第八章:まもるもの
春の風が、森の奥まで吹きぬける。
教室の窓が開いていて、木の葉が一枚、風に乗って舞いこんできた。
「ねえ、クマくん。また見つけたよ」
小さなキツネぐるみの子が、手のひらを広げて見せたのは、
しろいノートの切れはしだった。
それは、この学校の“わすれるじかん”にだけ配られる、特別なノート。
誰のものかはもうわからないけれど、そこには
鉛筆の淡い筆跡で、こう書かれていた。
「ぼくは、忘れたくなかった」
クマくんはその文字をじっと見つめた。
毛皮の奥、胸のずっと奥――“かつてのぼく”と“いまのぼく”の境目が、
やさしく揺れていた。
「それ、ぼくが拾って保管しておくね」
そう言って受け取る自分の声は、どこか“ふたり分”の響きを持っていた。
⸻
最近、クマくんは“新しく来る子”のサポート役を任されるようになっていた。
ししょくせんせいに呼ばれて、玄関に立ち、
制服姿の子どもが初めてこの学校へ足を踏み入れる瞬間を、
やさしく迎えるのが仕事だった。
「こんにちは。ここは大丈夫だよ」
「こわかったら、一緒に歩こう」
かつて、誰かが自分にかけてくれたように。
今は、ぼくがその“誰か”になっている。
そして、着ぐるみを初めて着る子たちの不安や戸惑いに、
クマぐるみの腕を広げて応えている。
けれど、誰にも言っていない。
自分の中には、もう完全に区別のつかないふたりのぼくがいて、
ずっと静かに、そして確かにこの身体を動かしていることを。
⸻
夜。
ひとり、教室に残っていると、あの白いノートの束が目に入った。
ふと、手が勝手に開いたページの一枚に、見覚えのある文字があった。
「忘れても、きみがいるなら、きっと大丈夫」
その言葉を読んだ瞬間、胸の奥にあたたかな感触が広がる。
それは、かつての“ぼく”が最後に書いた言葉だったのかもしれない。
あるいは、“いまのぼく”が誰かに渡すために書こうとしていたのかもしれない。
もう、どちらでもよかった。
いま、こうしてこの学校にいて、
誰かを迎え、誰かを見送り、
そしてまた、新たな記憶を宿していくクマぐるみとして――
ぼくは、生きている。
⸻
春が終わるころ、ししょくせんせいがぼくに言った。
「クマくん。君は、よくやってくれたね。
そろそろ、“次の場所”へ進んでもいい頃かもしれないよ」
ぼくは、少しだけ考えてから、ゆっくり首を横に振った。
「もう少し、ここにいたいです。
まだ、迎えたい子がいる気がするから」
先生は微笑んで、うなずいた。
「……そうか。じゃあ、君の席は、まだ残しておくよ」
⸻
森の小学校。
教室の一番奥。
窓ぎわの席に座るクマぐるみの子が、今日もそっと目を閉じている。
その胸の奥には、ふたり分の記憶とやさしさが眠っていて――
誰かが泣きそうな顔で入ってくるのを、静かに、静かに待っている。