第1章1話 戦いの始まり
校庭の隅に泣いている子がいる。駆け寄ろうとした時には、既に彼女は動いていた。彼女はその子の話をゆっくりと聞いて、頭を撫でて、優しい言葉をかけて、涙をそっとハンカチで拭っていた。
彼女はいつもそうだった。誰かに寄り添って、たくさんの人達に手を差し伸べて、そんな彼女に俺は憧れていた。
だけど、彼女はもうこの世にはいない。
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1
スマホのアラームが部屋に鳴り響き、目を覚ます。足元にあるスマホで時刻を確認すると、六時半を示している。
まだ眠い目を擦りながら、天乃一は布団から起き上がった。カーテンを開けると、夏の太陽の眩しさに目がくらむ。畳の心地よい冷たさが際立つ程暑い日差しが、部屋の中に朝を伝えているようだった。
「支度しなきゃ」
寝ている間に蹴飛ばしたであろう枕を回収したあと、すぐにパジャマを脱いで制服に着替える。ネクタイを椅子の背もたれにかけ、襖を開けた。
洗面所に向かう前に台所に立ち寄ると、祖母がお弁当と朝食を作っていた。炊きたてのお米の香りが体にエネルギーを与えてくれる。テーブルの上には今日のお弁当が置かれていた。
「おばあちゃんおはよう」
「おはよう。もうすぐ朝ご飯も出来るから早く顔洗ってらっしゃい」
「うん、わかった。洗濯終わってたら干しておくね」
「いいのよそんなことしなくて。高校生何だからもっと遊んでなさい」
「う、うん」
祖母と少し会話をすると、すぐに洗面所に向かった。祖母は一に三年間の高校生活を楽しませるためか、手伝いをさせようとしない。しかし一には遊びに行くほどの友達がいないため、心底申し訳なく思っている。
「お弁当とハンカチ持った? 忘れ物ない? 車には気をつけるのよ。」
支度を終えた頃には登校の時間となっていた。最初は痛かったローファーもそろそろ履きなれてきた頃だ。
「大丈夫だよおばあちゃん」
「いってらっしゃい。最近行方不明の事件が増えてるらしいから、何かあったらすぐ連絡するんだよ」
「わかった。おばあちゃんも気をつけてね」
見送る祖母を背に、一は学校へと向かった。九月の前半ということもあり夏の暑さが抜けない。海が近いため涼しい風が心地よく町中を通り過ぎていく。早朝の住宅街は影になっている場所が多いため比較的快適に登校することが出来る。
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2
青藍高等学校の正門は生徒達で溢れていた。駐輪場では既に多くの自転車が止まっており、正門から入ってすぐ左側に隣接している運動場ではサッカー部が朝練に精を出している。まだまだセミが元気に声を出している中、負けじとサッカー部も気合をいれて練習している。そんな時、サッカー部の一人が蹴ったボールが、通学中の男子生徒に向かって飛んできた。
男子生徒は気づくが突然の事に困惑して、顔を腕でガードすることしか出来なかった。恐怖で目を瞑り、その場を動く事も叶わなず、ただ痛みが来るのを怯えながら待つだけ。しかし一向に衝撃がやって来ない。恐る恐る目を開くと、足元にはサッカーボール。そして後頭部を抑えてしゃがみこんでいる一がいた。
「痛ったた」
男子生徒にぶつかる直前に一が庇った。それによりボールに当たらずにすんだのだ。
「おーい大丈夫か?」
部員の何人かが、一達の元へ駆け寄る。一部始終を見ていた周りの生徒達もザワつき出し、うち何人かは二人を心配して駆け寄って来た。
「え、あ、えっと、怪我はない?」
ボールに当たったのは自分だというのに、一は男子生徒の心配をしていた。その様子に周りは頭にはてなマークを浮かべていた。
「いや、ないけど、というより君の方が怪我したんじゃ」
「これくらいなんてことないよ。それじゃあね」
一はそう言い残して、男子生徒がお礼を言う暇もなく校舎まで走り去ってしまった。そんな姿に生徒達は呆然と見ている事しか出来なかった。
周りの生徒達だけではない。教室の窓から、紫の瞳の少年がじっと一を見つめている。そんな事をつゆ知らず、せかせかと校舎へと入っていった。
その日の授業中、一は左斜め後ろから視線を感じていた。特段悪い気配ではなかったため放っておいても良かったが、気になって先生にバレないようこっそりと振り向く。視線の正体はクラスメイトの矢車優だった。
彼の紫の瞳は一の……特に後頭部を捉えて離さない。しかし一が振り向いた事に気がつくと、すぐに黒板に視線を向け直した。
(なんなんだろう)
不思議に思いつつも、すぐに黒板に目を移した。
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3
下校の時間。教室で終礼を済ませるとまっすぐ家に向かって帰宅する。バイトは禁止されており、部活もやっていないため帰っても課題をする以外にやる事はない。学校に居座る理由もないため、真っ直ぐ帰路に着く。いつも通りの通学路、そのはずだった。先の方からドリルの音、赤い三角コーンと看板のような物が見える。近づかなくても工事中という事がわかった。仕方がなく、少し遠回りして帰る事にした。
後頭部にはまだ痛みが残っているが、いつも通り痛くないふりをして町中を歩いていく。普段と違う道で帰宅する事は思っていたより新鮮で悪い気分ではなかった。むしろちょっとした冒険のように思えてわくわくしてくる。辺りを見渡しながら歩いていると、見慣れない喫茶店を見つけた。
二階建てということは恐らく住み込みだろう。紺色の壁に白の柱が落ち着いた雰囲気を醸し出している。今度の休みに行ってみようかなと考え、喫茶店を横切った。
その直後、一の体を激しい痛みが襲った。
(何、急に……体中熱い……寒い)
震えが止まらないほどの寒気と、内部から湧き上がってくる熱。あべこべな二つの感覚が同時に全身を蝕む。呼吸も苦しくなり、立っていられなくなるほどの苦痛が全身を襲う。それはまるで、骨、筋肉、内臓が溶かされては別の何かといれ替えられている、そんな感覚だった。
そしていつの間にか気を失い、その場で倒れてしまった。
「あ……」
一が倒れてすぐ、一人の少年が駆け寄った。一のクラスメイト、矢車優が。
「ん……」
目を覚ますと、知らない天井が映った。はっきりしない意識と体を何とか起こして、辺りを見渡す。
白い壁に黒みがかったフローリングの床。壁の隅には小さなタンスに花瓶だけ。誰かの寝室というよりかは、客間のように内装がシンプルだ。
どうして自分がこのようなところにいるのか。
確か喫茶店の前を通った矢先、体中をこれまで味わったことのない激痛に襲われた。
そこからの記憶がない。おそらく気を失ったと予想する。だが道端で倒れたはずが、なぜ今白いベッドの上にいるのか。そもそもここは誰の家なのか。
「あ、目覚めたみたいだね」
考えていると声が聞こえた。振り向くとドアの方に髪の長い若い女性が立っていた。
「えっとあなたは? それにここって」
「君が私のお店の前で倒れてたからここまで運んで来たんだよ、天乃一君」
名前を呼ばれドキッとした。目の前にいる女性とは一切面識がない。それなのに何故知ってのるのか。
「矢車優って知ってるよね。君のクラスメイトだと思うんだけど、」
「あ、はい。知ってます」
「あの子私の従姉弟でね、君を見つけたのも彼なんだよ。あ、私は雛菊姫華」
従姉弟、そう聞くと少し目元が似ている気がした。ただ雰囲気に関しては真反対だ。少なくとも一の知っている範囲では優が喋っているところを見た事がない。教室ではいつも一人でじっとしている事が多い。反対に姫華は明るくもどこか落ち着いた雰囲気の女性だった。
「あ、そうなんですか。それでその、矢車君は?」
「あーちょっと出かけちゃってね。それより体はどう? 痛いとこある?」
そう言われて、自分の体に意識を向ける。意識を失うほどの激痛に襲われたにも関わらず、今は全く痛みなんて感じない。それどころか、ボールをぶつけた時の痛みすら消えてる。
少し休んだだけで、こんなに回復するのだろうか。
「もう大丈夫です。長居もあれなので、おいとまさせていただきます」
「え、本当にもうなんともないの? 一応もう少し休んでからの方がいいんじゃない?」
「いえ、自分でももうびっくりするくらいなんともないんです。助けてくれてありがとうございました」
「お礼なら優に言ってよ。私は何もしてないからさ」
一はベッドから立ち上がる。姫華は壁際に置いてある一の荷物を手渡し、二人は部屋を後にした。
外に出て振り返ると、そこには先程見た紺色の壁の喫茶店があった。
「矢車君の家って喫茶店だったんですね」
「そうだよ。て言ってもお客さん少ないけどね。だから気軽に遊びにおいで。あと、優のことよろしくね」
「はい。ありがとうございました」
姫華に礼をし、その場を立ち去っていく。空は夕方のオレンジと夜の紺が混じった不思議な色をしていた。二つの空が混ざり合う薄明の下、祖母の待つ家へと帰宅した。
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4
次の日、寝坊した。祖母の呼びかけで目を覚ました時は、頭が一気に冷めていく感覚がした。
「いってきます!」
ドタドタと慌ただしい音が玄関に鳴り響く。急いでローファーに足を入れる。落ち着きがないといつものようにすんなりと履くことが出来ない。
「車に気をつけてね」
祖母に見送られ、勢いよく家から飛び出し、学校へ向けて全速力で走る。
朝礼に間に合うよう必死に住宅街を駆けていく。そんな時、ふと違和感を覚えた。いつもより足が軽く感じる。風の勢いが普段よりも強い。こんな速く走れただろうか。
自分の足を不思議に見ながら走っていると、目の前に工事中の看板が見える。よそ見をしていて気が付かなかったが、この辺りは今通れないようになっていた。
勢いに任せて走っていたために止まれない。不幸中の幸いか今は人がいないため誰かと衝突する心配はない。そう安堵しているうちに看板が目前に迫る。回避のために反射的に天高くジャンプした。すると、信じられない事が起こった。なんと工事現場を飛び越えてしまったのだ。範囲は家二軒分もある。そんな距離を普通の人間が飛び越えられるはずもない。それなのに一は一回のジャンプで向こう側の三角コーンまでたどり着いてしまったのだ。着地した瞬間、一瞬思考が止まった。自分でも信じられなかった。一自身普通くらいの運動神経をしているため、自分にここまで跳躍力があるなど微塵も思っていなかった。
(い、一体どうなってるの?)
不気味に感じつつも、遅刻を免れるべく一旦保留して学校へと駆け出した。
一限後の休み時間。一は優に礼を言うため、机のそばまで足を進めた。優は頬杖を立てながら、ぼうっと外を眺めている。優は誰とも関わらずこうして外を眺めている事が多かった。
「えっと、矢車君。その、昨日は助けてくれてありがとう」
その言葉に優は振り返って一をじっと見つめる。優の紫の瞳は長い前髪のせいで少し隠れている。何かを伝えようとしたのか、僅かに閉ざされていた口が開く。だがすぐに閉ざして、一に何も声をかけずに席を後にした。そうして賑やかな声が響く廊下へと姿を消した。
(気、悪くしたかな)
そんな一抹の不安を抱えながら、気がつけば下校の時間となっていた。
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5
その日の放課後も、一はいつも通り家に向かって歩いていた。朝のような慌ただしさもなく、穏やかにゆっくりと。夕方の涼しい風が心地よく肌を撫でる。
(明日はお礼ってことでお菓子でも持っていこうかな)
どんなお菓子が良いのか、何が好きなのか、そんなことを考えていると耳なじみのない音が聞こえた気がした。不思議に思い、辺りを見渡しても誰もいない。それでも確かに聞こえてくる。段々どの方向から聞こえてくるのか、どんな音なのか判別がつくようになってきた。それはまるで怪物のように禍々しい生物の声。ギリギリと軋むような耳障りな音。
今いる住宅街から遠く離れた位置から聞こえた。丁度町外れの工場地帯の辺りだ。しかし今いる場所からはかなり距離がある。そもそも正確な場所まで判断出来ること自体がおかしい。そんな疑問を持ちながらも一はその場所へ走った。
(なんで今走ってるんだろう。けど何故か行かなきゃならない気がする)
理由はわからない。ただ本能的に行かなければならないように思えたのだ。
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6
「何、あれ?」
廃工場の中に入ると、天井に大きな蜘蛛の巣ができていた。それは屋根の半分、それこそ人間ですら捕まえられそうな程巨大だった。
巣には人一人程の大きさの繭のような物体が二つ確認出来る。
「これって一体」
謎の巨大な蜘蛛の巣に動揺していると、真上から異様な気配を感じ、顔を上げると、なんとそこには"蜘蛛のような姿の怪物"がいた。腕は六本も生えており、見るからに筋肉質だった。顔にはキバのような顎と六つの眼球がある。蜘蛛が巨大化してそのまま人型に近い怪物となった、というような見た目をしていた。
「うわぁぁぁ!」
驚きのあまり大声を上げてしまった。それに気づい怪物は奇声を上げながら真っ逆さまに落下してきた。怪物は二足歩行でジリジリと距離を詰めてくる。
(は、早く逃げなきゃ!)
そう頭では考えていても、足が震えて思うように動けない。まるで金縛りにあったかのように恐怖で体が硬直している。
どうしようかと思考を巡らせているうちに、怪物は飛びかかってきた。咄嗟に腕を前に出し、目を瞑る。
すると、三日月型の斬撃が怪物を吹き飛ばした。怪物は壁にぶつかり、その場に項垂れている。怪物の肩にできた切り傷からは黒い血液がドロドロと流れ出していた。
「何?」
斬撃が飛んできた方を向くと、そこには"龍のような仮面をしている騎士"が立っていた。腰にはベルトをし、右手には剣を持っている。全身に鎧を纏っており、黒い鱗のような装飾や紫のラインが騎士のような気高さを際立たせている。
騎士は一を一瞥すると、ゆっくりと怪物に歩みはじめた。
怪物は威嚇するように喉を唸らせ、騎士に襲いかかる。鋭い牙のついた顎で肩に噛み付く。噛み付かれた箇所にネバネバした粘液が染み付き、硬い鎧を噛み砕こうとガリガリとキバを押し付けている。
騎士は怪物の攻撃をものともせず、右手に持っている剣で何度も胴を切り裂く。その度に黒い血液が飛び散っている。
(何なんだ……一体)
目の前の光景が現実なのか、まだ信じられずにいた。蜘蛛の怪物、龍の騎士、まるでアニメの中に入ってしまったかのように思えた。
非現実的な出来事に気を取られていると、天井の巣にある繭を突き破り、新たに二体の怪物が出てきた。
見た目は蜘蛛の怪物に酷似している。目玉と腕は四つと、その見た目は怪物の子供ともとれるようなものだった。今暴れているのが母蜘蛛ならば、新たに出現した二体は子蜘蛛といったところだろう。
「ふ、増えた……」
新たに出現した二体は一に向かって歩み寄る。戦士もそれに気づき、止めようとする子蜘蛛に向けて足を進める。が、場を離れようとすると母蜘蛛が執拗に足止めしてくるため、近づくことが出来ない。
ジリジリと距離を詰める子蜘蛛。その顎からヨダレのような粘液がズルりと垂れている。守ってくれる者はもういない。今度こそもう終わりだと、一は悟った。
(ここで……死んじゃうのかな?)
命の危機に心臓の鼓動は早くなる。絶望的な状況に諦めの感情が芽生えたその瞬間、一の中で過去の出来事が走馬灯のようにフラッシュバックする。
公園での追いかけっこ。
些細な喧嘩。
祭囃子の響く神社。
彼女との出会い。
励まされたあの日。
庇ってもらったあの日。
理不尽に苦しめられていた日々。
誰もいない教室で流していた彼女の涙。
いなくなったと知らされたあの日。
机の上の花瓶。
彼女だけがいない教室。
首をつれずにただ泣き叫んだあの日。
夕日の光さす浜辺。
彼女の最後の言葉。
「これからも……誰かを救い続けて欲しいの……」
その言葉にハッと我に返る。あの日の約束、彼女に託された最後の願いを。
(まだ、終われない。約束したから、誰かを救い続ける事が……俺の生きる理由だから!)
自らの使命を改めて決意したその時、突然一の腰に龍の戦士と同じベルトが出現した。中心に円形の窓があり、左右の複数の管と繋がっている。上部はインク瓶の縁のような形をしており、中を覗くと青白いインクがベルトの中を満たしていた。そして同時に右手に光が集まっていく。
「な、何?」
あまりの光に怪物達も目が眩んだ。
龍の戦士も異変に気づき、一に目を向ける。
(あれは……)
光はやがて、羽根ペンの形になり、一の手のひらにおさまった。煌びやかな光を放ち、羽の白には空のように澄んだ青が混ざっている。
「え、これ……」
戸惑う一を目の前に、二体の怪物が戦闘体勢に入る。
「使えってこと?」
使い方は何故か頭の中に入っていた。どうして分かるのか、この際どうでもいい。今確実なのはあの怪物と戦わないと、自分や町の人々が危険に晒されてしまうという事だけだった。戦えと、自身の生存本能がそう呼びかけてくる。
羽根ペンをベルト内部のインク浸す。先端に青白い光が宿る。その光を地面に垂らすと、青白い光のインクが地面から竜巻のように現れ、一を飲み込んだ。インクが全身に纏わりつき、その形を鎧に変える。竜巻が消えると、そこには新たな戦士が立っていた。
青みがかった騎士のような白い鎧。一角獣を思わせる仮面。後頭部には青いタテガミ。そして右手に持っていた羽根ペンは、鋭く尖った剣に姿を変えていた。
それが、一が変身した姿だった。