「むふん」
八月末日。
長らく一帯を熱していた真夏の太陽がようやく沈み、それから保温状態でぐらぐらむわむわと街が煮えている二十時過ぎ。
池袋駅からサンシャインシティ方面への道中は、始終歩行者天国然とした狭い往来を囲い込むように、ありとあらゆる雑居ビルが立ち並んでいる。耳にはきゅるるんとした女の子が自身の配信番組を宣伝する声や、新人芸人による劇場への呼び込み、ゲームセンターから漏れ聞こえるクレーンゲームの操作音、ありとあらゆる音が飛び込んでくる。寿司屋ですら軒先でシブがき隊の「スシ食いねェ!」を大音量で流している街だ。向かいのコンビニの店員などは猛烈に寿司を食いたくなるか猛烈に寿司を嫌いになるかの二択であろう。
寿司の洗礼を受け流しながら、更に駅から離れていき、そっけない居住まいのビルの外階段を上っていく。
三階、「めいめいどんどん」の扉を開けると、客入りは半分そこそこであった。
「ちょっと、アンタ」
奥から険しい表情の女が出てくる。切れ長の一重瞼に鋭く引かれたアイライナー。真っ黒なワンピースの上で脈打つ白いエプロンのフリルからも好戦的なにおいが立ち昇らんばかりの殺気。
「今更なんのつもりだい」
荒っぽく捲し立てるのではなく、腹の底からじわりじわりと響かせるような声に、室内の目線が集中する。声を発した彼女自身と、その声を向けられている私に。
怯まず、私も口を開く。
「旦那様はもう、わたくしのことを忘れてくださいましたか」
絞り出すような風情で、しかしそれでいてその場の全員が間違いなく聞き取れる程度に、はきはきとした発音と声量で。
客席に座っていた男性陣が、物憂げに私から視線を逸らす。
「お嬢様は、わたくしが差し上げたものを、手放してくださいましたか」
同じ要領で言葉を続けると、今度は客席の女性陣が困り眉で顔を伏せた。
「アンタのそういうところが、アタシは大嫌いなのさ。アタシは、ね」
かつこつと高い足音を鳴らしながら、女が歩み寄ってくる。カウンターの椅子をひとつ、滑らかな所作で引くと、荒っぽく顎で机上をしゃくった。
「座んな。飯くらい出してやる」
しばし睨み合う。諦念、猜疑、そんなものを滲ませながら。その末に小さく息を吐いて、深い真紅の革が張られた座面に腰を下ろす。
と、背後では緊張の糸がするりとほどけ、ざわめきが戻っていった。
「で、なに食べたい?」
机上にオレンジジュースのグラスと小さなサラダが置かれる。女、もとい凛子さんは、ビニールカバーに覆われたA4のメニュー冊子を開くと、後方のページをこちらに広げて見せた。
「これ、先週から出してる新作」
右面に冷製パスタの写真、左面に縦書きでつらつらと文章が並んでいる。ご体調を崩されたあの夏の日、食欲をなくしておいででしたね。わたくしどもはなんとかして栄養を取っていただこうと……うんぬん。
このように、ひとつひとつのメニューにいちいちショートストーリーがくっついており、メイド店員たちと小芝居をしながら食事できるのが、「メイド喫茶めいめいどんどん」の売りである。地方のお好み焼き屋のような店名、ロング一択のクラシカルなメイド服、全体的にじっとりとした湿度のある世界観で繰り広げられる小芝居。観光客が迷い込もうものなら「思ってたのと違うな」と落胆させること請け合いの、珍妙なメイド喫茶である。
客とメイド間でロールプレイができるのはもちろん、メイド同士で突発的にエチュードが始まるのも、この店の特徴だ。上級者向けと言えば上級者向けだが、気に入ってくれる人はとことん気に入って通ってくれる。中には役者志望の人間が芝居の練習がてら来ているという例も少なくない。
「うん?」メニュー詳細を見ながら思わず怪訝な声が出た。「もずく?」
「そう、もずく。これが案外おいしいのよ」
あとの具材は梅ソースで和えた鳥ささみとオクラ。
頭の中で、もずくの食感やら梅の酸味やらを混ぜて、舌の上に再現してみる。なるほど、美味しいかもしれない。
「じゃ、それください」
凛子さんは左手でOKサインを作ると、厨房に引っ込んでいった。後頭部のシニヨンネットの上から垂れるシルクの黒いリボンが、さらさらと揺れる。
大学進学とともに上京してきた私は、高校時代の先輩である凛子さんの紹介で、ここで四年間アルバイトをしていた。今は週に一度ほど客として顔を出し、来店時に「のっぴきならない事情で屋敷を離れた元メイド」という設定でエチュードをすることを条件に、ドリンク・サラダ・デザート付きでタダ飯を食わせてもらっている。
凛子さんも以前はただのアルバイトだったが、すっかりハマってしまったらしく、この店の発起人が秋葉原で二号店を開くといって異動すると同時に、池袋本店の若き店長となった。専門学校で取得した調理師免許も活用できて万々歳だという。
私も大学卒業前に「社員にならないか」と誘われていたが、断った。私の夢は、ステキな旦那様の尻に敷かれること。お客の中にその候補はいないかと働きながら邪な目を光らせていたが、運命の出会いはここにはなかった。店の外にあったのだ。
就職活動のさなか、久道さんに出会った。私は恋慕した。必ず、かの金声玉振の久道さんに娶られねばならぬと決意した。
100%オレンジジュースでビタミンを摂り、ナッツが乗ったサラダをちまちまと咀嚼する。店内には「大旦那様がお好きでいらっしゃったから」とメイドが懐かしんでいる、という設定で、ピアノ演奏の音声にレコード風のぷつぷつとした加工を施したものが流されている。
しばらくして、新人メイドの春ちゃんがパスタを持ってきた。既にエプロンを脱いでいるから、シフトを終えて、まかないを食べて帰るところなのだろう。一度厨房へ戻り、トレーに同じパスタとメロンソーダを乗せて、私の隣に腰掛けた。
「いただきまーす」
にこにこと手を合わせる春ちゃんに、客席からのほほんとした保護者のような視線が向けられている。凛子さんの趣味でどんどんサスペンス風味が増しているエチュードのおかげで店内の空気は張り詰めることが多いが、春ちゃんだけはいつも明るく元気で、それが店の雰囲気をいい塩梅に落ち着けている。
二口、三口ほどおいしそうに頬張ったのち、メロンソーダのグラスを手に春ちゃんが私を覗き込んだ。
「宇摘さん、最近どうですか」
「どうとは?」
「噂の、ホラ」
と、一応客席に見えないように、私に小指を立てて見せる。古いし、女が男を指す時に使うジェスチャーではない気がする。しかし意図は伝わったため、私は「むーん」と勿体ぶって唸ろうとしたが、「むふん」と笑ってしまった。
「あっ。いい感じなんでしょう」
「まあ、まあ、まあ。ねえ。うん」
「どうなんですか、どうなってるんですか、今」
「目標にはかなり肉薄していると言っていい」
「きゃーっ」
なにせ私は私を久道さん好みの人間に染め上げてほしいのだ。あんな濃度でキャラクター設定をしたうえでプロデュースしてもらっているということは、もうつまり、そういうことである。
彼の手で彼好みの私になってゆく、この快感。なにものにも変え難い。
フォーカンのファンから瀬斗に向けられる感情も、かなり好転している。王子様をイジり倒す四人の姿がウケたのだろう。くだんのみここ氏もライブ後の投稿で「stさんめちゃくちゃイジられてて笑っちゃった。実は王子様なのにバカやってるhmくん概念、推せます。わたしの負けです。手のひら返します。トンチキMCしか勝たん(握り拳の絵文字)」とのことで、今も楽しげにフォーカンを推してくれているようだ。久道さんのMC作戦が効いたに違いない。
「いつかうちにも連れてきてくださいね」
「それはちょっとどうかな。凛子さん、たまにお母さんみたいだし、なんか妙なエチュードをおっぱじめそう」
「本当のご実家へのご挨拶の練習になりますね」
「ははあ。一理ある」
サラダを食べ終え、私もパスタに取り掛かる。皿の隅でフォークをくるくる回し、一口。つんとハリのある冷たい麺にもずくが絡み、やわらかなオクラは梅の酸味を纏って踊り、ささみの旨味がそれらをぎゅっとひとまとめにしている。凛子さんの考案メニューに隙はない。
「今日のデザートはミニフルーツポンチですよ。大きいすいかが入ったから、なくなるまでの限定メニューです。丸くくり抜くの大変だったんですよお。でも、凛子さんが余った部分でスイカジュース作ってくれました。おいしかったあ」
喋りながら器用に食べ進める春ちゃんを横目に、私は「ご実家へのご挨拶」を噛みしめていた。クリーニングに出したてのスーツ、おろしたてのシャツ、私が選んだネクタイで、うちまで来てくれる久道さん。朝から張り切って着替えてくるけれど、私の実家へ行くには飛行機に乗るんだから窮屈だろうし向こうで着替えたってよかったんですよ、なんてはにかむ私。いやあ確かにその方がよかったね緊張しちゃっていけないなあ、と頬をかく久道さん。でもいざ私の家が近づいてきたらどんどん凛々しい表情になっていく久道さん。君を幸せにする覚悟をきちんと伝えてみせるよと、その横顔が物語る。うーん、ステキ。