際なんだか綺麗なように見える気はするのだが、久道さんの目にはどう映るだろう。どぎまぎしながらホワイトボードを見やると、そうだ、久道さんは今日お休みなんだった。
昨日ゆるく巻いてもらった髪には、湿気に負けず、まだふわふわが残っている。かわいいのにな、トリートメントしたてでツヤツヤなんだけどな、久道さんに見せたかったな。そんな溜め息が出てしまう。
そういえば、今日はフォーカンのメンバーもみんなオフで、事務所に出てくることはない。
つまり、この事務所は今、私の城。
久道さんの席で仕事をしてしまおう。そうしよう。るんるんむふふ、と浮足立つ気分で彼の席の椅子を引き、腰を下ろし、椅子を奥へ、うん? なんだ? 引っ掛かる、というか、押し返される?
「んどひぃ」
重低音からファルセットへ高速で移り変わるテクニカルな悲鳴をあげてしまった。椅子ごとシャガガガと後ずさりする。
デスクの下で、久道さんが膝を抱えていた。
「ちが、ち、すみません私の席のパソコンの調子が悪く、その、誰のアカウントでも、どのパソコンにもログインできるようにしてあるでしょう、なので、今日久道さんはお休みですし、ちょっとお借りしようかと、それで……お休み?」
沈黙。
久道さんは微動だにしていなかった。それなりの身長の成人男性がスチールデスクの下に体育座りで収まっている時点で首の角度がとんでもないことになっているが、そのまま動こうとしない。いや、まさか動けなくなっているのか?
「く、久道さん、大丈夫ですか、い、生きてますか」
無反応。
足首に力なく添えられた手を取り上げ、脈を測る。動いている。生きている。
ほそほそと、空気が撫でさすられているような音。よくよく耳を澄ますと、それは久道さんの声であった。
「久道さん、久道さん、しっかりしてください、どうしたんですか」
「……いだ」
「え?」
「おしまいだ」
きっぱりとそう言い切った声が、久道さんの両膝に挟まれたまま、床へと落ちていった。
「あの、とりあえず出ていらしてください。首を痛めますよ。すごい角度になっています。首はほんとうにしゃれになりません」
「クビだよ。ぼくはクビだ」
「そうですね、久道さんの首が久道さんの首でありつづけられるように、とにかくまずは出ていらしてください、ほら」
てきとうな理屈で会話をごまかしながら、とにかくこの狭苦しいところからお助けせねばと腕を引っ張る。ぐいぐい引っ張ったひょうしにバランスが崩れてハワワ急接近なんて展開がないかしらんなんて、久道さんのピンチの最中でも私の助平心はクルクル働いてしまうのだから困ったものだ。
しかし、私がしばらく腕を引いていると、期待に反して、いや本来の望み通りに、久道さんは自らのそのそと外へ出てきてくれた。
二人して床にぺったりと座り込んだまま、私は久道さんを見つめ、久道さんはうなじをすりすり撫でながら自分の足を見つめている。
「今日はお休みだったのでは?」
いきなりだが、わりあい核心からそう遠くもないであろう話題から攻める。久道さんから、なんだか随分思い詰めているような気配がむわむわと立ち昇っているのだ。早く楽になってほしいのに、回りくどいことをするのは焦れったい。
「僕が休んでいいはずない。あるいは永久に休むしかない」
「理由をお聞きしても?」
「僕が情けなくて不甲斐ないからです」
「私は情けないとも不甲斐ないとも思いませんよ」
むしろ虚ろな目でしおしおと声を震わせながらも鼻水が出てきたらデスクの引き出しをまさぐってティッシュを出してズビッとやってきちんとゴミ箱へ放る、そのいじらしいまでの逞しさが、この上ないほどの生命力であると思えてならない。
「どうしてそんな風に考えてしまうのですか」
「僕には判断力というものがない」
「というと?」
「僕は大事なアイドルを守ってやれなかった。せめてこの先は守ってやれるのかどうか、その瀬戸際に居るのに、どうしたらいいのか分からない」
玉ねぎを外側からちりちり剥くような風情で会話が進んでいく。
「大、炎、上、です」久道さんはおもむろに叫んだ。やけっぱちになってきたのか、てきぱきと確かめるような発音であった。「佳狩さんが大炎上している」
おや、と思った。炎上、佳狩さん、といえば、昨日「まあいいか」といった空気で流されていった熱愛盗撮騒動が思い浮かぶ。しかし拡散数とお気に入り数と返信数を合計しても二百にも満たない投稿ひとつで大炎上とは大げさな。
あの後、退勤前に少し様子を見ていたが、火元の投稿主のアカウントには鍵がかけられていたし、他のファンも「あの一瞬のボヤなんだったん?」と受け流しているようだった。
「どうってことありませんよ。人の噂も七十五日といいますし」
「閻魔裁判より時間かかるじゃないですか!」
「言葉のあやです、四十九日と比べないでください。放っておいてよいでしょうという話です。麦茶でも淹れますね」
応接スペースのソファへ座るよう促し、冷蔵庫へ向かう。久道さんは昨夜の生配信の前だか後だかにフォーカンのメンバーから「そういえばこんなことが」くらいの面持ちでくだんの話を聞いたのであろう。そういえば生配信の反響がどうだったのか、まだチェックしていない。しかし久道さんにそれを聞ける状態だろうかと考えあぐねながら冷蔵庫へ手を伸ばしかけ、はたと気がついた。水道屋の電話番号とキティちゃんがデザインされたマグネットで、なにか貼り付けてある。
デスクさんへ
生配信のあと くどーさんにかがりのアレを話したら なんかえらいことになりました 事務所から出たがらなかったから社長に電話してそのまま置いて帰ってます 中にやきそばあるから チンしてくどーさんに食べさせてね(多めに作ったからデスクさんも食べちゃえ~)
こーいち
重要な共有事項を冷蔵庫に貼るな。
ぱこんと冷蔵庫を開けると、相も変わらずぎちぎちに詰まったゼリーたちの隙間に、ラップをかけられた深皿がひとつ押し込められていた。まあ一旦後にしようと、麦茶のボトルだけを引っ張り出す。
二つ出したグラスに麦茶を注ぎ、久道さんの前に一つ、彼の前に座った己の前にも一つ。
久道さんは太腿の上に肘をついて前のめりになっている、というより、項垂れている。浅いため息のように繰り返される苦しげな呼吸、垂れ下がった髪の合間から覗く血の気のない真っ白な耳、しわくちゃになっているワイシャツ。
なんということだろう。私の真なる性癖は「好き勝手にされる」ということのはずなのに、こんなにもへろへろに弱り切った久道さんの姿に、たまらなくむずむずしている私が居る。
いけない。性癖がブレると、目標がブレる。目標がブレると、行動がブレる。
私は久道さんの強かな瞳の光に惚れたのだ。アイドルをプロデュースするという道をぎらつく瞳と燃える野心で突き進まんとする雄々しさに惚れたのだ。こんな人の尻に敷かれたいと、恋焦がれているのだ。初心忘るべからず。冷静にならねば。